一駅だけ
一駅だけ
午後十時過ぎ。
仕事帰りの電車は思ったより空いていた。
俺はドア横に立ちながら、スマホを見ているふりをしていた。
本当は見ていない。
視線の先にいる人を見ていた。
三か月前から。
週に何度も同じ電車。
同じ車両。
同じ時間。
窓際の席に座る女性。
肩までの黒髪。
文庫本を読むのが好きらしい。
いつも違う本を開いているのに、不思議と読む姿は変わらない。
名前は知らない。
年齢も知らない。
恋人がいるかどうかも知らない。
でも。
好きだった。
きっかけなんてない。
毎日見ていたら好きになっていた。
それだけだ。
我ながら重症だと思う。
だが問題があった。
話したことがない。
どころか。
接点がない。
完全な他人だ。
だから三か月も何もできなかった。
今日までは。
スマホの画面が消える。
映り込んだ自分の顔を見る。
「よし」
小さく呟く。
決めていた。
今日声を掛ける。
無理なら諦める。
でも。
何もしないまま終わるのだけは嫌だった。
電車が駅へ到着する。
彼女が立ち上がる。
降りる駅。
いつも同じ。
俺も降りた。
本当なら次の駅だった。
でも今日は違う。
ドアが閉まる。
走り去る電車を見送りながら、心臓がさらにうるさくなる。
今ならまだ引き返せる。
次の電車を待てばいい。
だが足は動かなかった。
彼女が改札へ向かう。
俺も歩く。
距離は五メートル。
三メートル。
二メートル。
心臓が痛いくらい鳴っている。
今さらやめるか?
無理だ。
ここまで来た。
「あの」
声を掛けた。
彼女が振り返る。
大きな目が少し驚いている。
「はい?」
終わった。
いや始まった。
もう後戻りできない。
「変な話なんですけど」
彼女は不思議そうな顔をする。
「たぶん迷惑なんですけど」
「はあ」
「三か月くらい前から見てました」
言った瞬間。
失敗したと思った。
言い方。
最悪だろ。
絶対もっと言い方があった。
だが彼女は吹き出した。
「あははっ」
笑われた。
「ですよね」
「ごめんなさい」
彼女は笑いを堪えながら言う。
「告白の始まりだとしたら0点ですね」
「やっぱり」
「やっぱりです」
終わったな。
そう思った。
でも。
「それで?」
彼女が聞いた。
「それで?」
「三か月見てた人の続き」
まだ帰っていない。
立ち去ってもいない。
なら。
まだチャンスはある。
「好きになりました」
今度は真っ直ぐ言った。
「話したこともないけど」
「うん」
「毎日会うのが楽しみでした」
彼女は黙って聞いている。
「だから」
息を吸う。
「もし迷惑じゃなかったら、お茶でもどうですか」
数秒。
沈黙。
長い。
人生で一番長い数秒だった。
やがて彼女が口を開く。
「一つ聞いてもいいですか?」
「はい」
「本当に三か月?」
「はい」
「もっと前から見られてると思ってました」
思考が止まった。
「え?」
「私も気付いてたので」
今度は俺が固まる番だった。
彼女は少し照れたように笑う。
「毎日同じ車両で」
「同じ場所に立って」
「たまに目が合う人」
胸が熱くなる。
「覚えますよ」
そんなの。
期待してしまうだろ。
「それに」
彼女が続ける。
「三か月前からじゃないですよね」
「え?」
「見てたの」
俺は言葉に詰まった。
たぶん顔に出ていたんだと思う。
彼女はくすりと笑った。
「やっぱり」
「……半年くらい」
「正直」
「バレてた…」
「あははっ」
また笑う。
その笑顔を見ているだけで、降りてよかったと思えた。
「じゃあ」
彼女が聞く。
「お茶、行きます?」
俺は笑った。
たぶん今日一番自然に。
すると彼女も少し笑う。
「いつも降りない駅で降りてもらったお詫びに、お付き合いしますか」
「それ、お詫びになるんですか?」
「なります」
「じゃあお願いします」
彼女は満足そうに頷いた。
二人で改札を抜ける。
さっきまで他人だった距離が、少しだけ近くなっていた。
その日。
本当なら、あと一駅先で降りるはずだった。
でも。
俺が降りたのはこの駅だった。
一駅だけ。
たった一駅分の勇気だった。
だけど。
その一駅がなかったら。
きっと俺たちは、ずっと他人のままだった。
夜風は少し冷たかった。
それなのに。
隣を歩く彼女の存在が、不思議なくらい温かかった。




