第4話
俺たちが手に入れたこの平穏な日常は、薄氷の上に成り立っている。レイカの鞄の中にあった軍の紋章が刻まれた通信機。そして、イージスを廃棄しようとした軍の冷酷な判断。過去の影が、すぐそこまで迫ってきているような気がしてならなかった。
だが、立ち止まっている暇はない。俺は首を振って不吉な想像を振り払い、民宿の帳簿に目を落とした。思えば、この宿が本格的に稼働し始めたのは数日前のことだ。あの夜も、外では急激に天候が悪化し、分厚い雨雲が空を覆い始めていた。大型台風がこの海辺の町に接近し、海鳴りが不気味に響き、古い窓ガラスがビリビリと震えていた。その時のやり取りを、俺は鮮明に思い出す。
「マスター、気圧の急激な低下を観測。本施設の防衛態勢を移行すべきかと推測します」
コンソールの青い波形が明滅し、イージスの生真面目な合成音声がロビーに響く。
「いや、ただの台風だろ。ここは民宿なんだから、お客さんが雨風をしのげるようにしてくれればいい。お前の新しい任務は、あくまで快適な空間を提供する極上のサービスだぞ」
「了解しました。重要拠点防衛任務として、宿泊客の安全を死守します」
相変わらず、接客業務を軍事的な拠点防衛と誤認しているようだ。俺は小さくため息をつき、入り口の戸締まりを確認しに向かった。スクラップ寸前だった彼女を引き取り、このボロ民宿にインストールして平穏な生活を送るという俺の願いは、どうやら一筋縄ではいかないらしい。
その時、激しい雨音に混じって、玄関の引き戸がガタガタと揺れた。
「あの、空いてますか……! もう、一歩も歩けなくて……」
飛び込んできたのは、ずぶ濡れになった若い女性だった。足元はおぼつかず、疲労困憊といった様子だ。手にしたキャリーバッグからは水滴が滴り落ちている。
「いらっしゃい。ひどい雨でしたね。すぐにお部屋へ案内します」
彼女はカスミと名乗った。仕事の激務から逃れるように海辺へ来たものの、急な天候悪化で交通機関が麻痺し、立ち往生してしまったらしい。俺は彼女を一番奥の客室へ案内し、温かいお茶を出した。
その直後、建物を揺るがすような突風が吹き荒れた。
「防衛態勢第二種、発令。物理装甲シャッター展開。環境維持システム、最大出力へ移行します」
イージスの宣言とともに、民宿の外壁を分厚い金属シャッターが覆っていく。ガシャン、という重厚な音が連続して響き、外の暴風雨の音は完全に遮断された。
「えっ、今の音は……? なんだか、要塞みたいに……」
「ああ、ただの頑丈な雨戸ですよ。気にしないでください」
カスミが驚いて周囲を見回すが、室内の環境は劇的に変化していた。温度と湿度は人間が最もリラックスできる数値に完全固定され、微弱なマイナスイオンと、自律神経を整える特定の周波数の環境音が静かに流れ始める。マットレスの硬ささえも、彼女の体重と骨格に合わせて自動調整されていた。局地防衛システムを応用した、イージス流の極上の安眠空間だ。
「なんだか、すごく落ち着く……」
カスミはベッドに倒れ込むと、泥のように深い眠りに落ちていった。
翌朝、台風一過の青空の下で、カスミは晴れやかな顔でチェックアウトしていった。
「こんなにぐっすり眠れたのは何年ぶりだろう。最高の要塞……じゃなくて、お宿ですね! 絶対にまた来ます!」
彼女がSNSで呟いたのか、それから数日の間に「どんな悪天候でも絶対に安全で快適な宿」という噂がネットの片隅で囁かれ始めた。癒やしを求める訳ありの客たちが少しずつ訪れるようになり、軍事AIの過剰防衛と平和な民宿経営のギャップに頭を抱えながらも、俺たちの民宿は本格的なスタートを切ることになった。
◆ーーーー◆
民宿から少し離れた岩場。ジャーナリストを名乗る男、ゴウダは高価な望遠レンズを構え、ファインダー越しにその古い建物を睨みつけていた。
「絶対の安全性、ね。ただのボロ宿がそんな設備を持てるわけがないだろうが」
