第九章 捕虜
人類と宇宙人の最初の会話は、「こんにちは」では始まらなかった。
二、三、五、七、十一。
素数だった。
「……地味ですね」
神谷悠真が言うと、隣にいた言語学者が苦笑した。宇宙人の調査に悠真が興味を示すと普通に見学を許されていた。
一度だけならたまたま。しかし悠真は二度、宇宙人を撃退した。ならもう偶然ではない。悠真には宇宙人対策に関わる資格も能力もある。人類全体が悠真に対する恩義もあった。
それに悠真が家に帰るなど論外だったし、政府としても悠真が関連施設で機嫌よく過ごしていてくれるなら色々と都合が良かった。
「宇宙人とのファーストコンタクトに何を期待していたの?」
「もっとこう、翻訳機が一晩で完成するとか」
「現実なんて本当に地味なものよ」
「地味な現実なら宇宙人の戦闘機に高校生が乗ったりもしませんよ」
「そこを言われると反論しづらいな」
基地内の一角に設置された臨時研究区画。その厚い透明壁の向こうには、人類が初めて生きた状態で確保した異星人がいた。
侵略開始から五日。人類は彼らの名前すら知らなかった。
政府発表では《地球外知的生命体》、軍の文書では《敵性異星種》などと記載されていたが、一般には単に《宇宙人》と呼ばれている。彼ら自身が何と名乗っているのかはもちろん、彼らが自分たちを一つの種族、国家、文明のどれとして認識しているのかさえ分かっていなかった。
悠真たちも同じだった。
「宇宙人」
「敵」
「四本腕のやつ」
それで通じてしまっていた。目の前にいる捕虜も、今のところ《捕虜一号》でしかない。
負傷から三十時間。鹵獲した異星機から取り外された生命維持装置のおかげで状態は安定していた。失った右下腕についてはどうすることもできなかったが、胸部の損傷は彼ら自身の医療装置が処置を続けている。
身体には拘束具が取り付けられていた。ただし必要以上に厳重なものではない。地球人より身体能力が高い可能性はあるものの、現在は重傷者だ。何より、ここ数時間の様子を見る限り、暴れる意思は見せていなかった。
むしろ異星人自身が、人間との意思疎通を望んでいるように見えた。
透明板の向こうで、残った三本の腕のうち細い一本が動く。点を二つ描き、間を空けて三つ。次は五つ、七つ、十一。
「やっぱり素数ですね」
数学者が言った。
「十三を返して」
人間側のディスプレイに十三個の点を表示する。異星人が止まった。巨大な黒い眼が表示を見つめる。数秒後、相手側の画面に十七個の点が現れた。
「通じた」
誰かが小さく呟いた。たったそれだけだった。だが研究室の空気は明らかに変わった。
悠真にはその感覚が少し分かった。初めて異星機の操縦席へ座り、何も分からない表示の中で視線を動かした時、機械がこちらの意図に反応した。分からないものの中に、一つだけ分かるものを見つける。
そこから世界が変わり始める。
*
数学は早かった。加算、減算、乗算、除算。整数、分数、図形、角度。異星人と人類では数字の表記がまるで違ったが、内容そのものは変わらない。彼らはどうやら十二を基準とする数体系を使っているらしかった。
「十二進法?」
悠真が聞く。
「おそらく」
「腕が四本だからですかね」
「なぜ腕の数が関係する?」
「指で数えるなら」
言語学者が異星人の手を見る。四本の腕のうち、太い二本と細い二本。手指の構造も人間とは違う。
「身体由来の可能性はある。でも文化的な理由かもしれない。人間だって十進法以外を使ってきた文明はあるからね」
「宇宙人も数字の数え方で揉めたりしたのかな」
「文明なら、たぶん色々あったんじゃない?」
表記法が違っても、一と一を合わせれば二になる。円周率も変わらない。同じ宇宙なら、物理定数も共有できる。
最初に人類と異星人を繋いだのは言葉ではなかった。宇宙そのものだった。次は元素へ進んだ。水素、ヘリウム、炭素、酸素。原子番号。陽子。電子。人間側が水素原子の模式図を表示すると、異星人は別の記号で同じ構造を返した。
「周期表はいけます」
化学者が声を上げる。水、二酸化炭素、酸素分子。次々に対応が取られていく。そこで最初の大きな食い違いが起きた。色だった。人間側が赤、緑、青を提示しても、相手の反応がおかしい。
「色覚が違う?」
「可能性があります」
研究員の言葉に悠真は思い出した。
「異星機の画面にも、俺にはほとんど見えない表示がありました」
「近赤外域ですね」
