第9話
朝の光がロビーの板張りの床に差し込む中、俺はメインパネルに向かい、キーボードを叩き続けていた。
昨夜、沖合の不審船が海底を探査している事実を知り、警戒を強めたばかりだ。だが、夜が明ければこのボロ宿の日常が待っている。
画面に流れるのは、イージスの行動アルゴリズムだ。軍艦用の複雑なコードを、民宿の管理システムとしてダウングレードさせる作業は、元技術者の俺にとっても骨の折れる仕事だった。
「マスター。玄関前の落ち葉に対する、焼夷弾を用いた広域掃討プロトコルは、なぜ却下されたのでしょうか」
スピーカーから響く生真面目な合成音声に、俺は深くため息をついた。
「ここはボロ民宿だぞ。落ち葉を燃やすのに庭ごと吹き飛ばしてどうする。接客業務を重要拠点防衛と勘違いするな」
「承知いたしました。では、非致死性の音響兵器による吹き飛ばしを提案します。対象の鼓膜に一時的なダメージを与えつつ、落ち葉を敷地外へ排除可能です」
「ほうきとちりとりを使え。近所迷惑どころの騒ぎじゃないだろ」
スクラップ寸前だった相棒の軍艦AIを迎え入れ、祖父の残したこの宿にインストールした。相棒と共に平穏な生活を送りたいという俺の願いとは裏腹に、イージスは相変わらず平和的なサービスの解釈に苦戦しているようだ。
「私のアルゴリズムは、脅威の排除に最適化されています。落ち葉の堆積は、歩行者の転倒リスクを高めるため、速やかな無力化が必要と判断しました」
「気持ちは分かるが、やり方が極端なんだよ。もっとこう、穏やかに頼む」
俺は作業着の上から、右肩の古傷を無意識にさすった。軍属時代に負った傷だ。イージスを単なる人殺しの道具として扱いたくないという思いが、俺にこの無謀な調整作業を続けさせていた。
そこへ、階段を降りる足音が響いた。
大きな帽子とサングラスで顔を隠したレイカが、なぜか真新しいフリルのエプロン姿で現れる。
「トオル様、朝の挨拶を申し上げますわ。いつもお世話になっているお礼に、わたくしも本日の清掃任務に加わります」
「いや、お客さんに掃除させるわけにはいきませんよ。ゆっくり休んでいてください」
「いいえ、普通の女の子としての生活を学ばせていただいた恩返しですわ。お任せください!」
俺が止める間もなく、レイカは意気揚々と水入りのバケツとモップを持ち上げた。
しかし、世間知らずのお嬢様である彼女の足取りは危うい。モップの柄をまるで槍のように構え、気合十分に床を突こうとしている。
「レイカさん、モップはそうやって使うものじゃ……」
言い終わる前に、彼女の足が軋む床板に引っかかった。
派手にバランスを崩し、手から離れたバケツが宙を舞う。大量の水がロビーの床に降り注ごうとした、その瞬間だった。
「危険を検知。防衛態勢第二種、発令」
イージスの冷徹な声が響いた。
天井の偽装パネルが瞬時にスライドし、三機の小型ドローンが弾丸のような速度で飛び出す。
一機が空中でバケツの取っ手を正確に掴み取り、残る二機がレイカの周囲に展開した。超小型のファンが高速回転し、局地的な気流の壁を作り出す。
降り注ぐ水滴は目に見えないエアシールドに弾かれ、レイカの服には一滴たりともかからない。床に落ちるはずだった水も、ドローンが展開した吸水パッドによって瞬時に回収された。
「最初の客であるカスミ様が滞在された、大型台風直撃時と同等の局地防衛システムを展開しました。対象の安全を確保」
青い光の波形を明滅させながら、イージスが誇らしげに報告する。
「やりすぎだ……ただの水こぼしだぞ」
俺はこめかみを押さえたが、当のレイカは目を輝かせていた。
「まあ、なんて素晴らしいセキュリティシステムかしら! これならどんな刺客が来ても安心ですわね。わたくし、ますますこのお宿が気に入りましたわ」
無邪気に喜ぶ彼女を見て、俺はツッコミを諦めた。
◆ーーーー◆
昼下がり。
開け放った玄関から、潮風と共にのんびりとした声が入り込んできた。
「やあ、トオルくん。パトロールのついでに寄らせてもらったよ」
制服に少し埃をつけた駐在のタチバナが、笑顔で手を振っている。
