第13話
ヒイラギは手元の宿泊者名簿から顔を上げ、フロント越しに俺を正面から見据えた。
「この宿には、随分と『特別なお客様』が滞在されているようだ」
探りを入れるような低い声。彼は確実にレイカの正体に気づいている。軍の上層部の令嬢であり、現在行方不明となっている彼女のデータと、目の前にいる世間知らずな女性客の姿が、彼の脳内で完全に一致したのだろう。
ロビーの隅では、当のレイカが不思議そうに小首を傾げていた。彼女はヒイラギが放つ緊迫した空気に全く気づいておらず、ただの新しい宿泊客だと思い込んでいる。
胃の奥が冷たくなるのを感じながら、俺はどう切り返すか思考をフル回転させた。彼がレイカを連れ戻そうとするなら、全力で阻止しなければならない。この宿の平和を守るために。
「……ただの、うちの大切なお客さんですよ」
「とぼける気か。彼女は軍の——」
ヒイラギが厳しい口調で言いかけたその時、ロビーのスピーカーから硬質な合成音声が割り込んだ。
「マスター。緊急事態です」
イージスの声だった。普段の平坦なトーンの中に、明らかな警戒の響きが混じっている。
「沖合に停泊していた不審船が移動を開始。当施設のプライベートビーチへ向けて、小型ボートが複数接近中です」
ヒイラギが眉をひそめ、窓の外へ視線を向けた。外は分厚い雲に覆われ、月明かりすらない漆黒の海が広がっている。風の音が徐々に強まり、窓ガラスを微かに震わせていた。
俺はフロントの奥にある操作盤に手を伸ばし、メインモニターを起動した。青い波形と共に、暗視カメラの映像が鮮明に映し出される。
波打ち際に乗り上げた黒いゴムボートから、次々と人影が降り立っていた。全員が迷彩柄の防寒着に身を包み、タクティカルベストを装着している。そして何より目を引くのは、彼らが手にしている物騒な長物だった。
「あれは……アサルトライフルか?」
ヒイラギが息を呑む音が聞こえた。彼の表情から、先程までの査察官としての余裕が消え失せている。
「ただの密漁団ではない。あの動き、装備の統一感……プロの傭兵部隊に近いぞ」
先頭に立つ男の顔がズームアップされる。日焼けした肌に深い傷跡のある男——サメジマだ。以前から近海を荒らしていた密漁団のリーダーだが、その装備は明らかに魚を獲るためのものではない。
「イージス、奴らの目的はなんだ? 海産物の密漁にしちゃ、重武装すぎる」
「電波通信およびソナーの照射パターンを解析しました」
モニターの端に、複雑なデータ列が滝のように流れる。イージスの演算音が微かに唸りを上げた。
「彼らは海底の特定座標へ向けて、ピンポイントで探査波を放っています。その座標は、過去に沈没した私の同型艦……そのデータコアの沈没地点と完全に一致します」
「なんだと?」
ヒイラギの声が裏返った。普段の冷静な査察官の仮面が完全に剥がれ落ち、驚愕の表情が露わになる。
「同型艦のデータコアだと? それは軍の最高機密だぞ。なぜあんな連中が場所を知っている!」
「分かりません。ですが、彼らが単なる密漁団ではなく、軍の兵器データを狙う組織的な犯罪集団であることは確実です」
サメジマが部下たちに顎でしゃくる映像が流れる。彼らの視線の先には、崖の上に建つこのかもめ荘があった。
「マスター。対象グループが本施設への侵入ルートを構築中。目的のポイントへ向かうための拠点確保、あるいは目撃者の排除が狙いと推測されます」
イージスの報告に、俺は奥歯を噛み締めた。
ヒイラギがスーツの内ポケットから小型の通信端末を取り出し、素早く操作する。
「すぐに軍の沿岸警備隊に応援を要請する。だが、到着まで最低でも三十分はかかる。君たちは裏口から逃げろ。令嬢の安全が最優先だ」
「逃げるって、どこへですか」
俺はヒイラギを振り返った。
「外は真っ暗で、足場の悪い崖道です。それに、あんな暗視装備を持った重武装の連中相手に、素人が逃げ切れるわけがない。背中を撃たれて終わりですよ」
