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零時のログ  作者: 橋本陽


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9/36

3-2

「静香、先に風呂行くって」

 航は結菜に言いながら、視線を梨央に投げた。梨央は気づかないふりをする。気づかないふりの中に、怒りがある。

「……結菜、話せる?」

 航が言う。

 話せる? ここで? 今? 結菜は答えられなかった。答えられない自分に焦る。焦りが喉を詰まらせる。

 静香は、結菜たちを一瞥もせずに廊下を歩いていく。背中がまっすぐで、迷いがない。迷いがない背中ほど怖いものはない。


 部屋に戻ると、封筒は鞄の中で角を出していた。

 結菜は畳に座り、鞄を開けた。封筒を取り出す。

 表紙の文字をもう一度見る。

『同意書/透明化テスト』

 透明化。見えなくする。見えなくされる。

 結菜は封筒を裏返した。宛名も差出人もない。封の部分だけが固い。開けない方がいいと言われた。開けない方がいい、と言われると開けたくなる。開けたくなる自分が怖い。

 結菜は封筒を開けずに、手のひらに乗せたまま立ち上がった。


 廊下に出ると、時計が二十一時十三分を指していた。結菜はスマホを見た。二十一時十。やっぱり三分。

 結菜は共同保管箱へ向かった。二階廊下の端から階段を下り、食堂脇へ。夜の宿は音が少ない。木がきしむ音と、どこかの配管の水の音だけ。

 保管箱は木製で、上段に浅い引き出し、下段に深い引き出しがある。引き出しには番号が振られていない。誰のものでもない、という顔をしている。誰のものでもない場所ほど、誰のものにもなってしまう。


 結菜は浅い引き出しを開けた。中にはすでに封筒が二つ入っている。見ないふりをした。見ないふりが増えるたびに、怖さも増える。

 自分の封筒を置こうとして、結菜の指が止まった。

 ここに置いた瞬間に、自分の手を離れる。手を離れたら、誰かが触れる。触れられるのが怖いから、置く。置くことで、触れられる。矛盾しているのに、合理的でもある。


 結菜は封筒を引き出しの奥に滑らせた。奥に入れたのは隠すためじゃない。落ちないように、ただ安定させたかっただけだ。

 引き出しを閉めると、木が小さく鳴った。

 その音が、妙に大きく響いた。


 背後で、足音がした。

 結菜は振り返った。


 修が立っていた。廊下を歩くときの音が少ない。さっきもそうだった。気配だけが先に来る。

「……入れた?」

 修が言う。

「うん」

 結菜は頷いた。頷きながら、なぜ自分が修に報告しているのか分からなくなる。

 修は小さく息を吐いた。

「ありがとう。——今夜は、開けないで」

「どうしてそんなに——」

「今開けると、結菜さんは“正しいこと”をしようとする」

 修の言葉は、梨央と同じ角度だった。結菜は胸が痛くなる。自分が“正しい”で人を傷つけることを、周囲が知っている。周囲が知っているということは、起きたことなのだ。


 結菜は口を開こうとして、閉じた。

 代わりに、聞いた。

「静香って……何者?」

 修は答えない。答えないまま、保管箱に視線を落とした。

「……親友」

 それだけ言って、修は廊下の奥へ歩き去った。

 親友。誰の親友。

 結菜の胸の奥で、答えが勝手に形を取りそうになる。形を取らせたくない。形を取らせたら、今度は自分が“正しい”を振り回してしまう。


 部屋に戻る廊下で、結菜は壁掛け時計を見上げた。二十一時四十六分。スマホは二十一時四十三分。ズレは変わらない。変わらないズレは、意図的だ。意図的なら、意味がある。

 意味があるズレは、誰かのためのズレだ。


 結菜が襖を閉めたとき、廊下の向こうで足元灯がふっと点いた気がした。気がしただけかもしれない。

 結菜は耳を澄ませた。音はしない。

 ただ、秒針の音だけが聞こえる。


 カチ。カチ。カチ。


 結菜は思った。

 この宿は、声で人を縛らない。

 紙と時計とルールで縛る。


 畳に座り、結菜は受領確認書の控えをもう一度見た。

 署名。控え。合意の代替。

 自分が書いた自分の名前が、今は鍵に見える。鍵は二本しかないのに、鍵になる紙は全員が持っている。

 自由はある。任意だ。選べる。

 そういう形で、選ばされる。


 封筒はもう自分の手元にない。

 それなのに、封筒の文字が頭の中に残って離れない。


 透明化テスト。


 結菜は目を閉じた。

 “本当の中身”は、まだ見ていない。

 見ていないのに、見られている気がした。

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