【第9章 閉鎖 /今夜中に出ろ】
航の声は、襖の向こうで低く響いていた。
相手の声は聞こえない。けれど、航が“主語を言っている”のが分かった。主語を言うときの航の声は、少しだけ硬い。責任を引き受けるときの声だ。責任を引き受ける声が、いまここで出るのは嫌な予感しかしない。
結菜は襖に手をかける前に、一度だけ深呼吸した。
深呼吸は、自分の正しさを鎮める儀式みたいだ。怒りが出そうなとき、追及が出そうなとき、結菜は息を整えて“正しく”振る舞おうとする。
正しく振る舞おうとすること自体が、正しさに縛られている。
結菜はそれを分かっていながら、息を整えた。
襖を開けると、航は電話ではなくスマホのメモ画面を見ていた。圏外で通話はできない。なのに、航は何かを打っている。
「……誰と」
結菜が言うと、航はスマホを伏せた。
「誰とも。——メモ」
嘘ではない。でも全部でもない。全部を言わないことが、航の癖だ。
癖は罪になる。静香が言った構造の中では。
「何のメモ」
結菜が聞くと、航は一拍置いた。
「……今夜のこと」
「今夜?」
結菜の声が硬くなる。
「峰岸さんが、今夜に備えろって言ってた」
「それは天候の話でしょ」
「天候だけじゃない」
航が言い切りかけて、止めた。止めたことで“天候だけじゃない何か”が確定してしまう。
結菜は思った。航は、言いかけて止めることで、いつも相手に補完させる。補完させることで、自分は責任を回避する。
そして補完する側が、勝手に正しさを作って勝手に苦しくなる。
それを、結菜は何度も繰り返してきた。
結菜は航のスマホを見た。画面は伏せられている。
「静香?」
結菜が名前を出すと、航の肩が僅かに揺れた。肯定でも否定でもない揺れ。
「違う」
航は言った。
違うと言えるなら、違わない可能性もあったということだ。結菜は自分がそんな風に考えてしまうのを止められない。
そのとき、廊下の向こうで足音が早足になった。きしむ床がいつもより短い間隔で鳴る。梨央だ。
梨央がノックもせず襖を開けた。頬が少し赤い。外に出ていたような湿った冷気を纏っている。
「結菜、航。……下、見て」
梨央は息が切れている。
「何」
「道。……塞がった」
結菜の背中が冷えた。
塞がった。
昨日から静香が繰り返す「便利な言葉」が頭を掠める。塞がった、も便利だ。塞がったと言えば、外に出られない理由になる。外に出られないと言えば、ここにいる理由になる。
でも梨央の顔は、本当に焦っている。便利に使っている顔じゃない。
結菜は上着を掴み、梨央の後に続いて階段を下りた。ロビーの窓辺に峰岸が立っている。峰岸は窓の外を見ていた。
雨が降り始めている。細かい雨が斜めに流れ、玄関灯の光の中で白く見える。
峰岸は振り向かずに言った。
「山道が崩れました」
言い方が淡々としている。まるで予定通りの報告だ。
「崩れたって……」
梨央が言うと、峰岸は頷いた。
「土砂です。車一台分の幅が塞がっています。今すぐは通れません」
「誰か、怪我してない?」
結菜が言うと、峰岸はようやくこちらを見た。
「怪我人はありません。——ただ、今夜のうちに復旧は難しいでしょう」
今夜のうちに。
その言い方が、結菜の背中をさらに冷やす。今夜のうちに復旧しないなら、今夜はここから出られない。今夜、ここで何かが起きる。
静香の「今言うために来た」が、再び胸の奥で鳴った。
ロビーの奥から静香が出てきた。手には携帯ラジオ。非常用具の一覧にあった“携帯ラジオ”。
静香は峰岸に向かって言った。
「これ、入る?」
峰岸が受け取って、つまみを回す。ザー、というノイズの中に、かすかな人の声が混じった。
『……本日夜半にかけて、局地的に雨量が増え……土砂災害に警戒……』
峰岸が音量を絞る。
「予報通りです」
峰岸の言い方が、結菜には気味悪く聞こえた。予報通り。つまり、見込んでいた。見込んでいたなら、備えていた。備えていたなら、この状況を利用できる。
修が遅れてロビーに入ってきた。
修は窓の外を見て、淡々と言った。
「閉じた、ね」
梨央が修を睨む。
「なに落ち着いてんの。外出られないんだよ」
修は肩をすくめない。表情も変えない。
「出られない、って言葉も便利」
梨央が息を呑んだ。
静香が修を見て、静かに言った。
「真似しなくていい」
修は一瞬だけ目を伏せた。
結菜は思った。修は静香の言葉を意識している。意識しているから刺さる。刺さっているから目を伏せる。
峰岸が咳払いをした。
「皆さま。落ち着いてください。現在の状況を共有します」
共有。
共有は合意を生む。合意は責任を分散する。責任を分散すると、誰も責任を取らなくてよくなる。
結菜はその仕組みを知っている。会社でも学校でも、共有は正しい顔をして責任を曖昧にする。
峰岸は続けた。
「外部への連絡は、現時点では難しいでしょう。携帯は圏外。固定電話はありません。——ただし、明日以降、復旧が進めば救助は期待できます」
期待できる。
期待できる、も便利だ。
けれど峰岸はそこで言葉を切り、少しだけ声を落とした。
「問題は、今夜です」
結菜の心臓が跳ねた。
今夜。
峰岸は静香を見る。静香は頷かない。頷かないのに、峰岸は続ける。
「雨量が増えれば、停電の可能性があります。停電時、館内は暗くなります。——その場合、避難手順を実行する必要が出るかもしれません」
避難手順。二重安全扉。レバー。ペアが残る。
結菜の頭の中で、それらが一本の線になりそうになる。
