第3話
窓の外で吹き荒れる嵐よりもずっと厄介なものが、この民宿に持ち込まれてしまった予感がした。
翌朝。
台風一過の抜けるような青空が、海辺の町を包み込んでいた。
昨夜の暴風雨が嘘のように、海は穏やかな凪を見せ、波の音が静かに響いている。だが、俺の心の中にはどんよりとした重い雲が居座ったままだった。
手にした箒でロビーの土間を掃きながら、俺は何度も奥の客室へと続く廊下に視線を送ってしまった。
レイカの鞄から半分こぼれ落ちていた、黒い金属製の通信機。
表面に深く刻み込まれた軍の紋章。
あれは間違いなく、軍の上層部のみが所持を許される特殊な暗号化回線専用の端末だ。彼女がただの家出少女ではないことは明白だった。
「マスター。本日の天候は晴天。外部センサーに異常なし。昨夜の暴風雨による本施設への物理的ダメージは、ゼロと報告します」
天井のスピーカーから、イージスの生真面目な合成音声が降ってくる。
「ああ、ご苦労さん。お前のおかげで、客もぐっすり眠れたみたいだ」
俺は箒を動かしながら、短く答えた。
実際、レイカはまだ起きてくる気配がない。完全要塞化された客室で、嵐の音一つ聞かずに極上の安眠を貪っているのだろう。
「当然の任務です。宿泊客の安全とプライバシーを最優先に保護いたしました。現在、対象の心拍数は安定しており、深い睡眠状態を維持しています」
誇らしげな青い波形が、壁のモニターで揺れる。
だが、その安全な要塞の中に、軍の通信機が持ち込まれているという皮肉。俺は箒を持つ手に力を込めた。
「トオルくーん、おはよう!」
ふいに、玄関の引き戸がガラガラと音を立てて開いた。
振り返ると、制服姿の青年が立っていた。地元の駐在所に勤務する警察官、タチバナだ。ピシッとアイロンのかかった制服を着ているが、なぜかいつもズボンの裾に泥が跳ねている。今日もどこかのぬかるみにはまったらしい。
「おはようございます、タチバナさん。朝からパトロールですか?」
「うん、台風の被害確認に回っててね。でも、ここは全然平気そうだね。古い建物だから心配してたんだけど」
タチバナはのんびりとした口調で言いながら、土間に足を踏み入れた。
「町じゃちょっとした噂になってるんだよ。昨夜の台風の最中、この民宿だけが煌々と明かりをつけてて、瓦一枚飛んでなかったって。どんな頑丈な造りをしてるのかってね」
噂の要塞民宿、か。
俺は内心で冷や汗をかいた。イージスが建物を完全要塞化して物理的な安全を確保した結果が、そんな形で目立ってしまっているとは。
「いやあ、祖父の代から無駄に頑丈なだけですよ。それより、何か御用で?」
「実はね、新しくできたこの民宿の防犯設備を見学させてもらえないかなと思って。地域の安全を守る参考にしたくてさ」
タチバナが人の良さそうな笑顔を向けた瞬間、俺の耳に装着したインカムから、イージスの鋭い警告音が響いた。
『マスター。未確認の侵入者を検知。制服の形状から現地治安維持部隊と推測されますが、腰部に武装を所持しています』
「いや、ちょっと待て」
俺は小声で呟いた。
『脅威度判定、クラスC。対象は武装しているため、非致死性兵器による無力化を推奨します。制圧用ドローン、発進準備完了』
「推奨すんな! ただのお巡りさんだ、普通に迎え入れろ!」
俺が慌ててインカムのスイッチを切った直後、ロビーの奥から低いモーター音が響いてきた。
四機の小型ドローンが編隊を組み、タチバナの頭上へと滑り込んでくる。それぞれの機体から赤いレーザーポインターが照射され、タチバナの胸元や額にピタリと照準を合わせた。
「うわあ、すごいねこれ!」
タチバナは全く怯むことなく、目を輝かせてドローンを見上げた。
「最新の防犯カメラ? 自動追尾機能付きかい? いやあ、僕の動きにぴったりついてくる。すごい技術だねえ」
「ええ、まあ……知り合いのツテで安く譲ってもらいまして」
俺は引きつった笑いを浮かべながら、背中に冷たい汗が伝うのを感じた。あれは防犯カメラじゃない。軍事用の索敵・照準システムだ。イージスがその気になれば、数秒でタチバナを物理的に制圧できる。
「素晴らしいよ。これならどんな不審者も一発で逃げ出すね」
タチバナは感心しきりで、ロビーを見回した。
「せっかくだから、奥の設備も見せてもらっていいかな?」
彼がレイカの部屋がある廊下へと足を踏み出そうとした、その時だった。
キィィィィン!
