【第6章 静香到着】6-1
静香が到着したのは昨夜だった。
それなのに、結菜の中では「静香が来た」という事実が、まだ“到着”していない。視界にはいる。声も聞こえる。名前ももう知っている。知っているのに、心が追いつかない。追いついた瞬間に、何かが決まってしまう気がするからだ。
昼前、結菜はロビーの隅のソファに座っていた。
窓の外は薄い灰色の雲が垂れ込め、山の輪郭がぼやけている。雨はまだ降っていないが、空気が湿ってきていた。
宿の中は静かだ。静かすぎる。満室と言いながら、足音が六人分しかない。
梨央は食堂で峰岸と何か話しているらしい。修は姿が見えない。航は二階の部屋にいる。静香は——静香も見えない。
見えないのが、余計に怖い。見えないものに、結菜は勝手に意味を付けてしまう。
勝手に意味を付けるのが、結菜の悪癖だ。正しさの癖と同じ根っこにある。
結菜は自分のスマホを見た。圏外。時計は十一時二十二分。
壁の館内時計は十一時二十五分。三分。今日も同じ。
ずっと同じズレ。ずっと同じなら、これは“誤差”ではなく“仕様”だ。
背後で、引き戸が静かに開いた。
結菜は振り向く前に分かった。足音の癖ではない。空気の密度が変わった。
静香が立っていた。
静香はコートを着ていない。薄いセーターと黒いパンツ。動きやすい格好だ。旅行の格好というより、作業の格好に見える。
結菜は喉の奥が乾くのを感じた。何か言わなきゃいけない。言えば、始まってしまう。
「時間、いい?」
静香が言った。声は淡々としている。感情がないのではなく、感情を削ってきた声だ。
「……うん」
結菜は頷いた。頷いてしまった。断る理由はない。断れる理由がない。断れる理由がない、という構造がすでに怖い。
静香はソファの向かいに座らず、結菜の隣に腰を下ろした。距離が近い。近いのに、触れない距離。
結菜はじっと前を見た。視線を合わせたら、静香に“見られる”気がした。
「昨日、封筒開けた?」
静香が聞いた。
「……開けた。ページ、抜けてた」
結菜が答えると、静香は小さく頷いた。
「抜けてたのは一枚だけ?」
「うん。——ページ番号が飛んでた」
「それ、気づいたの偉い」
静香の「偉い」は、褒める言葉じゃない。評価だ。評価は上下を作る。上下は服従を生む。
結菜は反射的に言い返した。
「偉いとかじゃない。……当たり前でしょ」
静香は笑わない。
「当たり前、って言えるのも才能だよ」
結菜は言葉を失った。才能。静香は、当たり前を言える人を羨んでいるのか。羨んでいるのに、攻撃してくるみたいに聞こえる。
羨望と攻撃が同じ形をしていることを、結菜は知っている。自分もそうなることがある。
静香は続けた。
「結菜さん、覚えてる?」
「……何を」
静香は少し間を置いて言った。
「透明化テスト」
結菜の胸がひゅっと縮んだ。封筒の表紙の文字。紙の色。名前。
覚えている、と言えば嘘になる。覚えていない、と言えば逃げになる。
結菜は正直に言った。
「……名前しか」
静香は頷いた。
「それでいい。——でも、名前しか覚えてないのは、たぶん“守られてる”」
「守られてる?」
結菜の声が少し上ずった。
守る。梨央の口癖。峰岸の言葉。静香の口からも出る。守るという言葉が、ここでは刃になる。
静香は結菜の方を見た。はじめて、真正面から。
結菜はその目を避けられなかった。
静香の目は、結菜を責めていない。裁いてもいない。
ただ、測っている。結菜がどこまで知っていて、どこまで知らないのか。知らないなら、どこまで耐えられるのか。
「昨日さ」
静香が言った。
「私、来るの遅れたでしょ」
「うん」
「遅れたの、わざと」
結菜は息を止めた。
わざと。
この宿の“偶然じゃない”が、また一つ確定する。
「わざと遅れた?」
結菜が確認すると、静香は淡々と頷いた。
「みんなが先に“同意”した状態を作りたかった」
同意。
結菜の指先が冷たくなる。受領確認書に書いた署名。控え。合意があれば例外。
