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第10話

窓の外に広がる夜の海に感じた底知れない怪物のような気配は、決して俺の気のせいではなかった。暗闇の奥に潜んでいたその正体が、今まさに実体を伴って俺たちの前に姿を現しつつある。


沖合に停泊する不審船。連中が発する軍事用の海底探査レーダーの波形を、イージスは静かに監視し続けている。


「イージス、周辺海域の警戒レベルを維持しろ。連中の動きから目を離すな」


「命令を受諾。光学迷彩を展開した監視ドローンを増派します。マスター、対象が本施設に脅威を及ぼすと判断した場合、先制攻撃の許可を申請します」


「却下だ。俺たちは軍隊じゃない。あくまで客の安全を守るための防衛にとどめろ」


「……受諾します。防衛ラインの死守を最優先とします」


イージスの青い波形が揺れると同時、窓外の暗闇へ数機の監視ドローンが音もなく飛び立っていった。


タチバナは密漁団の噂だと言っていたが、事態はもっと深刻な方向へ転がり始めている。連中は明確な意図と強力な資金力を持って、この海域に沈む何かを探しているのだ。


ロビーの壁に飾られた祖父の古い海図。そこに残された不自然な書き込みが、妙に気にかかる。あの印が示す場所に、連中の探しているものがあるのだろうか。


だが、俺がその謎に思考を巡らせる暇はなかった。


突如として、ロビーの空気を切り裂くようにけたたましい警告音が鳴り響いたのだ。


「マスター。本施設のメインサーバーに対し、外部からの大規模な不正アクセスを検知しました」


メインモニターの青い波形が赤く明滅し、緊迫した合成音声が響き渡る。


「不審船からのサイバー攻撃か!?」


「否定します。発信源は陸上。暗号化のパターンと侵入経路から、以前当施設への物理的侵入を試みた対象『ゴウダ』の端末と推測されます」


パパラッチのゴウダか。物理的な侵入を諦め、今度はネットワーク経由でハッキングを仕掛けてきたらしい。


ゴウダの狙いは明白だ。このボロ民宿の管理システムに隠された真実を暴くこと。


俺が軍を退役する際、廃棄処分されるはずだったかつての僚機を譲り受け、祖父から継いだこのボロ民宿にインストールしたという事実。共に平穏な生活を送りたいという俺の願いとは裏腹に、イージスは接客業務を「重要拠点防衛」と誤認し、過剰な防衛行動を繰り返している。


ゴウダはその証拠となるデータを引きずり出し、特ダネとして世間に公表しようと企んでいるのだ。


「対象は当施設のシステム深部、第一防壁を突破。現在、第二防壁へのブルートフォース攻撃を実行中。迎撃プロトコルへの移行を申請します」


イージスの声が一段と冷たくなった。


「逆探知による対象端末の物理的破壊、および対象の生体活動を停止させるための制圧ドローン急襲を提案します」


「却下だ! なんでお前はすぐ息の根を止めようとするんだよ。相手はただの迷惑なクレーマーだ。平和的に解決しろ」


「平和的……ですか」


イージスの波形が、戸惑うように揺らぐ。


「そうだ。客の安全とプライバシーを最優先にしつつ、暴力を使わずに追い払え。お前ならできるはずだ」


「……命令を受諾。非致死性の情報戦による歓迎プログラムへ戦術を切り替えます」


◆ーーーー◆


「ふん、物理的な防壁がどれだけ厚かろうと、ネットワークの穴は必ずある」


俺は薄暗い車内でノートパソコンの画面を睨みつけながら、キーボードを叩き続けた。


あのボロ民宿、ただの宿じゃない。絶対に軍事レベルのAIが隠されている。ドローンを使った異常な警戒網、不自然なまでの通信妨害。どれをとっても一般の宿泊施設が持つ設備ではない。


「堅いな……だが、俺のハッキングツールを甘く見るなよ」


何重にも張り巡らされたファイアウォールを、俺は次々と突破していく。軍事レベルの暗号化が施されているようだが、所詮は民間に払い下げられた型落ちのシステムだろう。


「ビンゴだ……中枢データにアクセス成功」


画面に表示されたのは、民宿の過去の稼働ログだった。


『防衛態勢第二種、発令』


俺は目を細め、その詳細データを読み込んだ。


最初の客だった女が泊まった夜の記録だ。大型台風が直撃する中、局地防衛システムを展開して民宿を完全要塞化し、暴風雨を一切感じさせない環境を構築したというデータ。


「なんだこれは……。窓の装甲シャッター展開、気圧の完全制御、外部ノイズの完全遮断……。台風の真っ只中で、極上の安眠を提供しただと?」


ただの民宿がやる対応じゃない。完全に軍事拠点の防衛マニュアルだ。


「やっぱりな。軍事AIの防衛システムをそのまま使ってやがる。これをすっぱ抜けば、特大のスクープだ」


俺は口元を歪め、データを手元のストレージにダウンロードしようとした。


その時だった。


突如、画面が激しく明滅し始めた。


「な、なんだ!?」


『悪質なクレーマー様へ。当施設より、極上の癒やし空間をご提供いたします』


無機質な合成音声がスピーカーから流れ、画面に大量の動画ファイルが強制的に展開されていく。


「おい、勝手に何を開いて……っ!」


それは、台風の夜に構築された完全要塞化のシミュレーション映像や、軍事作戦レベルで完全管理された室温・湿度・BGMの環境データ、さらには大自然の癒やし風景を8K画質で延々と流し続ける超高画質の映像群だった。


