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芥川孫十郎

天文二十一年(一五五二年)七月 摂津国島上郡 芥川山城


「ううむ……」


 読み終わったばかりの文を脇に置き、芥川(あくたがわ)孫十郎(まごじゅうろう)常信(つねのぶ)は深い溜息を吐いた。縁側から見える庭の景色はすっかり夏の色に染まり、遠くからは蝉の鳴き声がひっきりなしに響いてくる。その騒々しさが、余計に彼の心を掻き乱していた。


「殿、如何なされました?」


 声をかけてきたのは常信の家臣、芥川美作守(みまさかのかみ)清正だ。調練上がりなのだろうか、諸肌を脱ぎ、汗ばんだ肩には木刀を担いでいる。

 常信は眉間に皺を寄せたまま、黙って脇に置いたばかりの文を突き出した。“宜しいのですか?”と清正が問いかけると、常信はややぶっきらぼうに頷く。憤懣と遣る瀬無さが綯い交ぜになった主君の表情に、清正は文が何処から来たのか、そしてその内容をも察してしまった。

 やはりと言うべきか、文の差出人は普門寺に隠居している普元入道、細川晴元であった。内容はといえば、三好筑前守長慶に対する不満と丹波北部に押し込められるがままになっている細川方の武将たちへの不満、そして常信を頼りにしている、というものだ。

 文の遣り取りは厳しく制限されている筈だが、果たして内容が三好方に発覚していないと言い切れるだろうか?それを考えれば迂闊としか言いようがない。


「返事はどうなさるおつもりで?」


「返事はせぬ。筑前守が儂の動きを察せぬとも思えぬし、入道様のことじゃ、文など届けばどのような騒ぎを起こすか分かったものではないわ」


「左様でございますな。それが賢明かと存じまする」


「入道様にも困ったものよ。流れが自分の元にないことをお分かりではないのだ。幼少の頃より京兆家の家督を廻って争い続けたゆえやもしれぬが……」


 常信が深い溜息を吐くと、清正も眉間に皺を寄せた。

 晴元は彼の父澄元の代から細川京兆家の家督を巡って因縁のあった、細川高国と幼少の頃より争い続けてきた。

 高国を追い落とした後は堺公方と称された足利義維を担ぎ上げて前公方足利義晴と争い、配下の三好元長が邪魔になれば義晴と手を組んで元長を攻め殺して義維を阿波へ()った。

 そして遂には長慶と敵対して江口での合戦に敗れ、普門寺へ押し込まれてしまった。後世彼について評する者がいるとすれば、政争に明け暮れた男、とでも記述するであろうことは想像に難くない。


「丹波衆にも兵を挙げるよう声をかけているようですが……連中、動くと思われますか?」


「無理だろう。丹波南郡は三好方で固められているし、赤井、川勝、籾井も動きらしい動きは見せておらん。おまけに公方様も動かぬとなればな」


「気を吐いているのは宇津のみ、でございますな。……赤井の兵衛大夫は波多野孫四郎を通じて三好と縁続きでございましたな。となれば動く道理もなし、赤井が動かねば同格の川勝と籾井も目立った動きは取れませぬ」


 常信は黙って頷くと、天を仰いで深く息を吐いた。改めて自らの置かれた立場の厳しさを思ったのだ。


「筑前守様からは何の働きかけも御座いませんので?」


「うむ、釘を刺すようなこともされておらん。正月に孫次郎の元服式へ赴いた折に何か言われるかとも思ったが……」


「筑前守様の妹君を娶ったことが効いていると思われますか?」


「あの男がその程度で安心するようには思えんがな」


 獲物が迂闊にも外へ出てくるのをじっと待っている猫のような不気味な視線を常信は感じている。最初は錯覚のようだったそれは、普元入道からの文が届くたびに強まっている。


「その方はどう思う。入道様に殉じるか、筑前守に従うか」


 問いかけると、清正は考え込むように僅かに首を傾げた。常信が入名字(いりみょうじ)させてまで手元に置いているだけのことはあり、清正は知恵のよく回る男だ。情勢の判断にも凡そ誤りはなく、その点も常信が彼を側近として重用している理由だった。


「栄達を望むのであれば筑前守様でしょう。三好の勢力は他を圧し、畿内において単独で抗しうる大名はもはや存在しておりませぬ」


 三好家は支配している領国だけでも阿波、讃岐、淡路、摂津の四カ国。その影響力は河内、南丹波、そして山城にまで及んでいる。公方足利義藤を京へと戻した功績もあり、その存在感は嘗て畿内で威を振るった大内左京大夫義興に比肩するという声もある。


「幸いにして殿は筑前守様の妹婿という間柄でございますれば、積極的に三好家への協力を打ち出せば向こうも頼もしく思ってくれましょう」


 そう上手くいくだろうか?常信は疑問に思ったが、それを一旦脇において続きを促した。


「入道様に殉ずるのであれば、某はお止めいたしませぬ。殿がこの芥川山城を領することができたのは、偏に入道様のお力によるもの。その御恩に報いるのも武士としての生き方に適うものでしょう」


「あのお方の為さりようには辟易しておるが、しかし恩義があるのも事実だからな。……止めぬと申したということは、やはり反対か?」


「恐れながら。殿が余程筑前守様が気に入らないというのでもなければ、三好に与するべきでしょう。家を潰してしまっては何もなりますまい」


 幾ら恩があろうと、それに殉じて家を潰すのは正常な判断ではない。小身の国人領主がまず考えるべきは家名を保つことだ。清正はそうきっぱりと言い切ったのだ。常信は渋い顔をしたが、やがて首を縦に振った。