「しかし、ここに留まれば確実に殺されるぞ!」
「だから、ここで迎え撃つんです」
俺は再びモニターに向き直った。
これをやれば、ヒイラギの目の前でイージスの軍事機能をフル稼働させることになる。彼女がただの管理AIではなく、軍から持ち出された兵器であることが完全に証明されてしまう。
軍の備品を盗んだ罪で、俺は逮捕されるだろう。イージスも回収され、再び戦場へ送られるかもしれない。それが俺の最も恐れていることだった。
だが、今ここで出し惜しみをすれば、レイカやヒイラギ、そしてイージス自身にも危険が及ぶ。客の安全とプライバシーを最優先する。それがこの宿の絶対のルールだ。
「イージス」
俺はモニターの青い光に向かって、はっきりと告げた。
「防衛態勢に移行しろ。敷地内への侵入を全力で阻止するんだ」
「指示を確認しました。対象を完全排除するための戦術ネットワークを起動——」
「待て。条件がある」
俺はイージスの言葉を遮った。
「誰も傷つけるな。非致死性の手段だけで、奴らを制圧するんだ」
スピーカーの向こうで、イージスの演算音が一段と高く鳴り響いた。青い波形が激しく乱高下し、彼女の内部で膨大なシミュレーションが行われていることを示している。
「マスター。対象は重武装の戦闘集団です。非致死性兵器のみでの制圧は、防衛ライン突破のリスクが極めて高くなります。確実な安全を担保するためには、物理的な無力化を推奨します」
彼女の声には、機械でありながらどこか切羽詰まったような響きがあった。自分の能力不足で客や俺に危険が及ぶことを、彼女は何よりも恐れている。
「駄目だ。俺たちの仕事は客を守ることだ。人殺しじゃない」
俺は操作盤の縁を強く握りしめ、モニターを真っ直ぐに見つめた。
「どんなトラブルも暴力じゃなく、平和的な手段で解決する。それがうちのやり方だろ。お前ならできるはずだ」
数秒の沈黙がロビーに落ちた。
波の音だけが響く中、青い波形がゆっくりと安定を取り戻していく。
「……命令を受信。防衛態勢、非致死性モードで起動します。これより、本施設における過剰な安全管理プロセスを実行します」
民宿の床下から、重低音の駆動音が響き始めた。壁の裏側に張り巡らされた無数のケーブルが脈打ち、膨大な電力がシステムへと供給されていく。
ヒイラギが信じられないものを見るような目で、俺とモニターを交互に見た。
「貴様、一体何を起動させた……? まさか、この宿全体が……」
「ええ。世界一安全な要塞民宿の歓迎システムですよ」
俺は強がって笑ってみせた。
◆ーーーー◆
その頃、プライベートビーチでは冷たい海風が吹き荒れていた。
サメジマは暗視ゴーグルを額に押し上げ、崖の上に建つ古ぼけた民宿を睨みつけた。
「さっさとあのボロ宿を制圧しろ。データコアを引き揚げる邪魔になる奴は全員消すぞ」
粗暴な声が、波の音に混じって響く。
部下たちが無言で頷き、アサルトライフルの安全装置を外す乾いた音が連続して鳴った。彼らは手慣れた動きで散開し、崖を登るためのルートを確保し始める。
「軍の連中が気づく前に、さっさと終わらせるぞ。あんなボロ宿、五分で制圧してやる」
サメジマは口元を歪め、足元の砂利を蹴り飛ばした。
サメジマが先頭に立ち、崖に続く獣道へと足を踏み入れた。だが彼らはまだ知らない。この宿の真の姿を。
そして、その管理システムが「誰も傷つけない」という縛りの中で、どれほど常軌を逸した手段で彼らを無力化しようとしているかを。
崖の上から、微かなモーター音が響き始めていた。暗闇の中に、無数の赤いセンサー光が蛍のように灯り始める。
トオルたちは、この重武装のプロ集団を相手に、一体どうやって無傷のまま制圧するつもりなのか。
冷たい潮風の中、かつてない規模の過剰な接客が、今まさに幕を開けようとしていた。