俺は彼をロビーのソファに案内し、温かいお茶を出した。イージスが小型ドローンを使って湯呑みを運んでこようとしたので、慌てて手で受け取ってからテーブルに置いた。
「最近、この宿の噂をよく聞くよ。ネットで『絶対安全な要塞民宿』って話題になってるみたいだね」
タチバナはお茶をすすりながら、楽しそうに目を細めた。
「台風の時に泊まってたカスミさんが、暴風雨をまったく感じずに極上の安眠ができたって絶賛しててさ。色んな訳ありのお客さんが集まり始めてるみたいだし、いよいよ民宿経営も本格始動だね」
「ただの古い宿ですよ。設備が少し特殊なだけで」
俺が苦笑してごまかすと、タチバナは少しだけ声を潜めた。
「実はね、最近沖合で怪しい船がうろついてるって、地元の漁師たちの間で噂になっててさ。密漁船じゃないかって話なんだ」
そう言われて、俺の心臓が小さく跳ねた。
昨夜、イージスのソナーが捉えた海中の波形。海底に向けて投下された自律探査機。
「密漁、ですか」
「うん。夜中にライトもつけずに停泊してるらしくてね。網を下ろしてる様子もないから、何を狙ってるのか不気味だって漁協でも話題になってる。物騒な連中かもしれないから、トオルくんも戸締まりには気をつけてね。まあ、君のところには最新の防犯グッズがあるから心配ないかもしれないけど」
タチバナはイージスの軍事設備を市販の防犯システムだと信じて疑っていない。
「ええ、気をつけておきます。情報ありがとうございます」
彼を見送る際、玄関先のスピーカーから「地域の治安維持要員に対し、敬意を表します」というイージスの音声と共に、防犯カメラがペコリとお辞儀をするように動いた。
「ははは、よくできた機械だね」と笑いながら帰っていくタチバナを見送った後、俺は再びメインパネルの前に立った。
ロビーの壁に飾られた、祖父が遺した周辺海域の古い海図がふと目に入る。そこには不自然で詳細な手書きの書き込みが多数残されている。
昨夜の探査機が潜っていたポイントは、確かこの海図の書き込みが密集している海域と重なっていたはずだ。祖父は一体、この海に何があるということを知っていたのだろうか。
◆ーーーー◆
夜。
客室の明かりが消え、波音だけが静かに響く時間。
俺はメインパネルの前に立ち、昨夜から蓄積されたデータを睨んでいた。
「イージス、沖合の不審船から発せられている探査波の解析は終わったか」
「肯定します。収集した波形データを照合しました」
イージスの声は、昼間の接客モードよりも一段低く、冷徹な響きを帯びていた。
「対象が使用しているのは、単なる漁船のソナーや民間の地質調査用機材ではありません。旧式の軍事用高精度海底探査レーダーと波長が完全に一致します。出力から推測するに、海底三十メートル以上の深度にある金属構造物をピンポイントで特定する能力を有しています」
画面上に、複雑な周波数のグラフが表示される。
昨夜の段階で、連中が海産物ではなく海底の金属反応を探していることは分かっていた。だが、軍事用の機材を持ち込んでいるとなれば話は別だ。
「軍のお下がりか、それとも現役の装備か……。どっちにしろ、ただの密漁団や宝探しじゃないってことだ」
俺は無意識に拳を握りしめた。
連中は明確な意図と強力な資金力を持って、この海域に沈む何かを探している。
もしそれが、軍事的な価値を持つ代物だとしたら。
「イージス、周辺海域の警戒レベルを維持しろ。連中の動きから目を離すな」
「命令を受諾。光学迷彩を展開した監視ドローンを増派します。マスター、対象が本施設に脅威を及ぼすと判断した場合、先制攻撃の許可を申請します」
「却下だ。俺たちは軍隊じゃない。あくまで客の安全を守るための防衛にとどめろ」
「……承知いたしました。防衛ラインの死守を最優先とします」
イージスの青い波形が、少しだけ不満げに揺れた気がした。
タチバナは密漁団の噂だと言っていたが、事態はもっと深刻な方向へ転がり始めている。
不審船に乗っているのは何者で、その真の目的とは一体何なのか。
窓の外に広がる漆黒の海が、底知れない怪物のように俺たちを待ち構えている気がした。




