第15話
通信機の向こう側からは、ノイズ混じりの不気味な沈黙が返ってくるだけだった。
だが、事態が単なる密漁団の襲撃で終わらないことだけは確実だった。
黒幕であるクロガネは、一体どのような手を打ってくるつもりなのか。
俺はコンソールに手を置き、モニターの向こうの暗闇を睨みつけた。
小さな前進の手応えはあった。だが、波乱の夜はまだ終わらない。
「マスター。沖合の不審船から新たな熱源反応を多数検知しました」
イージスの平坦な合成音声が、静まり返った管理室に響き渡る。
メインコンソールに表示された青い波形が、鋭く小刻みに揺れていた。俺はすぐさまモニターの暗視カメラ映像を切り替える。波間に黒い影がいくつも浮かび上がり、白い航跡を引いてこちらへ向かってくるのが見えた。
「小型の無人攻撃艇です。数、六。当施設のプライベートビーチへ向けて急速接近中。サメジマの通信傍受データと照合した結果、クロガネが手配した支援部隊である確率が極めて高いと推測されます」
俺は舌打ちをした。
地上げ屋のクロガネめ。以前、イージスの圧倒的な情報収集能力とドローンによって合法的に追い払われた腹いせも兼ねているのだろう。密漁団のサメジマに資金や機材を提供し、裏で糸を引いていたに違いない。
「迎撃態勢に入りますか? 対艦ミサイルは搭載されていませんが、私の演算能力をもってすれば、手持ちの設備で全艇を海の藻屑にすることは容易です」
「待て待て待て。ここは民宿だぞ」
俺は慌ててコンソールを叩き、イージスの物騒な提案を却下した。
現在、かもめ荘には訳ありの客たちが滞在している。自由を求めて家出してきたお嬢様のレイカや、地元の駐在であるタチバナ。そして何より厄介なのが、神経質なクレーマー客を装って宿泊している軍の査察官、ヒイラギだ。
ヒイラギは、イージスが軍から不正に持ち出された兵器ではないかと疑っている。
ここで派手な火器管制システムを起動させれば、イージスがただのスマートホームAIではないことが完全にバレてしまう。そうなれば、彼女は危険な兵器として軍に回収され、再び戦いに駆り出されることになる。それだけは絶対に避けなければならなかった。
「イージス、お前はあくまで優秀なスマートホームAIだ。軍事レベルの機能は隠蔽しろ。派手な迎撃は禁止だぞ」
「しかし、マスター。現在接近中の無人艇は、当施設の防衛ラインを突破する確率が極めて高いと推測されます。通常のおもてなしプロトコルでは対応不可能です」
イージスの声に、微かな焦りが混じる。
彼女の設計思想は破壊と防衛に特化している。客の安全を守るためには、封印していた軍事機能を解放して敵を殲滅するのが彼女にとっての最適解なのだ。正体を隠し通すか、客の安全を優先して実力行使に出るか。俺は胃の奥が冷たくなるような重い決断を迫られていた。
「客の安全とプライバシーを最優先にするんだ。どんなトラブルも、暴力じゃなく平和的な手段で解決する。それがうちのルールだろ」
俺はモニターの青い光に向かって、ゆっくりと語りかけた。
「隠密で、かつ客に危機を悟らせないように迎撃できないか? ただの優秀な防犯システムに見える範囲で頼む」
「平和的な手段での、隠密迎撃……」
青い波形が、計算リソースをフル稼働させているのか、激しく明滅を繰り返す。
数秒の沈黙の後、イージスが応答した。
「プランを構築しました。地下の旧軍物資貯蔵庫の設備をハッキングし、連動させます」
「地下の設備?」
俺が買い取ったこのボロ民宿は、実は旧軍の隠し物資貯蔵庫の上に建っている。そのことは知っていたが、設備がまだ生きているとは思わなかった。
「貯蔵庫の冷却用高圧ポンプシステムを掌握しました。これを海中の配管と接続し、指向性を持たせて海水を噴出させます。同時に、軍事用ジャミングを展開し、無人艇の通信とセンサーを撹乱。視覚的エンターテインメント性を付加した物理的排除を実行します」
「視覚的エンターテインメント性?」
嫌な予感がした。だが、無人艇はすでに波打ち際まで数百メートルの距離に迫っている。迷っている暇はない。
「よし、やれ! ただし、絶対に死傷者は出すなよ!」
「了解しました。これより、極上のウォーターショーを開始します」
イージスが宣言した瞬間、民宿の床下からズシンという重低音が響いた。
モニターの映像が切り替わる。
真っ暗な海上に、突如として巨大な水柱が立ち上がった。
ドゴォォォン!