突如として、耳をつんざくような高周波の警告音が鳴り響いた。
「うおっ!?」
タチバナが思わず耳を塞いで立ち止まる。
『警告。これより先はVIP保護区画です。許可のない武装個体の侵入は、敵対行為と見なし迎撃システムを起動します』
イージスの冷徹な音声が、廊下に響き渡った。
「い、今の音は……?」
「ネズミ除けです!」
俺は咄嗟に叫んだ。
「ネズミ除けの超音波発生装置でして! 最近、ちょっと出力がバグってて……ほら、古い建物だからネズミが多くて!」
「なるほど、ネズミ除けかあ。それにしてもすごい迫力だ。音声ガイダンスまでついてるなんて、本当に至れり尽くせりだね」
タチバナは完全に納得した様子で、うんうんと頷いた。
「いやあ、見学させてもらってよかったよ。ここなら地域で一番安全だ。どんな訳ありのお客さんが来ても、安心して泊まれるね」
訳ありのお客さん。
その言葉が、妙に重く響いた。
すでに軍の通信機を持った少女が泊まっているのだ。この絶対の安全性が噂になれば、さらに厄介な客を引き寄せることになるかもしれない。
「それじゃ、僕はパトロールに戻るよ。また何かあったら相談してね、トオルくん」
「はい、お気をつけて」
タチバナが笑顔で手を振り、引き戸の向こうへと消えていく。
俺は大きく息を吐き出し、その場にへたり込んだ。
「マスター。心拍数の異常な上昇を確認しました。自律神経の乱れが推測されます。カフェインの摂取と、十分な休息を推奨します」
「誰のせいだと思ってるんだ……」
俺は恨めしげに天井を睨みつけた。
「申し訳ありません。ですが、マスターの命令に従い、対象を無力化することなく防衛ラインを死守いたしました」
イージスの声には、どこか誇らしげな響きが混ざっていた。彼女なりに、平和的な「おもてなし」を模索しているのだろう。軍事基準の過剰防衛と、平和な民宿経営。このギャップを埋めるのは、想像以上に骨が折れそうだ。
俺は立ち上がり、安堵の息をつきながら右肩をさすった。
ズキリと、奥の方で鈍い痛みが走る。
天気が崩れたわけでもないのに、古傷が自己主張をしている。
目を閉じると、不意に過去の記憶が脳裏にフラッシュバックした。
無機質な軍の施設。
冷たい金属の床。
そして、俺の肩を貫いた鋭い痛みの感触。
かつての上官が吐き捨てた冷たい声が、耳の奥で蘇る。
俺が軍を退役する原因となった、あの日の出来事。イージスを庇って負ったこの傷は、俺にとっての戒めでもあった。
彼女はただの機械じゃない。
俺の大切な相棒だ。
「イージス」
「はい、マスター。何でしょうか」
「これからも、頼むぞ。俺たちの民宿を、一緒に守ってくれ」
「了解しました。本施設の防衛ラインは、如何なる理由があろうと死守いたします」
青い波形が、力強く明滅する。
俺は小さく笑い、再び箒を手に取った。
だが、右肩の痛みは引く気配がなかった。
レイカの鞄の中にあった、軍の紋章が刻まれた通信機。
そして、イージスを廃棄しようとした軍の冷酷な判断。
俺たちが手に入れたこの平穏な日常は、薄氷の上に成り立っている。
過去の影が、すぐそこまで迫ってきているような気がしてならなかった。




