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第17話

波乱の夜が明け、かもめ荘には白々とした朝の光が差し込んでいた。


二階の角部屋。神経質そうな男、ヒイラギが指先で窓枠の隅をなぞり、じっとその指先を見つめている。


「マスター。この部屋の湿度は規定値より一・五パーセント高い。それに、先ほどのAIの音声案内ですが、タイミングがコンマ二秒遅れていましたよ」


銀縁メガネの奥で、鋭い視線が俺を射抜く。軍の査察官である彼は、監視を名目にこの民宿に滞在し続けていた。他の客にはただの気難しいビジネスマンとして振る舞っているが、その要求は異常なほど細かい。


「申し訳ありません、お客さん。海辺なもので、どうしても湿気がこもりやすくて」


俺は愛想笑いを浮かべながら平謝りした。心の中では、インカム越しにイージスへと念を送る。いいか、お前はただの優秀なスマートホームAIだ。絶対にボロを出すなよ。


『命令を受理。対象の要求水準を満たすため、局地環境制御システムを起動します』


生真面目な女性の合成音声が脳内に響いた直後、エアコンの吹き出し口から微細な気流が発生した。室内の湿度と温度が瞬時に最適化され、肌にまとわりついていた潮風のベタつきが嘘のように消え去る。


ヒイラギはわずかに目を見開き、再び窓枠や棚の上を確認し始めた。しかし、軍事レベルの環境制御システムがミリ単位で調整した空間に、埃一つ、湿気の淀み一つ見つかるはずもない。


「……なるほど。見事な空調管理だ。だが、これほどの処理能力を単なる接客に用いるのは、やはり不自然極まりない」


彼は忌々しそうに呟き、手帳に何かを書き込んだ。俺は冷や汗を拭いながら、なんとかこの場をやり過ごした。


◆ーーーー◆


同じ頃、かもめ荘の裏手に広がる崖の上の茂み。


作業着姿の男、ゴウダがパラボラアンテナ付きのハッキング機材を組み立てていた。首から下げた複数のカメラが、ガチャガチャと鈍い音を立てる。


「あの堅物客の相手で、AIの処理能力は分散しているはずだ。今度こそ、あの要塞民宿のネットワークを丸裸にして、特ダネを頂いてやる」


彼は執念深い笑みを浮かべ、キーボードを叩き始めた。追われる身のVIP令嬢であるレイカや、スランプを脱した小説家のシノブ。この民宿には、世間が飛びつくような訳ありの客が集まっている。ゴウダにとって、ここは宝の山だった。


だが、彼の目論見は開始から数秒で打ち砕かれることとなる。


『マスター。敷地境界線外に敵対的電子戦エージェントを確認。ジャミングおよび非致死性音響兵器による制圧を推奨します』


インカムから聞こえた物騒な報告に、俺は廊下の隅で頭を抱えた。


「待て、そんな物騒な言い方をするな。あくまで『ネズミ除け』の延長だぞ。他の客の平穏を乱すなよ」


『指示を確認。害獣駆除モード、最大出力で実行します』


次の瞬間、ゴウダのハッキング機材のモニターが激しくノイズを放ち、完全にブラックアウトした。同時に、人間の耳には聞こえないはずの強烈な超音波が、ピンポイントで彼の三半規管を揺さぶる。


「な、なんだ……頭が、割れそう……」


ゴウダは白目を剥き、機材に突っ伏すようにして気絶した。軍事用ジャミングと指向性音響兵器の合わせ技による、完全な情報戦の勝利だった。


俺は窓から崖の上を確認し、小さくため息をつく。レイカやシノブの部屋は完全な防音と環境制御で守られており、彼女たちは何事もなかったかのように優雅な朝の時間を過ごしているはずだ。


「やりすぎだとは思うが……まあ、客の癒やしは守られたか」


◆ーーーー◆


ヒイラギのクレーム対応とゴウダの撃退を終え、ようやく一息つけると思った矢先だった。


『マスター。沖合より高速接近する小型艇三隻を確認。熱源反応から、武装した人員が複数乗船していると推測されます』


イージスの報告に、俺は胃の奥が冷たくなるのを感じた。


モニターを確認すると、民宿のプライベートビーチに向かって一直線に向かってくるボートの影が映し出されている。昨夜逮捕されたサメジマたちの残党か、あるいは別の密漁団か。いずれにせよ、ただの通りすがりではない。


「ヒイラギさんがいる今、派手な迎撃をやれば完全に言い逃れできなくなるぞ……」


俺は唇を噛んだ。正体を隠し通すために、イージスの機能を制限したままやり過ごすか。それとも、客の安全を守るために封印していた軍事機能を解放するか。


ジレンマが胸を締め付ける。だが、迷っている時間はなかった。


俺にとって、譲れないものは一つしかない。


「イージス、防衛態勢へ移行しろ。ただし、一切の武力は使うな。あくまで『過剰な接客』で追い返すんだ」


『同意します。マスターの命令を絶対とします。非致死性制圧プロトコルをロード。対象への極上の歓迎プログラムを開始します』


イージスの青い波形が激しく明滅した。


海中に設置された防犯用ソナーと水中スピーカーが連動し、密漁団のボートの周囲に低周波の振動を発生させる。同時に、夜間照明用のドローン編隊が海面すれすれを飛び交い、強烈なストロボ光を放った。


海面が不自然に波立ち、巨大な光の渦がボートを取り囲む。さらに、水中スピーカーからは大音量のクラシック音楽が、不協和音のように歪められて響き渡った。


「な、なんだこれ! 海が光って……化け物か!?」


「引き返せ! エンジン全開だ!」


パニックに陥った密漁団の男たちは、まるで巨大な海獣に襲われたと勘違いし、慌てて舵を切った。ボートは白波を立てながら、来たとき以上の猛スピードで沖合へと逃げ去っていく。


一切の武力を使わず、ただの照明と音楽だけで脅威を退けたのだ。


「……ふう。なんとかなったか」


俺はインカムのスイッチを切り、深く息を吐き出した。正体がバレるリスクを負ってでも、宿泊客の平穏と安全を守り抜いた。その確かな手応えが、疲労した身体に小さな活力を与えてくれる。


事態の収拾を確認し、俺はヒイラギの様子を見るために再び二階へと向かった。


彼の部屋のドアが、ほんの少しだけ開いている。隙間から中を覗き込むと、ヒイラギがベッドの上に広げた大きなトランクを整理しているところだった。


俺は思わず息を呑んだ。


着替えや日用品が入っているはずのトランクの中には、一般人には不釣り合いな軍用の計測機器や、分厚い装甲に覆われたデータ解析端末がぎっしりと詰まっていたのだ。


ヒイラギは無表情のまま、その中の一つの機器を手に取り、何かを確認するように頷いている。


ただの監視や査察のために、これほどの機材を持ち込む必要があるだろうか。


この神経質な客の本当の目的とは何なのか。


冷たい潮風が廊下を吹き抜け、軋む床板が微かに鳴った。平穏を取り戻したはずの民宿に、新たな波乱の予感が静かに満ちていた。


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