第12話
ドライブの冷たい感触が、手のひらに重くのしかかる。平和な日常を守るための戦いは、まだ終わっていなかった。
「イージス。このドライブは厳重にロックして金庫に保管してくれ。ゴウダは……そのまま寝かせておけ。起きる気配があったら、またマッサージで意識を刈り取っていい」
「指示を受領しました。対象のバイタルサインを継続監視し、覚醒の兆候が見られ次第、即座に鎮圧プロトコルを再起動します」
物騒な言い回しだが、今はそれに頼るしかない。ゴウダに情報を流している軍の内部者がいる。その事実が、胃の奥に冷たい石を落とされたような不安を呼び起こしていた。
考えを巡らせていると、玄関のチャイムが控えめに鳴った。
モニターを確認すると、スーツ姿の男が立っている。銀縁のメガネをかけ、背筋をピンと伸ばした立ち姿。私服のつもりだろうが、その隙のない所作は一般人のそれではない。
「……軍関係者か」
思わず呟きが漏れた。軍属時代に嫌というほど見てきた、規律に縛られた人間の特有の空気感だ。
「マスター。来訪者の顔認証データ、一般のデータベースには該当がありません。しかし、歩行の重心移動や視線の動かし方から、高度な訓練を受けた戦闘員、あるいはそれに準ずる組織の所属である確率が九十八パーセントと推論されます」
「やっぱりな。イージス、よく聞け。あいつの前では、ただの優秀なスマートホームAIを装うんだ。軍事レベルの索敵や防衛機能は絶対に隠せ。いいな?」
「意図を理解しました。一般家庭用管理システムとしての偽装モードに移行します。脅威度の判定基準を大幅に引き下げ、平和的な顧客サービスに専念します」
青い波形がモニター上で小さく揺れる。俺は深呼吸をして、玄関の引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ。かもめ荘へようこそ」
「予約していたヒイラギだ」
男は短く名乗り、鋭い視線で俺を上から下まで値踏みするように見た。
「お待ちしておりました。お部屋へご案内します」
俺は努めて愛想よく笑い、ヒイラギを廊下へと招き入れた。彼は歩きながら、壁の隅や天井の隙間へと視線を走らせる。
「随分と……古い建物のようですが、設備の手入れは行き届いているようですね」
「ええ、祖父から継いだボロ宿なもので。少しずつ直しながらやってます」
「なるほど。しかし、死角を完全に潰すようなカメラの配置や、ミリ波レーダーらしきセンサーの存在は、海辺の古い宿には不釣り合いなほどに厳重だ。まるで重要拠点の防衛網のようですが」
ヒイラギの言葉に、背筋に冷たい汗が伝う。ただの客じゃない。明らかに何かを探りに来ている。
「最近は物騒ですからね。防犯カメラを多めにつけてるんですよ。お客さんの安全が第一ですから」
「……安全、ですか。確かに、それなら納得もいく」
ヒイラギは意味深に頷き、案内された部屋へと足を踏み入れた。
「こちらがお部屋になります。ごゆっくりどうぞ」
俺が頭を下げて立ち去ろうとしたその時、部屋の隅に設置された小型の配膳用アームが、音もなく滑り出してきた。アームの先には、湯気を立てる湯呑みが乗せられている。
「ヒイラギ様。長旅の疲労を検知しました。体表温度と発汗量から算出した、現在の貴方に最適な温度の緑茶を提供いたします」
合成音声が部屋に響く。ヒイラギはピタリと動きを止め、アームと湯呑みを交互に見つめた。
「……私の動線を完全に予測し、探りを入れる間もなく先回りしたというのか。しかも、この温度管理……」
ヒイラギが湯呑みを手に取り、一口すする。その表情に、わずかな驚愕の色が浮かんだ。
「これが、市販のAIだと? 索敵能力と演算速度が、一般の規格を遥かに超えている」
「あはは、ちょっと気の利くAIなんですよ。最新のスマートホームってやつでして」
俺は必死に笑って誤魔化すが、ヒイラギのメガネの奥の瞳は、さらに疑念を深めたように細められた。
「マスター。偽装モードでの接客業務、成功しました。対象の疲労度低下を確認。引き続き、完璧な温度管理と動線予測によるサービスを実行します」
インカム越しに聞こえるイージスの声は、どこか誇らしげだ。
違う、そうじゃない。お前の『完璧』は軍事基準なんだよ。一般家庭のAIは、客の体表温度から最適な飲料をミリ秒単位で計算したりしない。
「イージス、やりすぎだ。もっと適当でいい。人間味のあるミスとかしろ」
「ミス、ですか。意図的なエラーの発生は、システムの信頼性低下を招きます。顧客の安全と快適性を損なう行為は、推奨されません」
「いいから、少し手を抜け。あいつに怪しまれてるぞ」
小声で指示を出しながら、俺は逃げるようにヒイラギの部屋を後にした。
◆ーーーー◆
数時間後。ヒイラギは部屋を出て、ロビー周辺を歩き回っていた。
手にはメモ帳を持ち、壁の材質や窓の強度、さらには床下の配線ルートまで推測しているような素振りだ。完全に査察官の動きである。
俺はフロントから彼を監視しつつ、どうやってこの場をやり過ごすか頭を悩ませていた。
その時、奥の廊下からパタパタと軽い足音が聞こえてきた。
「トオル様、お掃除が終わりましたわ。次は何をすればよろしいでしょうか?」
大きな帽子とサングラスで顔を隠したレイカが、モップを手に現れた。相変わらず変装のつもりらしいが、高級な衣服の質感や、隠しきれない上品な立ち振る舞いは、どう見ても一般の宿泊客ではない。
「あ、いや、今日はもう休んでていいよ。ありがとう」
俺が慌てて声をかけた瞬間、ヒイラギの足が止まった。
彼はゆっくりと振り返り、レイカの姿を視界に捉える。
レイカはヒイラギの存在に気づき、小首を傾げた。
「あら、新しいお客様ですか? かもめ荘へようこそ。ここのセキュリティは完璧ですから、安心してお休みになれますわよ」
無邪気に微笑むレイカ。ヒイラギの表情から、一瞬だけ感情が抜け落ちたように見えた。
彼はレイカの顔、服装、そして声のトーンを脳内で照合しているのだろう。軍の上層部の令嬢であり、行方不明となっている彼女のデータと。
「……なるほど」
ヒイラギは手元のメモ帳をパタンと閉じ、スーツの内ポケットにしまった。
「この宿には、随分と『特別なお客様』が滞在されているようだ」
その視線が、レイカから俺へとゆっくりと移動する。
探りを入れるような、冷たく鋭い眼差し。彼は確実にレイカの正体に気づいた。そして、軍の機密AIと行方不明の令嬢が、なぜこの海辺のボロ宿に揃っているのか、その理由を問い詰めようとしている。
胃の奥が再び冷たくなるのを感じながら、俺はヒイラギの視線を正面から受け止めた。
彼がレイカを連れ戻そうとするなら、俺は全力でそれを阻止しなければならない。この宿の平和を守るために。
静かなロビーに、波の音だけが不気味なほど鮮明に響いていた。