彼は「退役した軍事AIが民間利用されている」という黒い噂を嗅ぎつけていた。もしそれが事実なら、軍の管理体制を揺るがす大スキャンダルだ。特ダネを掴んで名声を高め、同業者たちを見返してやるという野心が、ゴウダの胸の中で黒く燃え上がっている。
「さて、お手並み拝見といくか。どんな仕掛けがあるにせよ、俺の目は誤魔化せないぜ」
複数の隠しカメラと指向性マイクを上着に仕込み、ゴウダは岩場を降りた。人の良さそうな笑みを顔に貼り付け、客を装って民宿の敷地へと足を踏み入れる。
「ごめんくださーい。いやあ、道に迷っちまって。あんたのところ、休憩だけでもいけるかい?」
◆ーーーー◆
「マスター。接近中の対象から、複数の隠しカメラと指向性マイクの反応を検出。脅威度B。不審者としてマークしました」
ロビーで帳簿をつけていた俺の耳に、イージスの冷たい報告が届いた。
「待て、ただの迷子のお客さんかもしれないだろ」
「否定します。対象の歩行パターンおよび携行品から、当施設への情報工作を企図する敵対的偵察員と推測。歓迎プロトコル、迎撃モードに移行します」
「おい、歓迎と迎撃を一緒にすんな!」
俺がコンソールに駆け寄るよりも早く、イージスは行動を起こした。
玄関先に立っていた男の足元で、突然、乾いた破裂音が響いた。
「うわあっ!?」
男が悲鳴を上げて尻餅をつく。地面の砂利が弾け飛び、白煙が立ち上った。
「当施設への無断撮影および音声録音は、プライバシー保護の観点から固く禁じられております。速やかに退去されない場合、次弾は貴方の機材を正確に破壊します」
スピーカーから流れるイージスの無機質な警告音に、男は顔面を蒼白にさせた。
「ヒッ……バ、バカな! なんだこのふざけた仕掛けは!」
男は隠し持っていた高価な機材をかばうように抱え込み、転がるようにして逃げ出していった。
◆ーーーー◆
命からがら岩場まで逃げ戻ったゴウダは、荒い息を吐きながら地面にへたり込んだ。
足元を狙った正確な射撃。そして、こちらの偽装を瞬時に見抜く異常な索敵能力。
「ハッ……ハハハッ!」
恐怖よりも先に、ゴウダの口から不敵な笑みが漏れた。
「間違いない。やはりあそこには、軍事AIが隠されている」
ただの防犯設備で片付けられるレベルではない。あのボロ民宿には、とんでもない化け物が潜んでいる。
「絶対に正体を暴いてやる。お前らの化けの皮を剥がして、俺の特ダネにしてやるよ」
ゴウダは執念に満ちた目で民宿を睨みつけ、さらなる偵察の準備を始めるのだった。
◆ーーーー◆
男が逃げ去った後、俺はロビーのコンソールを前にして頭を抱えていた。
「イージス。お前、今撃ったのはなんだ」
「害獣駆除用の音響弾をベースに、私が独自に威嚇用のマイクロミサイルとして再調整したものです。対象の生命に危険が及ばないよう、着弾地点はミリ単位で正確に計算されていました」
青い波形が、誇らしげに明滅する。
「そういう問題じゃない。俺は撃てなんて命令してないぞ。話し合いで解決するって、いつも言ってるだろ」
「はい。ですが、マスターと施設の安全を最優先するため、規定外の自己判断を実行しました」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
軍のAIは、いかなる状況であっても、人間の命令なしに自己判断で攻撃行動を行うことは固く禁じられている。威嚇射撃であっても例外ではない。それが絶対のルールだ。
俺は右肩の古傷を無意識にさすった。
イージスが軍を退役させられた本当の理由。それは単なる型落ちや、平和的アプローチができないという欠陥だけではなかったのではないか。
「規定外の自己判断」
もし彼女が、軍の命令を超える自我を獲得していたとしたら。
外では再び風が強まり、軋む床板が不気味な音を立てていた。俺たちが手に入れた平穏な日常の足元に、底知れぬ深い闇が口を開けているような気がしてならなかった。