線になった瞬間に、誰が残るかを考え始めてしまう。
考えたら負けだ。静香は「前提を植える」と言った。峰岸も同じ前提を植えようとしている。
「停電したら、すぐ避難するんですか」
梨央が聞く。
峰岸は首を横に振った。
「状況によります。ですが、停電は合図になり得ます」
「合図?」
結菜が反射的に聞くと、峰岸は淡々と答えた。
「人は暗闇で焦る。焦りは事故に繋がる。——だからこそ、今夜中に一度、動作確認をしておきたい」
動作確認。
今夜中に。
結菜は思った。峰岸は“避難”ではなく“確認”と言っている。確認という言葉は正しい。正しいから断りづらい。断れば不誠実になる。
不誠実。
封筒の抜かれた一枚が、勝手に頭を刺す。
静香が口を開いた。
「今夜中に、ね」
峰岸が静香を見た。
「はい」
「——それって、誰のため?」
静香の問いは柔らかいのに鋭い。
峰岸は一拍置いて答えた。
「皆さまのためです」
皆さまのため。
いちばん便利な言葉。
梨央が噛みつくように言った。
「皆さまのため、って言えば何でも通ると思ってる?」
峰岸は顔色を変えない。
「通りません。——合意が必要です」
合意。
合意があれば例外。
結菜はゾッとした。峰岸はここでも合意を持ち出す。合意が必要だと言いながら、合意を得る方法を握っている。
合意を得る方法——受領確認書の控え。紙の提示。代替。
合意は、本当に合意なのか。
航が小さく言った。
「……今夜中に確認すれば、安心できる」
航の声は控えめで、誰も傷つけないように整えられている。整えられた言葉は、丸める言葉だ。修が言った「丸く収める」と同じ匂いがする。
静香は航を見て、淡々と言った。
「安心のために、また同じことをするの?」
航の喉が鳴った。
「同じことって……」
航は言いかけて止めた。止めることで、静香の言う「同じこと」が存在していると認めてしまう。
梨央が航に言った。
「航、ちゃんと言って。静香が何者で、二年前に何があって、なんで結菜がここにいるの」
梨央の声が震えている。怒りの震えでも、怖さの震えでもある。
結菜はその震えを見て、胸が痛んだ。梨央は守る人だ。守る人が震えているなら、本当に危ない。
航は結菜を見た。目が合った。
結菜は思った。航はここで“主語”を言うべきだ。言えば、何かが決まる。決まるのが怖いから、航は沈黙する。
沈黙は不誠実——その言葉が、まだ読んでいないはずの紙面から立ち上がる。
「……結菜」
航が言った。
「俺は——」
航は言いかけて、飲み込んだ。
結菜の胸の奥がざらついた。
飲み込むことは、優しさかもしれない。けれど、優しさは構造を温存する。
修が突然、淡々と言った。
「今夜中に確認するなら、全員でやるべきです」
梨央が修を睨む。
「なんで急に協力的」
修は視線を逸らさずに言った。
「一人でやると、疑いが生まれる。疑いが生まれると——」
修はそこで言葉を止めた。止めた言葉の続きを、全員が想像する。
——また同じことが起きる。
静香が修の止めた言葉を引き取った。
「沈黙が罪になる」
修は目を伏せた。
結菜は思った。修も分かっている。分かっているのに止められない。止められないのは、止める方法がないからではない。止める方法を選べないからだ。選べないのは、合意という空気があるからだ。
峰岸が言った。
「では、今夜二十二時に、二階のレバー室で集合してください。——動作確認を行います」
決めた。峰岸は決めた。
決めたのに、「合意が必要」と言っていた。決めたことが合意になる。合意は、こうやって作られる。
静香が静かに言った。
「“合意”って、こういうことだよね」
峰岸は反論しない。反論しないことが、肯定にも見える。
結菜は口を開いた。
「……確認って、何を確認するんですか」
峰岸が結菜を見た。
「扉が開くこと。レバーが正常に動くこと。——そして、皆さまが手順を理解していること」
理解していること。理解は正しさ。正しさは同調。
結菜は言いたかった。理解していることを確認するのは、理解していない人を不誠実にするためだ、と。
でも言えば、結菜が“正しい”を言うことになる。
結菜は自分を止めるために、唇を噛んだ。
*
夜が来た。雨は強くなった。風も唸り始めた。
宿の木が鳴る。窓ガラスに雨粒が叩きつけられ、音が途切れない。
結菜は部屋で時計を見た。館内時計は二十一時五十七分。スマホは二十一時五十四分。三分。
たった三分が、今夜はもっと大きな意味を持つ。
二十二時集合。館内時計基準なら、実際は二十一時五十七分かもしれない。
誰がどの時計で動くかで、証言は割れる。
証言が割れれば、疑いが生まれる。
疑いが生まれれば、沈黙が罪になる。
結菜は受領確認書の控えを手に取った。薄い紙。署名。控え。合意の代替。
この紙は、通行証だ。通行証は、選別の道具だ。
この紙を持って廊下に出ることは、合意を示すことになる。合意を示すことは、同意の中に入ることになる。
同意の中に入った瞬間、断りづらくなる。断れば不誠実になる。
結菜は紙を握り、息を吐いた。
断る自由はある。
でも、断る自由がある場所は少ない。静香が言った通りだ。
襖の向こうで、足元灯がふっと点いた。
音はない。光だけ。
結菜は立ち上がり、襖を開けた。廊下の端に梨央が立っている。梨央も紙を手にしていた。
梨央が小さく言った。
「結菜、行こう」
結菜は頷いた。
頷いた瞬間、合意が一つ増えた気がした。




