北中寒
天文十九年(一五五〇年)一月 山城国愛宕郡 近衛邸
「一方黒照らさる三方の紫に、黄河氷合して魚龍死す。三寸の木皮文理断え、百石強の車河水に上る。霜花草上に大さ銭の如く、刀を揮うも入らず迷濛の天。争瀯たる海水飛凌喧しく、山瀑声無く玉虹懸る」
庭に降りしきる雪を簾の合間から眺め、詩を詠む。とはいっても、これは私の作ではない。
「ほほほ、李奉礼とはな。噂に違わず、筑前守に似て博学よの」
上座からの上機嫌な笑い声に黙って一礼する。
私が詠んだのは唐中期の詩人、李長吉の詩だ。北中寒というこの詩は、北辺の風景の描写の重なりを通して耐え難い寒さを想起させる。今の情景に合った詩といえよう。弾正も頷いているし、まず及第点はいただけたというところか。
「かの詩に詠われた河北ほどではあるまいが、今年は寒さが厳しいからのう」
ほほほ、と上品に笑うのは内大臣の地位にある朝家の重臣、近衛晴嗣様だ。
齢は確か数えで十四だったか。若年にしてこれほどの高位たりうるのも、偏に彼が公家の頂点とも言うべき摂家の生まれだからだ。
「とはいえ、今年は北炭や油を三好が用立ててくれておるからのう、そのお陰で寒い思いをせずに済んでおる。主上も殊の外お喜びじゃ。麿からも礼を言わせてくれ」
「山城を警固する以上帝を、そして公家の方々を御守りし、その生活を安んじるのも武家の務めであると主は申しておりました。礼を言われる筋合いのことではございません」
弾正が答えると、内府様は感心したように頷いた。
「まこと、三好筑前守は武家の鑑と言うべきじゃの。この晴嗣、三好家の忠勤に心から感じ入ったぞ」
家柄を笠に着て無茶を言うわけでもなく、現状を把握して武家相手にも素直に感謝を表すことが出来る。この一点だけを見ても、この御方が家柄だけで出世したわけではないことがよく分かろうというものだ。
「はっ、主も内府様の御言葉を聞けば喜びましょう。松永弾正、ご厚情に深く感佩しておりまする」
弾正が頭を下げ、少し遅れて私も頭を下げる。……このくらいで、前置きの話はお仕舞いにしてもいいだろう。
私たちが近衛邸を訪っているのは、なにも朝廷のご機嫌伺いのためだけではない。近衛家を通じ、朝廷も此度の和睦を注視していると坂本の公方様たちに報せる。それが目的だ。
今現在、近衛家は足利将軍家とかなり密接に結びついている。先代義晴公の御台所、すなわち当代義藤様の母君は近衛家の女性で、内府様の叔母にあたるお方だ。無論、この姻戚には色々な思惑があったそうだが、それは一旦措いておく。
更に、現在坂本には内府様のお父君である太閤近衛稙家様が居られるそうだ。独自の伝手でもって公方様を支えておられるのだろう。
「……というわけで、内府様にもご助力いただきたく、こうして罷り越した次第でございます」
「なるほどの。確かに坂本の話は色々と父上から届いておる。麿としても気にしてはいたのじゃ。今出川前左府が動いておらなんだから麿も差し出口は控えておったが……」
「あくまで、此度の和睦の成否を朝廷が気にしている、ということをお伝えいただきたいのです。公方様への後押し。それから、右京大夫を諦めさせるために」
「やはりあの男が首を縦に振らぬ限り、和睦も成らぬか」
内府様が渋面を浮かべる。恐らく太閤殿下から色々と聞かされているのだろう。
「公方様にしてみれば、かつて敵対したこともあるとはいえ、今はお味方でございますからな。我ら三好家が此度の戦で公方様に手向かいをした、というわけでもないのですが……。とにかく、右京大夫を切り捨てて己だけ帰洛する、ということはし難いのでしょう」
「厄介なことよ。本を質せば、右京大夫が公方を坂本へ連行したせいなのだがな」
内府様は沈痛な表情を浮かべ、深い溜息を吐いた。
天文十九年(一五五〇年)一月 近江国滋賀郡 日吉大社将軍御座所
晴嗣からの手紙を携えた太閤近衛稙家が御座所を訪れると、晴元が足音を響かせながら門を飛び出してくる所に出くわした。