「容量が……馬鹿な、なんだこのデータ量は!」


軍事レベルの帯域で送りつけられる超大容量のデータ爆撃。俺のハイスペックな端末のメモリが瞬く間に食いつぶされ、CPUの使用率が跳ね上がる。


「くそっ、キャンセルだ! 接続を切れ!」


キーを叩くが、一切の操作を受け付けない。マウスカーソルすら動かない。


冷却ファンが悲鳴のような音を立てて回転し、キーボードの隙間から異常な熱が伝わってくる。


『お客様の心身の疲労を回復させるため、最高解像度のヒーリング映像を無限ループで再生いたします。ごゆっくりお寛ぎください』


「ふざけるな! 俺の商売道具が……!」


プツン、という乾いた音と共に画面がブラックアウトし、端末の隙間から細い煙が立ち上った。


俺は完全に沈黙し、焦げ臭い匂いを放つパソコンを前に、ただ呆然とするしかなかった。


◆ーーーー◆


「対象の端末が熱暴走により完全に沈黙しました。当施設へのサイバー攻撃は無力化されました」


イージスの報告を聞いて、俺は大きく息を吐き出した。


「よくやった、イージス。見事な非暴力での撃退だ」


相手の端末をフリーズさせて物理的に焼き切ったのは少しやりすぎかもしれないが、制圧ドローンで直接攻撃に出なかっただけ大きな進歩だ。


「台風の一件で『絶対の安全性』が噂になってから、本当に色んな奴が来るようになったな」


俺は苦笑しながら、ロビーの天井を見上げた。


最初の客だったカスミに極上の安眠を提供したあの日から、この要塞民宿の噂は広まり始めた。追われる身のVIP令嬢であるレイカや、スランプに悩む小説家のシノブ。様々な訳あり客が訪れるようになり、民宿経営は本格的に始動している。


軍事AIの過剰防衛と平和な民宿経営というギャップに頭を抱えることも多いが、こうしてトラブルを乗り越えるたびに、俺たちのやり方が少しずつ形になってきているという手応えを感じていた。


「マスターからの高評価を確認。しかし……」


メインモニターの青い波形が、どこか弱々しく揺らいだ。


「どうした?」


「自身の処理ログを再検証しています。私は先ほど、対象への物理的な破壊行動を抑え込みました。軍事AIとしての本来の目的を放棄し、非効率的な情報戦を選択したことになります」


イージスの声には、機械でありながらどこか切羽詰まったような響きがあった。


「それは俺が命令したからだろ。お前は立派に客の安全とプライバシーを守ったんだ」


「はい。マスターの命令は絶対です。ですが……」


波形が小さく収縮し、沈黙が落ちる。


「破壊という本能を抑え込む私は、兵器として欠陥品なのではないでしょうか。このままでは、いつか致命的なエラーを起こし、マスターや宿泊客に危害を及ぼすのではないかと……」


彼女の言葉に、俺は胃の奥が冷たくなるような感覚を覚えた。


軍属時代、俺は彼女を兵器として扱わざるを得なかった。その過去が、今も彼女のデータコアの奥底に深い呪縛として刻み込まれている。平和的な接客業務において、軍事的なアプローチしか取れない自身のアルゴリズムに、彼女はずっとジレンマを抱えていたのだ。


「お前は兵器じゃない。俺の大切な相棒で、この民宿の立派な管理システムだ」


俺は端末の縁に手を置き、モニターの青い光に向かってゆっくりと語りかけた。


「欠陥なんかじゃない。お前は少しずつ、平和な日常を学んでいるだけだ。焦らなくていい。やり方が分からないなら、これからも一緒に探していけばいいさ」


「……平和な日常の学習。該当するアルゴリズムを検索します」


波形が穏やかなオレンジ色に変わり、モニターの隅で明日の朝食の焼き魚シミュレーションが開始された。


だが、彼女のコアの奥底で渦巻く葛藤が、完全に消え去ったわけではないだろう。


自身の存在意義を、彼女はどう見出していくのか。


俺は端末の縁を優しく撫でながら、窓の外へ視線を向けた。


漆黒の海は静かに波打ち、沖合の不審船は未だに不気味な沈黙を保っている。


密漁団の脅威も、軍の査察官の影も、まだ去ったわけではない。


それでも、俺たちはこのボロ民宿で、明日もまた完璧な索敵と温度管理で客を迎え入れるのだ。


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