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第11話

漆黒の海は静かに波打ち、沖合の不審船は未だに不気味な沈黙を保っている。


密漁団の脅威も、軍の査察官の影も、まだ完全に去ったわけではない。それでも、俺たちはこの海辺のボロ民宿で、明日もまた完璧な索敵と温度管理で客を迎え入れるのだ。


翌日の昼下がり。


ロビーのカウンターで帳簿を整理していると、インカムから生真面目な合成音声が響いた。


「マスター。サンマの表面温度と内部のタンパク質凝固点の相関データを解析し、最適な赤外線照射パターンを構築しました。これで焦げ目をつけつつ、内部をふっくらと焼き上げることが可能です」


「おお、それは助かる。でもレーザー照射で焼くのはやめてくれよ。普通のコンロを使ってくれ」


「……代替手段として、高周波誘導加熱を提案します」


「電子レンジでいいよ」


昨晩から計算し続けていた焼き魚の熱源制御プログラムを誇らしげに報告してくるイージスに、俺は苦笑しながらツッコミを入れた。


彼女なりに、平和な日常の接客を模索しているのだろう。破壊と防衛に特化したアルゴリズムを抱えながらも、少しずつ民宿の管理システムとしての役割に適応しようとしている。その努力は素直に嬉しかった。


その時、玄関の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。


現れたのは、ハンチング帽を目深に被り、大きなボストンバッグを抱えた中年の男だった。首元には不自然なほど分厚いマフラーを巻き、顔の半分を隠している。


「予約していた、ヤマダだが」


男は低い声で言いながら、周囲を油断なく見回している。その鋭い視線は、壁のシミや天井の隅まで舐め回すように動いていた。


「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」


俺は愛想よく応対し、宿帳を差し出した。男は無言でペンを取り、乱暴な字で偽名を書き殴る。


「マスター。対象者の網膜パターン、骨格形状、歩行時の重心移動データを照合しました」


インカム越しに、イージスの声が一段低くなった。


「昨晩、当施設のネットワークにサイバー攻撃を仕掛けた端末の所有者、ゴウダと九十九・八パーセント一致。明確な脅威と判定します」


やっぱりか。サイバー攻撃が通じないからって、今度は物理的に潜入してきたわけだ。


「直ちに防衛態勢へ移行しますか。非致死性兵器による制圧、あるいは高圧電流による無力化を推奨します」


「待て待て。相手は一般客としてチェックインしてきたんだ。ここで手を出したら、向こうの思う壺だぞ」


俺は帳簿に視線を落としたまま、小声で指示を出した。


「しかし、対象は施設内に監視機器を設置する確率が極めて高いと推測されます。放置すれば、当施設の機密が漏洩する危険があります」


「だからこそだよ。客として来たなら、極上の接待で骨抜きにしてやれ。手も足も出ないくらい、徹底的に癒やしてやるんだ」


「……対象を癒やしによって無力化する、という戦術ですね。指示を確認しました。特殊拘束プロトコルを応用したマッサージを実行します」


拘束って言ったか今。


一抹の不安を覚えつつも、俺はゴウダに二階の角部屋の鍵を手渡した。


◆ーーーー◆


ゴウダを部屋へ案内した後、俺はバックヤードの端末の前に座った。


モニターには、部屋の監視カメラ映像が映し出されている。ゴウダは俺が去ったのを確認すると、すぐにボストンバッグを開けた。中には、プロ顔負けの電子機器がぎっしりと詰まっている。


「チッ、なんだこのボロ宿は。隙間風だらけじゃねえか。だが、軍事レベルのAIが隠されているって噂が本当なら、特ダネだ」


高感度マイクを通して、ゴウダの独り言がクリアに聞こえてくる。彼は小型の盗聴器とピンホールカメラを取り出し、壁の隙間や照明器具の裏に仕掛けようと動き出した。


「イージス、やれ」


「肯定します。対象の制圧、ならびに極上のリラクゼーションを開始します」


ゴウダが壁に手を伸ばした瞬間、部屋の床から隠しアームが飛び出し、彼の足首をガッチリとホールドした。


「な、なんだ!?」


さらに壁面から展開された特殊素材のベルトが、ゴウダの胴体と腕を瞬時にベッドへと固定する。


「マスター。軍事用拘束具を応用した『全身完全ホールド型マッサージ』の初期配置が完了しました」


「見た目が完全に捕虜の尋問なんだけど……まあいい、続けろ」


ベッドに縛り付けられたゴウダは、必死にもがいている。


「おい! なんだこの仕掛けは! 離せ! 俺は客だぞ!」


「ご宿泊ありがとうございます。これより、当施設が誇る極上の疲労回復プログラムを提供いたします」


部屋のスピーカーから、イージスの落ち着いた声が流れる。直後、ベッドのマットレス全体が微細な振動を始めた。


「対象の筋肉の硬直、および骨格の歪みをスキャン。最適な周波数で超音波振動を照射します」


「ひぃっ!? あ、あ、あ……っ」


ゴウダの体が小刻みに震え、強張っていた表情が徐々に緩んでいく。


「さらに、温感ジェルを塗布したマニピュレーターによる、深層筋へのアプローチを開始」


天井から降りてきた複数のアームが、ゴウダの肩や腰のツボを的確に、かつ容赦ない力で押し込んでいく。


「ああっ! そこ、痛っ、いや、痛気持ちいい……っ!」


「血流の改善を確認。続いて、副交感神経を優位にするため、室内を最適な温度と湿度に調整。アルファ波を誘発する環境音を再生します」


部屋の照明が薄暗くなり、波の音と小鳥のさえずりが静かに響き渡る。ゴウダはもはや抵抗する気力すら失い、だらんと手足を投げ出していた。


「だ、だめだ……意識が、飛ぶ……」


「極上の睡眠へ移行します。おやすみなさいませ」


ゴウダのいびきが、スピーカー越しに聞こえてきた。


「見事な制圧だな、イージス」


「対象の完全な無力化に成功しました。現在、深い睡眠状態を維持しています。最低でも八時間は覚醒しないと推測されます」


「よし。これで機材を仕掛けられる心配はないな」


俺はゴウダの部屋へ向かい、彼が床に落としたボストンバッグを回収することにした。


部屋に入ると、ゴウダは拘束ベルトに巻かれたまま、幸せそうな顔で爆睡している。床に散らばった盗聴器やカメラを拾い集め、バッグの中へ戻していく。


その時、バッグの底から見慣れない金属製のケースが転がり出た。


「なんだこれ?」


ケースを開けると、中には厳重にロックがかけられたデータドライブが入っていた。表面には、軍の機密情報を示す認識コードが刻印されている。


「イージス、このドライブのコード、見覚えがあるか?」


「スキャン中……該当しました。軍の内部ネットワークでのみ使用される、高度な暗号化ドライブです。一般のジャーナリストが入手できるものではありません」


俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。


ゴウダはただのパパラッチじゃない。軍の内部情報を不正に入手している。


ゴウダに情報を流している、軍の内部者がいるってことか。


ドライブの冷たい感触が、手のひらに重くのしかかる。平和な日常を守るための戦いは、まだ終わっていなかった。


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