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零時のログ  作者: 橋本陽


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【第8章 推理①】

 昼食まで自由時間、と峰岸は言った。自由時間と言われても、自由にできる気がしない。自由は、選べるという意味だ。選べるということは、選ばされるということでもある。

 結菜は二階の部屋に戻り、畳の上にノートを広げた。スマホは圏外。だからこそ、紙に書く。紙は強い。修が言った通りだ。紙は、人の頭の中にあるものを外に出してしまう。


 結菜はまず、事実だけを書いた。


 ①封筒(同意書/透明化テスト)がある

 ②中身のページ番号が飛んでいる(「6」の次が「8」)

 ③昨夜、廊下の足元灯が点いた(結菜と航が目撃)

 ④制御盤ログ:00:00/00:04/00:10(Corridor-2F ON)

 ⑤館内時計は実時刻より三分進んでいる可能性(結菜のスマホと差)


 書いて並べると、簡単なようで簡単じゃない。

 結菜はペン先を止めた。

 問題は二つある。

 一つは、誰が廊下に出たか。

 もう一つは、誰がページを抜いたか。


 ——いや。

 結菜は自分のノートに線を引いた。

 「誰が」ばかり考えるのは危ない。静香が言っていた。“犯人”という言葉は便利だ。便利だから、結論が先に来る。結論が先に来ると、都合のいい証拠しか見なくなる。

 結菜は、結論を先に決める癖がある。正しさのために。

 その癖が、二年前に何かを壊したのだとしたら——。


 結菜は深呼吸し、「何が起きたか」を考えることにした。


 ページが抜かれている。

 抜いたのは、内容を見せたくなかったから。

 見せたくなかったのは、誰かにとって不利だから? 危ないから? あるいは——“空気”が動くから。


 結菜は封筒の表紙だけを思い出した。

 「同意書/透明化テスト」

 同意書。つまり、ルールが書かれている。

 ルールは人を縛る。

 縛るから、安全になる。

 安全になるから、従う。

 従うから、壊れる。


 壊れる。

 静香の口から出た言葉が、結菜の頭の中で重く響く。



 結菜がノートに向かっていると、襖が軽く叩かれた。

「結菜」

 梨央の声。

「入っていい?」

 結菜は「うん」と答えた。答えながら、返事が“合意”になっていないかと一瞬思ってしまう。ここに来てから、結菜は何にでもルールを見てしまう。


 梨央は部屋に入ると、まず結菜のノートを見た。見てから、ふっと笑った。

「やっぱり書くんだ」

「……落ち着くから」

「落ち着くために書くの、危ないときあるよ」

 梨央の言い方は、責めるでも褒めるでもない。忠告。

 結菜は「分かってる」と言いそうになって、やめた。分かっていないから、こうして書いている。


「静香と話した?」

 梨央が聞く。

「少し」

「静香、怖い?」

 結菜は即答できなかった。怖いという感情は単純だけれど、静香に対して抱いたのは怖さだけではない。

「……怖い、というより。——決めてる感じがする」

「うん。決めてる。たぶん」

 梨央が言って、視線を落とした。

「でも、決めてるのは静香だけじゃない」

 梨央の言葉に、結菜は顔を上げた。

「どういう意味」