すでに鹵獲機の調査から、彼らの視覚が人間より長波長側へ広がっている可能性は指摘されていた。
「じゃあ俺たちの『赤』と、向こうの『赤』が同じとは限らない?」
「色の感じ方そのものは比較できない。でも波長なら共有できる」
色を捨てる。数値にする。波長を示す。異星人が理解した。また一つ、橋が架かった。
*
問題はここからだった。数字が通じても、「私」「あなた」「来る」「行く」は数字ではない。人間側は大量の映像を用意した。
一人の人間が歩く。部屋へ入る。出る。物を持つ。置く。食べる。眠る。見る。それぞれに対応する概念を、異星人側から提示してもらう。失敗の連続だった。
人間側が「歩く」を示したつもりでも、返ってきた言葉はどうやら「自力移動」全般を意味している。「食べる」は「体内へ物質を取り込む」に近く、人間が考える食事より意味が広いらしい。
さらに時間の概念も違う。過去、現在、未来。彼らの言語では、時間情報が人間とは異なる方法で文章へ組み込まれているらしい。
三時間後、悠真は机に突っ伏した。
「これ無理じゃないですか」
「これでも異常に早いよ」
「どこが」
「相手が協力的だから」
言語学者が透明壁の向こうを指す。異星人は、人間側が意味を理解できないと自分から別の図を作った。図でも駄目なら映像。映像でも駄目なら数字。人間が理解するまで何度も方法を変える。苛立った様子はない。
「頭いいですね」
「恒星間を渡ってきた文明だからね」
悠真は相手を見る。
「向こうから見たら俺ら、めちゃくちゃ頭悪く見えてません?」
「どうだろう」
「パソコンの仕組み全然知らない人に、マウスの使い方から教えてる感じじゃないですか」
「もっと酷い可能性もある」
「傷つくなあ」
その時、悠真はふと思った。
「そもそも、こいつら何ていうんですかね」
「何ていう、とは?」
「名前ですよ」
「個人名?」
「それもですけど」
悠真は透明壁の向こうにいる異星人を指した。
「俺たちずっと宇宙人って呼んでるじゃないですか。でも自分たちは何て呼んでるんだろ」
研究室が少し静かになった。当然の疑問だった。だが、まだ誰も聞いていない。
「やってみましょう」
言語学者が言った。
*
最初に、人間を数人表示した。日本人。アメリカ人。中国人。様々な人種。そのすべてを囲む。
《人間》
次に生物学上の種名。
《ホモ・サピエンス》
そして悠真自身を指す。
「人間」
胸に手を当てる。
「人間」
研究員も同じ動作をする。
「人間」
異星人はしばらくそれを見ていた。やがて理解したらしい。自分を指した。口を開く。音が出た。悠真は眉を寄せた。
「……今なんて?」
もう一度。低い音と高い音がほぼ同時に響いた。その途中に、人間の喉では発音しにくい摩擦音が混じっている。
録音。再生。何度聞いても正確には真似できない。
「声帯が違うんでしょうね」
音声学者が波形を表示する。
「同時に二系統の音を出している」
「俺らには発音できない?」
「完全には無理そう」
異星人がもう一度、自分を指して発音する。解析班が音を分解する。人間に聞き取りやすい部分だけを抽出した。
ヴァ。ル。クに近い閉鎖音。
「……ヴァルク?」
悠真が言った。異星人の大きな目がこちらを向いた。悠真は自分を指す。
「人間」
次に相手を指す。
「ヴァルク?」
異星人がわずかに動いた。肯定なのか。単に反応しただけなのか。もう一度。
「人間」
自分。
「ヴァルク」
相手。
今度は異星人が、自らを指して本来の発音を繰り返した。
「近いんじゃない?」
言語学者が言う。
「少なくとも、自分たちを指している単語なのは間違いなさそうです」
音声学者が考える。
「正式な音写は後で決めるとして、人間が発音できる近似形なら《ヴァルク》でいいでしょう」
研究責任者が確認する。
「種族名か?」
「文明名かもしれません」
「国家名の可能性もある」
「その区別はまだできません」
悠真は透明壁の向こうを見る。
「ヴァルク」
口にしてみる。昨日まで。名前すらなかった宇宙人。侵略者。敵。それだけだった存在に初めて名前がついた。
《ヴァルク》
その呼称は直ちに政府へ報告された。
数時間後、主要同盟国へ共有。さらに翌日の政府発表で、人類は侵略開始以来初めて、彼らを公式に呼ぶ名前を得ることになる。
地球外知的生命体。人類側呼称。 《ヴァルク》
*
種族名が分かると、次は個人名だった。悠真は自分の胸を指した。
