雨の夜に
雨の夜に
アマガエルは、お月さまに恋をしていた。
初めて見たのは春の終わりだった。
田んぼのあぜ道。
夜風の吹く静かな水辺。
空を見上げると、そこには丸くて優しい光が浮かんでいた。
なんて綺麗なんだろう。
そう思った。
それから毎晩のように空を見上げた。
お月さまは遠かった。
手を伸ばしても届かない。
高く跳んでも届かない。
それでもよかった。
見ているだけで幸せだった。
ある夜。
アマガエルは水面に映る自分を見た。
小さい。
緑色。
泥だらけ。
お月さまと並べるような姿じゃない。
少し悲しくなった。
「どうしたの?」
隣でコオロギが聞いた。
「別に」
「嘘だね」
コオロギは笑う。
「月を見てる時の顔じゃない」
アマガエルは黙った。
みんな知っていた。
アマガエルがお月さまを見ていることを。
誰も笑わなかった。
でも誰も応援もしなかった。
叶わない恋だと知っていたから。
夏が来た。
ある日の夕方。
空を黒い雲が覆った。
雨の匂いがする。
風が強い。
そして夜になる頃には、大粒の雨が降り始めた。
ぽつぽつ。
ざあざあ。
しとしと。
雨粒が葉を叩き、水面を揺らす。
アマガエルは嬉しくなった。
雨は好きだった。
体が潤う。
世界が輝く。
葉っぱの上へ飛び乗る。
雫が宝石みたいに光った。
雨の夜だけは。
アマガエルも少しだけ綺麗になれた気がした。
「今夜は素敵ね」
ふいに声がした。
アマガエルは驚いて空を見上げる。
お月さまだった。
雲の向こうから少しだけ顔を出している。
「ぼ、僕?」
「ええ」
お月さまは微笑む。
「あなた、とても綺麗よ」
心臓が跳ねた。
生まれて初めてだった。
お月さまに話しかけられたのは。
「でも」
アマガエルは空を見上げる。
「今夜、お月さま見えないじゃないか」
「そうね」
「雨だし」
「そうね」
「僕は、お月さまが見える夜の方が好きだよ」
お月さまは少し黙った。
そして優しく笑う。
「私はね」
静かな声だった。
「あなたが一番綺麗なのは、雨の夜だと思うの」
その意味が分からなかった。
その時は。
季節が巡る。
秋が来て。
冬が来て。
春が来た。
アマガエルは相変わらずお月さまを見上げていた。
でも。
少しだけ考えるようになった。
雨の夜のことを。
そしてまた。
雨の夜が来た。
空には月がいない。
雲に隠れている。
見えない。
声も聞こえない。
それでも。
葉の上の雫は光っていた。
水面には無数の波紋。
雨粒が踊る。
世界は静かに輝いている。
アマガエルはふと気付いた。
お月さまが見えない夜。
自分はいつも空ばかり見ていた。
だから気付かなかった。
雨に濡れた葉の美しさも。
水面の輝きも。
風の匂いも。
全部。
お月さまは見えない。
でも。
きっとどこかで見ている。
アマガエルは空を見上げた。
厚い雲の向こう。
見えない月へ向かって。
「ありがとう」
小さく鳴く。
返事はない。
もちろん聞こえない。
だけど。
その夜のアマガエルは。
今までで一番美しかった。
雨粒をまとい。
月のいない空を見上げながら。
叶わない恋を抱いたまま。
それでも少しだけ幸せそうに笑っていた。




