いいねの数
いいねの数
朝起きて最初にすることは決まっていた。
枕元に置いたスマホを手に取り、寝ぼけたままアプリを開く。
通知欄。
コメント。
フォロワー。
そして、いいねの数。
美咲は画面を見つめたまま小さく息を吐いた。
「百三十七か……」
悪くない数字だった。
平均より少し上。
友達からも反応は良かった。
それでも、どこか物足りない。
二百はいくと思っていた。
構図も考えた。
加工もした。
何枚も撮り直した。
完璧だと思った。
なのに百三十七。
数字を見つめていると、胸の奥がじわりと重くなる。
自分でも分かっていた。
百いいねを貰ったら二百が欲しくなる。
二百になったら五百。
五百になったら千。
満足なんてしたことがない。
それでもやめられなかった。
誰かに認めてほしい。
誰かに可愛いと言ってほしい。
誰かに価値があると思ってほしい。
そんな気持ちが、いつからか生活の一部になっていた。
スマホを置いて洗面所へ向かう。
鏡の中には、少し寝不足気味の自分が映っていた。
「盛れてないなぁ……」
ため息をつく。
高校生の頃からそうだった。
美咲は昔から目立つタイプだった。
可愛いと言われた。
男子から告白もされた。
SNSを始めればフォロワーも増えた。
最初は楽しかった。
投稿するだけで反応が返ってくる。
可愛い。
素敵。
憧れます。
そんな言葉が嬉しかった。
だけど。
気付けばそれが当たり前になった。
反応が少ないと不安になる。
投稿が伸びないと落ち込む。
誰も見てくれていない気がする。
誰からも必要とされていない気がする。
そんな風に思うようになっていた。
会社へ向かう電車の中でも、気付けば数字を確認している。
いいねが一つ増えている。
少し嬉しい。
でも、その感情は数秒で消えた。
もっと欲しい。
そう思ってしまうからだ。
我ながら面倒な性格だと思う。
会社へ着くと、いつもの声が聞こえた。
「おはようございます」
振り返ると佐伯がいた。
三十二歳。
営業部の先輩。
背が高く、スーツも似合う。
顔も整っている。
仕事もできる。
女性社員からの人気も高い。
なのに本人はまったく気にしていない。
「おはようございます」
「元気ないですね」
「普通です」
「嘘ですね」
即答だった。
美咲は思わず苦笑する。
この人は妙に人を見る。
空気を読むというより、観察している感じだ。
「先輩」
「はい」
「インスタ始めません?」
「嫌です」
いつも通り即答だった。
「なんでですか」
「必要ないので」
「つまらない人生ですね」
「そうですか?」
本気で不思議そうな顔をする。
美咲は呆れた。
この人は本当に時代錯誤だ。
SNSをやらない。
流行にも疎い。
連絡は電話派。
メールも必要最低限。
休日は読書か散歩。
老人か。
そう思う。
なのに。
なぜか嫌いになれない。
昼休み。
社員食堂で向かい合って座る。
佐伯は定食を食べていた。
美咲はスマホを眺めている。
「ご飯食べないんですか」
「食べますよ」
「スマホばかり見てますね」
「見ますよ」
「面白いですか」
「面白いです」
「そうですか」
本当に興味がなさそうだった。
美咲はスマホを向ける。
「この写真どう思います?」
昨日投稿した写真だった。
お気に入りのカフェ。
窓際の席。
綺麗なパフェ。
そして少しだけ映り込んだ自分。
頑張った写真だ。
佐伯は数秒見て答えた。
「美味しそうですね」
「だからそこじゃないんですって」
「違うんですか」
「違います」
本気で困惑している。
美咲は頭を抱えた。
普通なら可愛いとか綺麗とか言うところだろう。
この人は本当にズレている。
だが、その夜。
美咲は一人で泣いていた。
投稿が伸びなかったからではない。
きっかけは小さなコメントだった。
『最近加工強すぎない?』
それだけ。
本当にそれだけだった。
普段なら流せたはずだった。
でも今日は無理だった。
仕事でも失敗した。
友達との予定も流れた。
なんとなく孤独だった。
そんな日に見たその一言が、妙に胸に刺さった。
スマホを握りしめたままベッドに座る。
「何やってるんだろ……」
ぽつりと呟く。
数字ばかり追いかけて。
反応ばかり気にして。
誰かに認められたくて。
でも。
本当に欲しかったものが何なのか、自分でも分からなくなっていた。
その時だった。
スマホが震える。
佐伯からだった。
『明日の会議資料、私が持っていきます』
業務連絡。
いつも通り。
なのに。
なぜか返信した。
『今ちょっと落ち込んでます』
送ってから後悔した。
重い。
めちゃくちゃ重い。
何送ってるんだ私は。
だが十分後。
インターホンが鳴った。
ドアを開ける。
そこには佐伯が立っていた。
「先輩!?」
「近くを通ったので」
「絶対嘘ですよね」
「まあ少し」
少しじゃないだろう。
わざわざ来たのだ。
美咲は思わず笑ってしまった。
佐伯は部屋へ入ることなく、廊下に立ったまま言った。
「泣いてたんですか」
「泣いてません」
「泣いてます」
完全にバレていた。
佐伯は少し考えてから言った。
「一つ聞いてもいいですか」
「何ですか」
「百万人がいいねしたら幸せになりますか」
美咲は黙った。
「一生不安がなくなりますか」
答えられない。
そんなわけがない。
百万人になったら、次はもっと欲しくなる。
きっと終わらない。
佐伯は静かに続けた。
「俺はSNSをやらないので分かりません」
「うん」
「でも」
少しだけ言葉を探すように視線を逸らした。
それから真っ直ぐこちらを見る。
「あなたが笑っている時の方が綺麗ですよ」
美咲は固まった。
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
「写真より」
佐伯は少し照れたように笑う。
「ずっと」
その瞬間。
胸の奥で何かが崩れた。
今まで貰った何千ものいいね。
何百ものコメント。
可愛いという言葉。
全部合わせても敵わないくらい。
その一言は温かかった。
美咲の目から涙がこぼれる。
今度は悲しくてじゃない。
ようやく気付いたからだ。
自分が欲しかったのは数字じゃなかった。
フォロワーでもなかった。
誰か一人。
ちゃんと自分を見てくれる人。
その存在だったのだと。
そして目の前の時代錯誤な男は、きっとずっと前から、自分が思っているよりずっとちゃんと見ていてくれたのだ。




