【第5章 二重安全扉】5-1
朝食の席は、昨夜と同じ卓だった。
焼き魚と味噌汁、漬物、卵焼き。普通の朝食。普通の匂い。普通の湯気。普通のはずなのに、湯気が立ち上るほど、ここで起きていることが現実から浮いて見えた。
封筒の中の欠けた一枚。廊下の一瞬の光。三分のズレ。
普通に挟まれた異物は、普通の方を偽物に見せる。
峰岸は無駄のない動きで皿を置き、簡潔に言った。
「本日、天候が荒れます。昼過ぎから雨、夜にかけて風が強くなる予報です。念のため、非常時の動線を確認しておきましょう」
梨央が眉を上げた。
「非常時の動線?」
修は黙って箸を動かす。航は椀を持ったまま止まる。静香は箸を置き、目だけで峰岸を見た。
峰岸は淡々と続けた。
「食後、少しだけお時間をください。皆さまにはご不便をかけますが、安全確保のためです」
安全確保。ここでその言葉を使うと、別の意味に聞こえる。安全を確保するために、何かが不便になる。何が不便になる? 自由? 沈黙? 拒否?
結菜は味噌汁を飲んだ。喉が熱いだけで、味がしない。
食後、峰岸は一行をロビーへ誘導した。
ロビーの壁時計は、きっちり九時三分を指している。結菜は自分のスマホを見た。九時ちょうど。今日も三分。一定のズレは、意図だ。意図があるなら、目的がある。目的があるなら、ここは偶然ではない。
「こちらへ」
峰岸が指し示したのは、ロビー奥の扉だった。普段は立入禁止のような雰囲気を纏っている。扉には「関係者以外立入禁止」と小さく札が下がっている。
峰岸は鍵を取り出さない。扉は最初から開く。
結菜はそのことにぞっとした。鍵が二本しかないのに、鍵のない扉がある。鍵のない扉は、誰でも入れる。誰でも入れる場所ほど怖い場所はない。
扉の先は細い廊下で、冷たい空気が滞留していた。
照明は白く、生活の色がない。壁の木目も、ここでは“宿の木”ではなく“施設の木”に見える。
廊下の突き当たりに、鉄の扉があった。
鉄扉には赤い文字で「非常口」と書かれている。
峰岸が立ち止まって言った。
「こちらが避難扉です。通常は施錠されていますが、緊急時には開放されます」
梨央が言った。
「開放って、どうやって」
峰岸は横の壁にある小さなプレートを指した。
「二つのレバーを同時に操作します」
結菜は眉を寄せた。二つのレバー。
「レバーはどこに」
「二階です。離れた二つの部屋にあります」
峰岸が言うと、梨央の顔色が変わった。
「……離れた、って」
「同時に引く必要があります。そうしないと、こちらの扉は開きません」
静香が小さく笑った。笑いは温度がない。
「ずいぶん、面倒」
峰岸は笑わない。
「安全装置です。誤作動を防ぐために、二箇所の同時操作が必要です」
結菜は鉄扉に手を触れた。冷たい。
誤作動を防ぐため、という説明は理解できる。理解できるからこそ不気味だった。理解できる仕組みは、正しい。正しい仕組みは、誰も疑わない。
疑わないまま、従ってしまう。
「レバー室へ案内します」
峰岸は戻り、階段を上がった。
二階廊下の奥、三部屋とは反対側に、また扉がある。扉の札には「点検室」と書かれていた。
峰岸が扉を開ける。中は小さな部屋で、壁にレバーが一本突き出している。レバーの横に、金具——輪っかのような固定具が付いている。結菜は目を凝らした。金具は新品ではない。長く使われた金属のくすみがある。
固定具。何を固定する? レバーを固定するためだ。
「ここが一つ目です」
峰岸は淡々と言った。
「もう一つは二階廊下の反対側です。そちらも同じ構造です」
修が低い声で言った。
「……二人、必要ってことですね」
「はい」
峰岸は頷く。
「二つのレバーが引かれている間だけ、下の避難扉が開きます」
「引かれている間だけ?」
結菜が聞くと、峰岸は説明を続けた。
「レバーを離すと扉は閉まります。従って、避難する場合、誰かがレバーを保持し続ける必要があります」
梨央が息を呑んだ。
「……ってことは、最後は——」
峰岸は梨央の言葉を遮らない。遮らないまま、結論だけを淡々と置いた。
「最後は、ペアになります」
結菜の胃がひゅっと縮んだ。
ペア。
恋人同士のペアのようで、そうじゃない。最後に残る、という意味のペア。
“二人が残る”と、誰も言っていないのに、結菜の頭は勝手にそう補完してしまった。