「しかしな、筑前守は儂をこの地から引き剥がそうとするやもしれん。芥川山城は要衝だからな」


 常信は元々阿波の出身であり、この芥川山城は先祖伝来の地ではない。だが、旧主に自らの働きを認められ、勝ち取った城を奪われるというのは流石に承服しかねるものがあった。


「余程の僻地に押し込められるのでなければ、応じるのも悪くないと思いますぞ。此処から離れれば入道様も流石に諦めましょうし、殿を厚遇することは摂津の国人衆の心を宥めることにもなるとなれば……」


 過度な冷遇は苛烈さだけを際立たせる。無闇矢鱈と甘い対応をすれば嘗められることになるが、要所を抑えて厚遇することは人心収攬の常道だと清正は言う。そして、それは最初に名乗りを上げた者に許される特権であるとも。

 常信は小さく息を吐き、天を仰いだ。彼の内心に反比例するように、中天には太陽が煌めいていた。




天文二十一年(一五五二年)七月 摂津国武庫郡 瓦林城


「……という次第で、芥川孫十郎の心はかなり揺れているようでございます」


 報告を終えた藤木戸次郎右衛門賢治(かたはる)が頭を下げた。彼の一党――青谷(あおたに)古儀衆(こぎしゅう)というらしい――を呼び出して、私個人が抱える忍び衆としたのが昨年の暮れのこと。爾来、彼らは方々を飛び回って情報を集めている。


「芥川美作守を抱き込んだのは正解だったかな?」


 問いかけると、次郎右衛門は小さく頷いた。孫十郎殿が芥川山城主となってからの新規召し抱えである美作守は、細川京兆家とは因縁がない。その分だけ俯瞰した立場で孫十郎に意見することができると踏んで渡りをつけたのだが、正解だったようだ。


「筑前守様は如何お考えなので?大和攻めの準備に余念がないようですが」


「殿にとっても頭の痛い問題だったらしい。何と言っても孫十郎殿は妹婿にあたるお方だ。無碍に扱えば摂津の統治に差し障るし、むざむざと普元入道の方に押し遣る格好になりかねん。かと言って国替えをするにも適当な名分が無いからな」


「とすると、大和攻めに託つけて国替えをお考えということでございますな」


 次郎右衛門の言葉に頷き返す。元々、父上は弾正殿に大和の支配を任せるつもりでいたらしい。彼の力量、そして寺社勢力が強く統治が難しい土地柄を考えれば妥当な人選といえるだろう。

 だが、弾正殿は朝廷との交渉役として替えがたい人材になりつつある。彼の人柄、そして豊かな教養の為せる業なのだが……朝廷対策の片手間に出来るほど大和の統治は簡単ではないと父上は考えた。

 そこで、大和国を南北で大まかに分割して北部を弾正殿、南部を孫十郎殿に分割して統治させることを考えたらしい。名目は大和攻めの功績として二人を大和国南北の郡代に任じる、ということになる。つまり、既存の勢力図を三好家によって書き換えるということだ。


「興福寺でございますが、大和国内の勢力を糾合して対抗する構えを見せております」


 今回の大和国侵攻、三好家の掲げる名分は普元入道方の残党追捕と五畿内の静謐の二つだ。前者は三好家に敵対する国人衆に対するもの、そして後者は大和国において大きな勢力を持つ寺社勢力に対するものとして機能する。

 大和国最大の勢力である興福寺はこれに危機感を覚え、国人衆や他の寺社勢力と結託して戦おうとしているのだ。筒井氏に対する働きかけもその一環だろう。


「しかし、筒井は御先代の栄舜坊様が我らに御味方してくださったほどの間柄であったはず。何故興福寺の側につくのだ?」


「当代の後見を務めている福住(ふくずみ)紀伊守殿は氷室神社の神主も務めております」


 なるほど、後見人が宗教勢力側なのか。思えば当代の藤勝殿は幼児と言っていい年齢であった筈。重臣の意向がそのまま家の動向になるのも当然か。


「しかし、筒井家が反三好で一本化されたわけでもないだろう。家中には福住某に反発する者もいるのではないか?」


「一族の主だった者達、特に藤勝殿の叔父達は反対しているようでございます。ただ、大和一円が三好家に反抗的ともなると身動きが取れないようで」


 親族衆と有力家臣の対立か。ひとたび内訌が起これば筒井は戦をするどころではなくなるだろうが、さりとて味方を減らすような真似をするのも憚られる。三好は酷薄だという噂が立って大和国の統治に支障をきたすとなれば、弾正殿も孫十郎殿もいい顔はするまい。


「次郎右衛門、その方らで福住紀伊守とその一党が、自分に従わない筒井の親族衆を暗殺しようとした、という噂も流してほしい」


 命じると、次郎右衛門は僅かに黙考したあとに頷いた。私が何をしようとしているのかが分かったのだろう。


「刻限は」


「今月のうちには筒井の領内に広まっているのが望ましいな。遅くとも来月の半ばには兵を起こす予定故、それまでに出来る限り足元を弱めておきたい。……それとな、一族衆の主だったものに声をかけて逃亡の段取りを付けておいてくれ。出兵と時を同じくして此方の陣中に逃げ込めるようにな」


「御意。すぐに取りかかります」


 溶けるように次郎右衛門の姿と気配が消え失せる。見事な業前だと思った。

 夏が深まるにつれ、戦の臭いも強まってゆく。私と、そして兄上の初陣はすぐそこにまで迫っていた。


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