静香はその仕組みを知っている。知っているどころか、利用している。
「同意って……宿の規約?」
結菜が言うと、静香は首を少し傾けた。
「宿の規約でもあるし、もっと大きいものでもある」
「大きいもの」
「“空気”」
静香は短く言った。
空気。
結菜は苦笑しそうになった。空気なんて曖昧なものを、静香は“同意”と呼ぶ。呼んでしまうと、それは捕まえられる。捕まえられるから、誰かの責任にできる。
結菜はその仕組みに覚えがある。
自分も、空気を正しさに翻訳して、誰かに押し付けたことがある。
「結菜さん」
静香が言った。
「私、あなたを責めに来たんじゃない」
結菜は喉が鳴った。責めに来たんじゃない。じゃあ何だ。
責めに来たんじゃないと言われると、責められるより怖い。目的が別にあるからだ。
「——終わらせに来た」
静香は続けた。
「同じ形で、同じことが起きないように」
「同じ形?」
結菜が問うと、静香は一度だけ、視線を窓の外に投げた。灰色の空。
「恋人が沈黙する」
「……航のこと?」
結菜が言うと、静香は即答しない。即答しないことが、答えだ。
「友達が“守るため”って言う」
「梨央」
結菜が名前を出すと、静香はほんの僅かに眉を動かした。
「誰かが“丸く収める”って言う」
「修」
結菜が言うと、静香は頷いた。
「管理人が“安全のため”って言う」
「峰岸さん」
静香は頷く。
「そして、最後にあなたが“正しい”を言う」
結菜の背中が固まった。
言われた瞬間に、自分がそうする場面が頭に浮かぶ。浮かぶから怖い。
静香は結菜の沈黙を見て、淡々と補足した。
「……悪口じゃない。あなたは、正しいことを言える。正しいことを言える人が、いちばん人を追い詰める」
結菜の胸が痛んだ。
追い詰める。
そんなつもりじゃなかったと言いたい。言えば言い訳になる。言い訳は、もう遅い。
そのとき、引き戸が開いて梨央が入ってきた。
梨央は結菜と静香の距離を見て、足を止めた。
「……話してた?」
梨央の声は軽いふりをしている。軽いふりが下手だ。
静香は梨央を見て、淡々と言った。
「話してた。——あなたの“守るため”の話も、する?」
梨央の口角が引きつった。
「今は、しない」
「今は、ね」
静香は追い詰めない。追い詰めないのに、逃げ道がない言い方をする。
梨央は結菜を見た。目に、焦りと決意が混ざっている。
「結菜。……夜のこと、覚えてる?」
「廊下の灯り?」
「うん。峰岸さんが言ってた。——廊下の足元灯、ログが残るって」
結菜は静香を見た。静香は頷いた。
「ログ、見る?」
静香が言う。
結菜の胸がざわついた。
嘘をつかないもの。記録。ログ。
ログを見れば、昨夜の光が何時だったか分かる。何時だったか分かれば、ルールを破ったかどうかが分かる。破ったかどうかが分かれば、誰かを罰せる。
罰せることで安心する。
結菜はその誘惑が怖かった。
「見る」
結菜は言った。言ってしまった。
言った瞬間、静香がほんの少しだけ息を吐いた。
それは安堵ではなく、予定通りに進んだときの呼吸に見えた。
静香は立ち上がり、結菜に言った。
「結菜さん。——本当の中身、まだ見てないよね」
結菜は頷けなかった。
静香は追い詰めるように言わない。ただ、確認だけを残した。
「その一枚が抜かれてるのは、“優しさ”のせい」
優しさ。
結菜はその言葉に引っかかった。優しさで隠す。優しさで黙る。優しさで守る。
優しさが、構造を温存する。
静香はそれを言いたいのだと、結菜は直感した。
廊下へ出ると、壁掛け時計が十一時五十六分を指していた。結菜のスマホは十一時五十三分。三分。
梨央が小さく言った。
「結菜。ログ見たら、誰が動いたか分かるよね」
結菜は答えなかった。
静香が代わりに言った。
「誰が、じゃないよ。——誰が“動いたことにしたいか”が出る」
結菜は静香の横顔を見た。
静香は結菜を責めに来たのではない。
終わらせに来た。
その言葉が、ようやく“到着”した気がした。




