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キュンスト  作者: 元 智


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2/17

終電一本前

終電一本前


 終電一本前のホームは、思ったより静かだった。


 金曜日の夜。


 飲み会帰りの会社員たちが、少し疲れた顔で電車を待っている。


 その中で、俺は自動販売機の前に立っていた。


 コーヒーにするか。


 水にするか。


 それとも何も買わずに帰るか。


 そんなくだらないことで迷っていると、隣から声がした。


「水がいいですよ」


 振り向くと、白石さんが立っていた。


 同じ会社の、別部署の人。


 年は一つ下。


 今日の飲み会で初めてまともに話した相手だった。


「なんで?」


「コーヒー飲んだら寝れなくなります」


「なるほど」


「あと、酔ってる時のコーヒーって、なんか負けた気がしません?」


「それは知らない」


 白石さんは小さく笑った。


 俺は言われるままに水を買う。


 ペットボトルを取り出していると、白石さんが俺の手元を見ていた。


「素直ですね」


「今の流れで逆らう理由もないし」


「じゃあ、もっと色々言えばよかった」


「怖いこと言うな」


 ホームに電車到着のアナウンスが流れる。


 まだ終電ではない。


 でも、これを逃せば次が最後だ。


「白石さん、方向こっちなんだ」


「はい。佐野さんも?」


「俺も」


「じゃあ途中まで一緒ですね」


 その言い方が自然すぎて、少しだけ返事が遅れた。


「ああ、そうだな」


 やって来た電車に二人で乗る。


 車内はそこそこ混んでいた。


 並んで立つには少し狭い。


 つり革につかまると、白石さんが俺の斜め前に立った。


 電車が揺れる。


 白石さんの肩が、俺の腕に少し触れた。


「すみません」


「いや」


 近い。


 飲み会の時は、もう少し距離があった。


 席も離れていたし、話したと言っても仕事の話が少しだけ。


 なのに今は、手を伸ばさなくても届く場所にいる。


 シャンプーなのか、香水なのか。


 ふわりと柔らかい匂いがした。


「佐野さん」


「ん?」


「今日、あんまり飲んでませんでしたね」


「まあ、明日用事あるし」


「彼女さんですか?」


 急だった。


「違う」


「即答」


「本当に違うから」


「じゃあ、いないんですか?」


 白石さんは窓の外を見たまま聞いてきた。


 こっちを見ないのが、ずるい。


「いないよ」


「そうなんですね」


「白石さんは?」


「いません」


 今度は彼女が即答した。


 思わず笑ってしまう。


「即答」


「本当にいないので」


「なるほど」


 会話がそこで止まる。


 電車の音だけが流れていく。


 不思議と気まずくはなかった。


 むしろ、少し心地いい。


 飲み会では気付かなかった。


 白石さんは、よく笑う人だと思っていた。


 でも本当は、静かな人なのかもしれない。


 無理に話を続けない。


 だけど、隣にいることを嫌だと思わせない。


 そんな空気を持っている人だった。


「佐野さん」


「うん」


「今日、助かりました」


「何が?」


「課長に絡まれてた時」


「ああ」


 飲み会の途中。


 白石さんが課長に延々と仕事論を聞かされていた。


 見かねて俺が、資料の相談をするふりをして席を外させた。


 それだけの話だ。


「別に、大したことしてないよ」


「しました」


 白石さんがこちらを見る。


「嬉しかったです」


 その一言が、妙に真っ直ぐ刺さった。


 電車が駅に止まる。


 人が少し降りて、車内が少しだけ空いた。


 でも白石さんは、離れなかった。


「佐野さんって」


「うん」


「誰にでもああいうことするんですか?」


「どういうこと?」


「助けるみたいなこと」


「場合による」


「私だったから?」


 心臓が変な音を立てた。


 白石さんは、また窓の外を見る。


 さっきより少しだけ耳が赤い気がした。


「……まあ」


 俺は小さく息を吐いた。


「白石さんだったからかも」


 言った瞬間、後悔した。


 何を言ってるんだ俺は。


 飲み会帰り。


 終電一本前。


 少し酔っている。


 そんな言い訳を探したけれど、言葉はもう戻らない。


 白石さんはしばらく黙っていた。


 怒ったのか。


 引いたのか。


 そう思った時。


「それ」


 白石さんが小さな声で言った。


「ずるいです」


「え?」


「そんなこと言われたら、期待します」


 電車の音が、急に遠くなった気がした。


 白石さんは俺を見上げる。


 まっすぐに。


 逃げ場をなくすみたいに。


「期待してもいいんですか?」


 俺は何も言えなかった。


 ただ、胸の奥が熱くなる。


 次の駅で、白石さんが降りる。


 それは分かっていた。


 アナウンスが流れる。


 ドアが開く。


 白石さんは一歩だけ降りかけて、振り返った。


「佐野さん」


「はい」


「明日、用事って何時からですか?」


「昼から」


「じゃあ、午前中は?」


「空いてる」


 白石さんは少し笑った。


「水のお礼、してください」


「買ったの俺だけど」


「選んだのは私です」


「それ、お礼になるのか?」


「なります」


 ドアが閉まり始める。


 白石さんは慌ててホームへ降りた。


 そして、ドア越しに言った。


「明日、連絡します」


 電車が動き出す。


 遠ざかるホームで、白石さんが小さく手を振っていた。


 俺はしばらくその場に立ったまま、ペットボトルの水を見下ろした。


 まだ半分以上残っている。


 眠気は、完全になくなっていた。


 終電一本前。


 ただ帰るだけだったはずの夜が。


 明日を待つ理由に変わっていた。

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