一本だけではない。二本、三本と、等間隔で海面が爆発したかのように水が噴き上がる。高さは優に十メートルを超えているだろう。
ジャミングによって制御を失った無人艇は、その巨大な水柱に次々と巻き込まれていった。まるで木の葉のように宙に舞い上がり、きりもみ回転しながら優雅に海面へと叩きつけられ、転覆していく。
「おいおいおい……」
俺は頭を抱えた。
水柱はただランダムに噴出しているわけではなかった。イージスが館内BGMとして流しているクラシック音楽の優雅なワルツのリズムに合わせて、右から左へ、左から右へと、まるで噴水ショーのように美しく連動して海面を舞っているのだ。
非致死性の物理的排除としては完璧だ。無人艇は完全に無力化され、波間に腹を見せて浮かんでいる。
だが、隠密とは程遠い。
「マスター。無人艇の完全制圧を確認しました。当施設の防衛ラインは死守されました」
「やりすぎだ! どこが隠密なんだよ、こんなド派手な噴水ショー!」
「計算上、この規模の視覚効果であれば、宿泊客に『民宿の豪華なアトラクション』と誤認させる確率が九十八パーセントを超えます。平和的なおもてなしの範疇です」
イージスが平然と答えたその時、背後のドアが勢いよく開いた。
「トオル様! 今のすごい音は……まあっ!」
大きなサングラスと帽子を被ったレイカが、ロビーの窓に駆け寄った。
その後ろからは、パジャマ姿のタチバナも目をこすりながら現れる。騒ぎを聞きつけて起きてきたのだ。
「なんだいなんだい、地震か……うわあ、すごいねえ!」
二人は窓にへばりつき、海上で繰り広げられる巨大な水柱の乱舞を見つめていた。
ワルツのクライマックスに合わせて、六本の水柱が一斉に夜空に向かって噴き上がり、月光に照らされてキラキラと輝く水しぶきを散らしている。
「なんて素敵なウォーターショーかしら! こんな夜中にサプライズの歓迎をしてくださるなんて、感激ですわ!」
レイカが両手を合わせて拍手喝采を送る。
「いやあ、最近の防犯システムは、客を楽しませる機能までついてるんだねえ。トオルくん、かもめ荘は本当にすごいよ!」
タチバナも完全に勘違いして、無邪気に笑っている。
俺は冷や汗を拭いながら、引きつった笑顔を浮かべた。
「ええ、まあ……特別サービスです。お楽しみいただけたなら何よりで」
レイカやタチバナが本当の危機に気づく様子はない。イージスの計算通り、見事にアトラクションとして受け入れられていた。
だが、問題はもう一人だ。
階段の踊り場に、腕を組んで立つ人影があった。
軍の査察官、ヒイラギだ。
彼女は窓の外の狂ったような噴水ショーと、完全に沈黙した無人艇の残骸を冷ややかな目で見つめている。その表情からは感情が読み取れないが、明らかに呆れ果てているようにも見えた。
「……随分と、大掛かりなスマートホームAIですね」
ヒイラギがぽつりと呟く。
「ええ、うちの自慢の設備ですから。温度管理からエンターテインメントまで、完璧にこなすんですよ」
俺は必死に平静を装って答えた。ヒイラギは小さく鼻で笑うと、何も言わずに自室へと戻っていった。
どうにか誤魔化せたのだろうか。いや、疑念は深まったに違いない。だが、少なくとも今夜のところは、イージスを回収する口実は与えずに済んだはずだ。
客たちが満足げに部屋へ戻っていくのを見送り、俺は深く息を吐き出してコンソールの前に座り直した。
「マスター」
イージスの声が、静かな管理室に響く。
メインコンソールの青い波形が、いつもより少しだけ柔らかく、温かみを帯びて明滅しているように見えた。
「私の防衛行動が、宿泊客の笑顔を誘発しました。これは……『おもてなし』として成功したと定義してよろしいのでしょうか」
彼女の声には、機械でありながら、どこか戸惑いと、かすかな喜びのようなものが混じっていた。
軍事基準に偏った自分のアルゴリズムにジレンマを抱えていた彼女が、兵器の力を使って人を笑顔にできたことに、自身の存在意義に対する新しい答えを見つけようとしているのだ。
俺はモニターに手を伸ばし、優しく画面を叩いた。
「ああ、大成功だ。お前は最高の相棒だよ、イージス」
「……ありがとうございます、マスター」
青い光が、嬉しそうに小さく跳ねる。
彼女の自我は、確実に成長している。単なる殺戮の道具ではなく、人を守り、癒やすための存在として。
だが、窓の外の暗い海には、まだクロガネの悪意が潜んでいるはずだ。
波乱の夜を乗り越えた手応えはある。しかし、この平穏な日常を完全に勝ち取るための戦いは、まだ始まったばかりだった。