「神谷悠真」
もう一度。
「悠真」
ヴァルクはじっと見る。悠真は相手を指した。
「あなたは?」
日本語が通じるわけではない。それでも先ほどのやり取りを理解したのだろう。捕虜は自分の胸へ細い腕を当て、一連の音を発した。今度も難しかった。二つの音程が重なり、人間には存在しない子音が挟まる。
「……無理」
悠真が即答した。研究室に小さな笑いが起きた。もう一度発音してもらう。
解析。人間の耳で比較的近い部分を抜き出す。
「ルク、に聞こえるところがありますね」
「ヴァルクと紛らわしくないですか」
「でも捕虜一号と呼ぶよりはいいでしょう?」
悠真が相手を指す。
「ルク?」
異星人――ヴァルク人は反応した。
「通じてるっぽい」
「本人からすれば相当発音の悪いあだ名かもしれないけどね」
「外国人に悠真を『ユーマー』って呼ばれるような?」
「たぶんもっと酷い」
「ごめんな、ルク」
意味は通じない。だがルクはこちらを見ていた。
*
四日目。翻訳作業の速度は急激に上がった。理由は、ヴァルク自身のコンピューターを利用し始めたことだった。人類側は異星機のプログラムを理解できない。しかしルクなら操作できる。
安全上、通信系と武装系は完全に隔離した。研究用に回収された損傷機から、表示装置と演算系の一部だけを取り外す。
ルクが三本の腕を動かした。表示が猛烈な速度で切り替わる。
「速っ」
悠真が声を漏らす。
「何やってるか分かります?」
「全然」
研究員も即答した。数分後。画面に人間の画像。その横にヴァルク文字。
水。ヴァルク文字。
移動。ヴァルク文字。
「辞書?」
「作ってるんだ」
ルクは、人間側が数日かけて集めた語彙対応を自分たちのシステムへ入力し始めていた。
「こっちより仕事早いじゃん」
「自分のコンピューターだからな」
数時間後。最初の簡易翻訳が動いた。文章を翻訳するにはほど遠い。単語が並ぶだけだ。
人間側が入力する。
《あなた 痛み ある》
ヴァルク語へ変換。ルクが読む。入力する。
《身体 損傷 現在 小》
研究室がざわついた。
「通じた」
次。
《あなた 食物 必要》
返答。
《必要 後》
不自然。だが意味は分かる。侵略開始から数日。人類とヴァルクは初めて、図でも砲火でもない形で意思を交換した。
悠真は画面を見た。
「聞いていいですか」
「何を?」
「なんで地球に来たのか」
研究室の空気が変わる。研究責任者が首を振った。
「まだ早い」
「でも一番知りたいのそこですよね」
「だからこそだ。翻訳精度が低すぎる。外交上重要な質問を誤訳したら取り返しがつかない」
正論だった。
*
その日の午後。答えは、別の質問から偶然姿を現した。太陽系の天体名称を対応させていた時だった。
太陽。水星。金星。地球。火星。ルクが地球を指す。
入力。簡易翻訳が単語を出した。
《適合》
「適合?」
火星。《不適合》
金星。《不適合》
もう一度地球。《適合》
「何に?」
研究者が質問を作る。
《何 適合》
ルクはしばらく考えたあと、人間、家、植物、水の画像を順番に表示した。さらに一語。
翻訳候補。《生活》《居住》《生存》
室内が静かになった。
「居住……」
悠真が呟く。ルクは地球を指した。そして自分。
《ヴァルク 居住 適合》
研究責任者の表情が変わった。
《ヴァルク 地球 住む 可能》
《肯定》
次。
《ヴァルク 地球 住む 希望》
今度は少し間があった。
《肯定》
「……移住?」
誰かが呟いた。ルクが新しい画像を表示する。一つの星。その周囲を回る惑星。
「母星か?」
質問。肯定。次にグラフ。時間経過。何らかの数値が悪化している。惑星上の色分けされた領域が、徐々に狭くなっていく。
「環境悪化?」
「恒星の変化かもしれない」
「まだ決めるな」
研究責任者が慎重に止める。そして、これまでより単純な質問を作った。
《ヴァルク 地球へ なぜ 来る》
ルクは長い時間、画面を見ていた。やがて入力。翻訳結果は、一語だった。
《生きる》
誰も動かなかった。悠真は文字を見つめた。
「生きる……」
世界中の軍事施設を破壊した。人間を殺した。ヴァルクも死んだ。悠真自身も何人も撃ち落とした。
その理由。生きる。
悠真は透明壁の向こうを見る。名前を知ったことで、妙な感覚があった。昨日までなら宇宙人が地球を奪いに来た。それだけだった。今は違う。ヴァルクが生きるために地球へ来た。