「峰岸さんも。修も。航も……」

 梨央は最後の名前で少し言い淀んだ。

「そして私も。——結菜を守るって決めてた」

 守る。

 その単語が出た瞬間、結菜の胸がひりついた。静香の「便利」という声が頭を掠める。守るため、は便利だ。

「守るって、何から」

 結菜が問うと、梨央は答えない。答えないのに、結菜は分かってしまう。

 ——二年前の何かから。

 ——結菜が“正しい”を言ってしまうことから。

 ——あるいは、結菜が自分を嫌いになることから。


「結菜」

 梨央が言う。

「封筒、抜かれてたんだよね」

「うん」

「それ、たぶん……」

 梨央は言いかけて止めた。止めたことが、結菜には分かる。言えば誰かを指してしまうからだ。指すと、結菜の正しさが動く。

 梨央は言葉を選び直した。

「……あの一枚は、“誰かを守るため”に抜かれた」

 結菜は笑いたくなった。守るため。便利な言葉。

 便利なのに、梨央が言うと胸が痛い。梨央は本気で守ろうとしている。それが余計に厄介だ。善意は否定しづらい。否定しづらい善意ほど、人を縛る。


 結菜はノートを指で叩いた。

「じゃあ、守るために抜いた人がいる。——でも、それって同意書の“ルール”を変えたってことだよね」

「変えた?」

「ページが欠けたら、文書の意味が変わる」

 結菜の声が少し硬くなった。硬くなるのを自覚して、結菜は息を吐いた。

「つまり、盗まれたのは……罪の証拠じゃない。ルールそのものだ」

 梨央は黙った。黙って、結菜の言葉を噛みしめている。

 結菜は続けた。

「ルールが変われば、空気が変わる。空気が変われば、誰かが悪くなる」

「……誰かが悪くなる」

 梨央が繰り返す。

「そう」

 結菜は頷いた。

「だから、ページを抜いた人は“犯人”じゃないかもしれない。でも、——構造を動かした人ではある」

 結菜は自分の言葉にぞっとした。構造を動かした人。そんな言い方をした瞬間に、ここが“実験室”になってしまう。

 でも、静香は「同じ構造が起きてる」と言った。なら、ここは実験室だ。最悪だ。


 梨央が言った。

「で、結菜はどうしたい」

 結菜は答えられなかった。どうしたい、という問いは、正しさを要求する問いだ。結菜はいつも正しさで答えてしまう。

 結菜は代わりに言った。

「まず、事実を増やす」

「事実」

「ログは見た。次は、“例外”の運用」

 梨央が眉を寄せる。

「合意があれば例外、ってやつ?」

「そう」

 結菜は受領確認書の控えを取り出した。薄い紙。自分の署名。航の署名。

 結菜は控えの隅の小さな文言を指でなぞった。

「合意の確認:署名控えの提示をもって代替する」

 梨央が顔をしかめる。

「……控え見せたら、合意ってことになるの?」

「そう運用されてる」

「誰が決めたの、それ」

 結菜は静香を思い浮かべた。でも静香が決めたとは断定できない。峰岸かもしれない。峰岸が作った宿のルールかもしれない。

 結菜は正直に言った。

「分からない。でも、“この宿では”そう」

 梨央が唇を噛む。

「じゃあ、昨夜廊下に出た人は——控えを提示した?」

「可能性がある」

「峰岸さんが確認した?」

「そこも分からない。でも、例外適用の際は受付に声をかけるって書いてある」

 結菜はノートに書き足した。

 ⑥例外適用=控え提示+受付確認(建前)

 ⑦実運用は不明(受付を通さずに動ける可能性)


