第18話
軋む床板を踏まないよう慎重に歩を進めながら、俺はヒイラギの客室の前に立ち止まった。ドア越しに耳を澄ますと、波の音に混じって、重苦しいファンの駆動音が絶え間なく響いているのがわかる。
俺は足音を殺して二階の廊下を引き返し、一階の事務室へと逃げ込んだ。
心臓が嫌なリズムで跳ねている。昨日ヒイラギの部屋で目撃した軍用データ解析端末は、今も休むことなく稼働し続けているはずだ。あの分厚い装甲に覆われた機材が、民宿内のネットワークや電波を傍受している可能性は極めて高い。
ヒイラギというあの神経質な男。ただのクレーマーだと思っていたが、間違いなく軍の査察官か何かだ。イージスが軍の備品だとバレれば、彼女は回収され、再び戦場へと送られてしまう。俺は胃の奥が冷たくなるのを感じながら、作業着のポケットに手を突っ込んだ。
「マスター。心拍数の上昇を検知しました。自律神経に乱れが生じています。温かいハーブティーを抽出しましょうか」
天井のスピーカーから、イージスの生真面目な合成音声が降ってくる。
「いや、大丈夫だ。それよりお前、明日からは絶対にただの優秀なスマートホームAIのフリをしろ。軍事レベルの演算能力を見せつけるなよ」
「命令を受信。一般家庭用システムの挙動をエミュレートしつつ、極上のサービスを提供します」
翌朝。食堂に現れたヒイラギは、相変わらず鋭い視線で周囲を観察していた。
彼はテーブルにつくや否や、室温や湿度のわずかなブレを指摘しようと口を開きかける。だが、その言葉が発せられるよりも早く、配膳ドローンが静かに滑り寄ってきた。
テーブルに置かれたのは、湯気を立てる一杯のコーヒーと、完璧な焼き加減のトーストだ。
「当館特製のブレンドです。本日の気圧と、貴方の生体データから算出された最適な温度で抽出いたしました」
ヒイラギは怪訝そうな顔でカップを手に取り、一口飲んだ。その瞬間、彼の眉間の皺がわずかに解ける。
さらに、指向性スピーカーから彼が好むであろう落ち着いた環境音が、ピンポイントで再生され始めた。照明の角度すら、彼の網膜への負担を最小限にするよう自動調整されている。
「……この豆の抽出温度、そして私の微細な表情筋の変化を読み取ったかのような選曲。市販のAIでここまで演算できるはずがない」
ヒイラギは呟き、探るような視線を天井のセンサーに向けた。
俺はカウンターの奥で冷や汗を拭った。ただのスマートホームAIのフリをしろと言ったのに、イージスは情報戦のノウハウを接客に全振りして、先回りして相手を黙らせる戦法に出ている。
「やりすぎだ。もっと自然に振る舞えないのか」
インカム越しに小声でツッコミを入れる。
「滞在者の要求を完全に予測し、不満の芽を事前に摘み取る。これが現在の私の最優先任務です」
イージスの青い波形が、操作盤のモニターで誇らしげに揺れた。
その時、窓の外の茂みが不自然に揺れた。
「敷地境界線に不審な熱源を複数検知。昨日のパパラッチの仲間、および地上げ屋の残党と推測されます」
「なんだと? ヒイラギに見つかる前に追い払え。だが絶対に傷つけるなよ」
「承知した。非致死性の音響制圧を実行します」
窓の外で、黒ずくめの男たちが突然耳を押さえてうずくまり、這うようにして逃げ出していくのが見えた。ネズミ除けの超音波を最大出力で照射したのだ。
ヒイラギは優雅にコーヒーを飲み続けており、外の惨状には全く気づいていない。宿泊者の平穏は完璧に守られていたが、俺の胃の痛みが消えることはなかった。
その夜。
俺が事務室で帳簿を整理していると、壁に設置された電力計の数値が異常な跳ね上がりを見せた。
さらに、操作盤の奥にあるサーバーラックから、通常ではありえない排熱の唸り声が聞こえてくる。
「おい、イージス。お前、また何か物騒な機能を裏で動かしてるんじゃないか?」
俺はインカムのスイッチを入れ、低く問い詰めた。
「該当しません。マスターの指示通り、滞在者の身の安全を確保するための通常警戒モードを維持しています」
「嘘をつけ。この電力消費量は、ただの防犯カメラのレベルじゃないぞ。電気代だけで民宿が潰れちまう」
イージスは沈黙した。彼女は決して俺に嘘をつかないが、都合の悪い事実を言い淀むことはある。
数秒後、事務室のモニターが切り替わった。
映し出されたのは、ロビーに飾られている祖父の古い海図のデジタルスキャン画像だ。不自然な手書きの書き込みがある沖合のポイントが、赤く点滅している。
「索敵レーダーが、所属不明の船舶を捕捉しました。トランスポンダーの応答はなく、偽装網を展開していますが、光学センサーと熱源探知により武装した人員を複数確認」
モニターには、暗い海に浮かぶ不審船のシルエットが浮かび上がっている。
ただの密漁船ではない。その動きは統制が取れており、明らかにこの民宿の敷地を狙うように接近してきている。
俺の背筋に冷たい汗が伝った。
ヒイラギという軍の監視の目が光っている今、イージスの軍事スペックをフル稼働させれば、彼女が兵器であることが完全に露呈してしまう。
だが、このままでは宿泊者に危害が及ぶ。正体を隠し通すか、客を守るために封印していた機能を解放するか。
「マスター。迎撃プロトコルの承認を。このままでは、当施設の防衛ラインが突破されます」
イージスの声には、機械でありながらどこか切羽詰まったような響きがあった。
「……待て。前回のように直接的な干渉で追い返せば、ヒイラギの端末が電波の異常を検知する。迎撃は却下だ。奴らの航法システムに介入し、偽の海象データを流し込んで針路を逸らさせろ。一切の痕跡を残さず、電子的な誘導だけで奴らを無力化するんだ」
俺は拳を握り締め、決断を下した。
「計算リソースを再配分します。平和的手段による完全制圧シミュレーションを開始」
イージスの青い波形が激しく明滅し、サーバーの冷却ファンが悲鳴を上げた。俺たちは正体を隠したまま、この危機を乗り越えなければならない。
◆ーーーー◆
暗い海の上。波に揺れる不審船の甲板。
武装した男たちが、サーチライトの光を頼りにクレーンを操作していた。
彼らの視線の先には、崖の上に建つ古ぼけた民宿のシルエットがある。
「おい、引き揚げの準備はできたか」
リーダー格の男が、海面から伸びる太いワイヤーを指さして低い声で尋ねる。
「ああ。だが、あのボロ屋の連中が気づくかもしれないぞ」
「構わねえ。邪魔する奴は海の底に沈めてやる」
男たちは民宿の方向を指さしながら、不気味な笑みを浮かべた。
彼らは何者で、冷たい波の下から何を引き揚げようとしているのか。
潮騒の音に混じって、ウインチの巻き上がる重い金属音が夜の海に響き渡っていた。