鼻息も荒く、自分に一瞥もくれずに歩き去ってゆく背中を見送りながら、稙家は憂鬱げに息を吐く。嫌なものを見た。眉間に刻まれた皺が雄弁にそう物語っていた。
「これは、太閤殿下。本日は如何な御用向きでございますか?」
溜息を吐いた稙家に声をかけたのは御座所を飛び出した晴元を追ってきた幕臣だった。十代の半ばを過ぎたくらいだろうか。利発そうな顔立ちをした若武者だ。彼は細川与一郎藤孝。幕府申次衆である三淵晴員の息子で、請われて細川刑部少輔晴広の養子となっている。
「京の内府から文が参ったのでな、公方に報せに来たのよ」
「内府様から。……それは公方様もお喜びになられると思います。すぐに案内いたしましょう」
藤孝の案内で書院に通された稙家は、部屋の中で小さく縮こまるようにして肩を落としている義藤の姿を見とめ、内心で溜息を吐いた。室内には六角弾正少弼定頼もいたが、彼のほうもなんとも煮え切らない表情をしている。
「大樹よ、そなたが鬱屈とした姿を見せては下の者たちが心配しよう。ほれ、しゃんとせぬか」
「伯父上。……しかし、私は右京大夫ひとり満足に説得できませぬ。これでは皆にどう顔向けすればよいか」
義藤の声には僅かな震えがある。顔貌は精悍で体つきも武家の棟梁に相応しいといえる。だが、年若くして将軍の地位に就き、父親代からの幕臣たちに囲まれているせいなのだろうか……線が細く、頼りない印象が抜け切らないのだ。
「右京大夫はそういうものだ。麿とて説得には手を焼いたであろう。弾正少弼もそうではないか?」
稙家が問いかけると、定頼が苦りきった表情で頷いた。娘婿という立場も相まって、胸中の鬱屈は自分や義藤以上かもしれないと稙家は思った。
「ま、それは一旦措こう。京の内府から文が届いたのじゃ。そなたにも見せておこうと思うての」
差し出された文を開くと、義藤はゆっくりと読み進める。さほど長いものではない。直ぐに読み終えると顔を上げた。
「文にはなんと?」
定頼が問いかけると、義藤は緊張したように強張った顔を上げた。恐れか、困惑か。感情が表に出過ぎているなと稙家は思った。
「京の朝廷では此度の和睦が成るかどうか、ずいぶんと話題になっていると。それから山城で養育されている右京大夫の嫡男が先行きに不安を持っていること、阿波の細川讃岐守が兄の行状に心底呆れ果て、もう関わり合いになりたくないと公言しているという噂が広まっていることが書かれておった」
前半は事実だ。稙家の耳にも同じような話が入ってきている。だが、後半まで果たして事実だろうか?三好が流した噂という線もあるのではないだろうか。そうは思うが、状況を考えれば一概に嘘とも言い切れない噂話ではある。
「右京大夫のもとには讃岐守からの文は来ておらぬのだったな?弾正少弼」
「我が手の者が調べた限りでは。そのことも右京大夫が苛立っている原因ではございましょう」
「嫡男の件はどう思う?」
「こちらも妥当と言わざるを得ませんな。和睦のことを考えれば、三好が聡明丸を殺すことは無いと考えられます。しかしそれは我らが近江に在り、和睦の交渉を行なっているからこそ分かること。三好の勢力圏にある聡明丸にとっては気が気ではありますまい」
ふむ、と義藤が考え込む。これを材料として晴元を抑えられるのかを考えているのだろう。
「丹波の細川勢から報せはないのか?」
「今動いたところで負けるだけだと言っております。某も同意見でございますな」
「そうよな。波多野が向こうに回ったとなれば……」
考え込む義藤を見るともなしに見ながら、稙家は息子からの文に記されていた別のことに思いを巡らせていた。
長慶の庶子が詠んだ北中寒。この詩自体には何らの含意も無い。ただ厳しい寒さを訴えかけてくるものだ。
だが、それを詠む者には何らかの意図があると見ねばならない。晴嗣はただ寒さを擬えただけだと考えていたようだが、果たしてそれだけだろうか?
「ふむ」
稙家は見るともなしに外を見る。雪が降りしきる近江の冬は未だ深い。雪解けはまだ先のことだろう