「……だからって」
悠真は小さく呟いた。その先は言わなかった。
*
その夜、緊急の非公開国際会議が開かれた。日本政府、防衛省、外務省、研究班。オンラインではアメリカ、英国、フランスをはじめとする複数国が参加している。
議題は二つ。
一つ。敵性異星文明の自称に関する報告。
「彼ら自身の発音を人間が完全に再現することは困難です。そのため近似音として《ヴァルク》を採用します」
「種族名なのか?」
「現時点では断定できません。民族、国家、文明全体を指す可能性もあります。ただし本人が『人類』と対応する概念として使用しています」
暫定的に決定された。
《敵性地球外文明 ヴァルク》
翌日から。世界中のニュースで、それまで《宇宙人》《異星人》と呼ばれていた存在に名前が付く。
《ヴァルク》
そして二つ目。彼らが地球へ来た目的。
「現段階では、侵略目的を移住と断定できません」
研究責任者が説明する。
「ただし地球を《ヴァルク居住適合》と認識していることは、かなり確度が高い。また彼らの母星と思われる惑星について、何らかの環境危機を示す情報が提示されています」
「資源略奪ではない?」
「水や鉱物だけが目的なら、地球を選ぶ合理性は低い」
一人の科学者が続けた。
「水は宇宙に珍しくありません。金属も同じです。わざわざ地球の重力井戸の底から資源を持ち上げる必要がない」
「では何が希少なんだ」
少し沈黙。
「地球です」
「地球?」
「液体の水があり、大気があり、適切な温度があり、磁場があり、恒星から適切な距離にあり、すでに複雑な生物圏が成立している惑星そのものです」
会議室が静まり返る。
「資源を取りに来たんじゃない」
誰かが言った。
「地球そのものが資源なのか」
*
悠真はその会議には参加していなかった。亮太と食堂でラーメンを食べていた。テレビでは速報が流れている。
《政府、地球外生命体の呼称を「ヴァルク」と発表》
亮太が画面を見る。
「ヴァルク?」
「ああ」
「今まで宇宙人だったのに、急に名前ついたな」
「本人に聞いたから」
亮太の箸が止まった。
「お前、普通にすごいこと言ったな」
「俺が聞いたっていうか研究チームが」
「本人って喋るの?」
「ちょっと」
「ヴァルク語?」
「翻訳はまだ単語だけ」
「何て言ってた?」
「秘密」
「またかよ」
亮太は麺を啜った。
「でも、名前分かるとなんか変な感じするな」
「何が」
「宇宙人って言ってた時は宇宙人だったじゃん」
「うん」
「ヴァルクって言われると、なんか……人みたい」
悠真は箸を止めた。その感覚は分かった。名前。ただそれだけのことだが、敵を単なる何かではなくする。
「平和に帰ってくれないかな」
亮太が言った。悠真は少し黙った。
「たぶん、簡単には帰らない」
「なんで」
「地球に住みたいみたいだから」
「ヴァルクが?」
「ああ」
亮太は考える。
「じゃあ、一緒に住めば?」
簡単な言葉だった。悠真も一瞬そう思った。
「何人いるんだろ」
「ヴァルク?」
「うん」
「知らん」
「百万人だったら?」
「どっかに住めるんじゃね」
「百億だったら?」
亮太の箸が止まった。
「……それは無理じゃね?」
「だよな」
そこだった。まだ誰も知らない。ヴァルクが何人いるのか。何人が地球へ来ようとしているのか。人類と共存するつもりがあるのか。人類そのものをどうするつもりなのか。
ただ一つ。地球へ来た理由だけは、少しずつ分かり始めていた。
*
深夜。研究室でルクが星図を表示した。一つの暗い赤色の恒星。その周囲を回る惑星。ヴァルクの母星。
時間。膨大な数字。グラフ。変化。惑星上の生命維持可能領域が、徐々に狭くなっていく。
「これ……」
研究員が画面へ近づく。ルクが表示を変えた。多数の船。母星を離れていく。長い航路。
太陽。地球。最後に数字。人口。まだヴァルクの単位と完全な対応は取れていない。それでも単純な数字は分かった。
「嘘だろ……」
研究員が声を漏らした。億では終わらない。さらに大きい。ルクが地球を指す。次に、自分たち。
《ヴァルク》
そして新しい概念。翻訳システムが処理する。
《移動》
《移住》
《避難》
三つの候補。
その夜。名前すら知らなかった侵略者を人類は初めて少しだけ理解した。彼らは《ヴァルク》という。そしてこの戦争は人類にとっては侵略だった。
だがヴァルクにとっては避難でもあったのだ。