 梨央が呟く。

「……じゃあ、誰でも動けるじゃん」

 結菜は首を振った。

「誰でも、じゃない。——“動いたことを正当化できる人”」

「同じじゃん」

「違う」

 結菜は言い切ってしまいそうになり、声を落とした。

「正当化できる人って、強い。強い人が動けば、動いたことが正しくなる」

 梨央は黙った。

 結菜は思った。二年前も、きっとそうだった。誰かが言った言葉が“正しい”ことになった。正しいことになった言葉が、誰かを押し潰した。



 昼食の時間になっても、結菜は食欲がなかった。

 食堂に集まると、峰岸がいつも通りの手際で皿を並べた。手際がよすぎる。よすぎる手際は、人の感情を無視する手際だ。

 静香は結菜たちを一瞥し、箸を取らないまま言った。

「結菜さん、ノート書いてる?」

「……うん」

「見せて」

 結菜は反射的にノートを抱えた。見せたくない。見せたくないのに、見せない理由がない。理由がないのが怖い。

 結菜が迷っていると、静香は淡々と付け足した。

「見せないのも自由。——ただ、見せない自由がある場所は少ない」

 結菜は静香を見た。静香の言葉は刺す。刺すのに、正しい。正しいからこそ危険だ。

 結菜はノートを渡さなかった。代わりに言った。

「推理だけ言う」

「いいよ」

 静香は頷いた。頷きが軽い。軽い頷きは、許可だ。許可は合意になる。

 結菜は自分の言葉が、さっきからどんどん“合意”に絡め取られているのを感じた。


「ページを抜いたのは、誰かを守るためかもしれない」

 結菜が言うと、修が僅かに目を伏せた。

 静香は表情を変えない。

 結菜は続けた。

「でも、守るために抜いたなら、抜いたのは罪を隠すためじゃない。——ルールを変えるため」

 梨央が結菜の横で小さく頷く。

 航は黙ったまま味噌汁を飲んだ。

 静香が言う。

「そう。盗まれたのは罪じゃない。——『沈黙をどう扱うか』っていうルール」

 結菜は息を止めた。

 静香は、抜かれたページの内容を知っている。

 知っているのに、言わない。言わないことが、ここでは意味を持つ。

 結菜は思った。静香が言わないのは、焦らしているからじゃない。言えば空気が動くからだ。空気が動けば、誰かが壊れるからだ。

 静香は壊したくない。終わらせたい。だから言わない。


 静香が続けた。

「そして、もう一つ。合意があれば例外、ってルール」

 結菜は頷いた。

「合意は控え提示で代替できる」

「そう」

 静香は結菜の言葉を受け取った。受け取って、噛み砕くように言う。

「つまり、言葉での合意じゃない。紙の提示で合意になる。——それって何」

 結菜は答えた。

「合意の偽装が簡単になる」

 修が小さく息を吐いた。

 航の指がコップを掴む。

 梨央が静香を睨む。

 静香は平然としている。


 修が突然、言ってしまった。

「それ、あった方がみんな壊れる」

 食堂の空気が止まった。

 修の口から出た言葉は、本人の意思より先に落ちた石みたいだった。

 結菜は修を見た。

「……どういう意味?」

 修は一瞬、言葉を探した。探して、見つからない。

 静香が修を見て、淡々と言った。

「ほら。——知ってる」

 修の喉が鳴る。

 航が「修」と名前を呼びかけたが、修は首を振った。

 梨央が修に言った。

「修、何を知ってるの」

 修は答えない。答えない沈黙が、結菜の胸を掻く。

 結菜は思った。修は今、沈黙している。沈黙しているから疑われる。疑われるから追い詰められる。追い詰められると、二年前の構造が再現される。

 静香は、それを見せたいのだ。見せて、止めたいのだ。


 峰岸が皿を下げに来た。峰岸は修の一言を聞いていたはずなのに、顔色を変えない。

 峰岸は淡々と言った。

「皆さま。午後から風が強まる予報です。外の道が荒れる前に、必要な物があれば買い出し等を——」

「ここから出られるんですか」

 梨央が刺すように言った。

 峰岸は一拍置いて答えた。

「可能です。ただし、山道は狭い。——無理はしないでください」

 可能。

 可能という言葉も便利だ。

 静香が小さく笑う。

「可能、ね」

 梨央が立ち上がりかける。

「静香、いちいち——」

 静香は梨央を見て言った。

「言葉を便利に使ってきたのは、私たちでしょ」

 梨央が黙る。黙ると負けたみたいになるから、黙れないはずの梨央が黙った。

 結菜はその沈黙に気づく。梨央は怖いのだ。自分の“守る”が刃だったと認めるのが。


 結菜はノートを閉じた。

 推理は少し進んだ。

 盗まれたのは罪ではなくルール。

 合意は紙で代替できる。

 そして修は、抜かれた一枚の内容を知っている。

 ——知っているのに言わない。


 言わない理由は、優しさかもしれない。

 優しさが、構造を温存する。

 結菜は静香の言葉を思い出す。

 「抜いた人は優しい顔をしてる」


 結菜は思った。

 優しさで抜いたのだとしても、抜いた行為はもう“合意”の中に組み込まれている。

 合意の中で改ざんされたルールは、誰かを正しく罰するために使われる。

 ——この宿は、そのための場所だ。


 廊下へ戻ると、足元灯がふっと点いた。

 誰も通っていないのに。

 いや、通っている。結菜が通っている。

 結菜は立ち止まり、壁掛け時計を見た。14:03。

 スマホは14:00。

 三分。

 三分がある限り、ログはいつでも罪を作れる。


 結菜は襖の前で立ち止まった。

 中で、航が誰かと話している声がした。

 航は、誰かに主語を言っている。

 結菜はその声に、ぞっとした。

 航が主語を言うのは珍しい。

 主語を言っているなら、相手は——静香かもしれない。

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