【第3章 封筒の存在/保管箱】3-1
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静香の視線が、封筒の角に刺さったまま動かない。
結菜は反射的に鞄の口を手で押さえた。遅い。押さえたという行為そのものが「そこにある」と言っている。
「……知ってるの?」
結菜はようやく声を出した。声が自分の耳に遠く聞こえる。
静香は結菜の質問にすぐ答えず、箸を取っていない手をテーブルの上に置いた。手のひらは伏せている。爪は短い。飾り気がない。飾り気がないのに、手の形が“決意”みたいに見える。
「知ってる、っていうか」
静香は言って、航を見た。
「——それ、ここに持ってくるって決まってたから」
結菜は航を見た。航は目を伏せたまま、水のコップに指を添えている。指先が白い。
梨央が椅子の背にもたれて、わざと明るい声を出した。
「静香、いきなり飛ばしすぎ。ごはん冷める」
修は箸を取ったが、食べない。食べないのに、箸先だけが皿の上を彷徨う。
峰岸は食堂の奥で鍋を洗っている。水の音が規則的で、会話の隙間を埋めるように続く。
結菜は箸を取り、焼き魚をほぐした。身が湯気を立てて白い。白いのに、喉を通りそうにない。
何か口に入れないと、言葉が出ていってしまう気がした。言葉が出ていってしまうのが怖いのか、言葉が出ていかないのが怖いのか、自分でも分からない。
「透明化テストって……何」
結菜が言うと、空気が一段重くなった。
箸が止まる。皿と箸が触れる音が消える。峰岸の水音だけが残る。
航が先に口を開いた。
「……昔の、くだらない話だよ」
くだらない。航がそう言うとき、くだらないのは出来事じゃなく、それに触れたくない自分の心の方だ。結菜は知っている。知っているのに、航がそう言えば「くだらないこと」に分類されてしまう。
静香が、ほんの少しだけ首を傾けた。
「くだらない、で済ませるんだ」
声は静かで、責める響きは薄い。なのに、逃げ道を塞ぐ言い方だ。
梨央が割って入った。
「静香。結菜は何も知らない。だから、順番」
「順番?」
静香は笑いもしない。
「順番があるの? あのときにはなかったのに」
その一言で、結菜の背中が冷たくなった。
あのとき。誰のあのとき。何のあのとき。
修が箸を置いた。音が小さく響く。
「……結菜さん」
修は結菜を見た。視線は真っ直ぐなのに、言葉が回り道をする。
「今は、全部知らなくていい。だけど、ここにあるものを“安全な場所”に置いてほしい」
「安全な場所?」
「ここは、紙が強い」
修の言い方が奇妙だった。紙が強い。紙が何をするというのか。けれど結菜は、封筒が畳の上にあるだけで空気が変わるのを知っている。紙は強い。強いのは、書かれている言葉の方だ。
静香が淡々と言った。
「同意書は、読むためにある。でも、読む“順番”を間違えると、また同じことが起きる」
「同じことって?」
結菜が尋ねると、静香は答えない。
答えないことが、答えだった。言葉にしたら終わる種類の答え。
航が小さく言った。
「……やめよう。今は飯、食べよう」
航の「今は」が、結菜にはいつも「後で」には繋がらない言葉に聞こえる。今は、が続いて、結局ずっと今のまま。
結菜はその不信を、自分で嫌悪した。嫌悪しながら、胸の奥に残した。
峰岸が近づいてきて、空いた皿を下げた。
「お口に合いますか」
梨央が笑顔で答える。
「最高です。山のごはんって感じ」
峰岸は一礼し、そして何気なく言った。
「夜間、共同保管箱をご利用ください。紙類や貴重品は、任意ですが、推奨しております」
共同保管箱。
その言葉に、静香の目が僅かに動いた。修が息を吐いた。梨央が結菜を見た。航は峰岸を見ない。
食堂の隅、壁際に木製の棚がある。最初に入ったときは、調味料置き場かと思って気に留めなかった。棚には小さな札が付いている。
『共同保管箱(任意)』
その下にさらに小さく、
『防災上、紙類・貴重品は夜間こちらへ』
と書かれている。
結菜は、妙な笑いが出そうになった。ここまで来て、封筒を置く場所まで指定される。
でも、指定された方が楽な自分もいる。どこに置けばいいか決めてくれれば、選ばなくて済む。選ばなくて済むことが、ここでは一番危険なのに。
夕食は、味がしないまま終わった。味噌汁の熱さだけが喉に残る。
食堂を出ると、廊下の空気が少し冷えている。
ロビーの壁時計は十九時四十八分を指していた。秒針が音を立てて進む。結菜は無意識にスマホを見た。圏外のまま、時計だけが十九時四十五分。
三分。
結菜は目を細めた。偶然のズレかもしれない。でも、さっき峰岸は「館内時計が基準」と言った。基準がズレているとしたら、ズレている方が正しいことになる。
正しいことになる。
その言い回しが、胸に刺さる。
梨央が靴を鳴らさないように近づき、結菜の袖を引いた。
「結菜、ちょっと」
梨央はロビーの端、写真のない壁の前に結菜を連れていった。
「封筒、部屋に置かないで」
「なんで」
「……誰かが触れるから」
「鍵、あるでしょ」
「鍵、二本しかない」
梨央が言い切ると、結菜は言葉を失った。鍵が二本しかないことは、単に不便だと思っていた。でも、こう言われると意味が変わる。鍵が二本しかないということは、鍵が誰の手にあるかで、誰の部屋が“開けられる”かが決まる。
合意があれば例外。控えの提示で代替する。
ルールが揃って、鍵が二本。
偶然じゃない。
「修も、静香も、峰岸さんも……みんな、封筒のこと分かってる」
梨央の声が小さく震えた。
「だから、置き場所はここ」
梨央は顎で共同保管箱を示した。
「ここに入れたら、安全なの?」
「安全って言い方、嫌だけど……少なくとも、“誰が触ったか”の範囲は狭くなる」
梨央の言葉は、守るための言葉だ。守るための言葉は、同時に誘導でもある。結菜はそれを分かっていながら、頷きたくなる。
「……任意、なんだよね」
「任意。だから、結菜が決める」
梨央が言う。珍しく、結菜に選択を返してくる。返してくるのが、逆に怖い。
結菜は小さく頷いた。
「入れる」
梨央の肩がほんの少し落ちた。安堵の落ち方だ。
そのとき、航がロビーの反対側から近づいてきた。




