第二十三章 和平
全面停戦から六日目、人類とヴァルクは、ようやく戦争を終わらせるための文書を作り始めていた。
「これ全部?」
悠真が机の上に積まれた資料を見る。悠真は相変わらずヴァルク関連の現場に居た。いつヴァルクから呼び出しがかかるかわからないからだ。高校にはまだ顔も出していない。勉強の遅れを心配すると、それならばと自衛隊に勧誘された。嫌だと答えた。
「全部だ」
外交官は疲れ切った顔で答えた。
「和平って、もっとこう、一枚の紙にサインして終わりじゃないんですか?」
「映画の見すぎだ」
一等空尉が横から言う。
「戦争始める時より書類多くないです?」
「始める方が簡単なんだよ」
人類側では各国政府、国際機関、軍事同盟、宇宙機関が同時に承認作業を進めていた。ヴァルク側でも、十三隻の先遣艦隊だけでなく、後方の移民船団を含めた複数組織が合意内容を確認している。
どちらにも、すべてを代表する一人の王はいない。だから和平も、一人と一人が握手して成立するようなものではなかった。
協定の基本条項が大型画面に並ぶ。
《ヴァルク 地球領有要求 永久放棄》
《人類 撤退中ヴァルク艦隊への攻撃禁止》
《双方捕虜 完全返還》
《ヴァルク地上戦力・軍事設備 完全撤収》
《人類指定天体 資源採掘許可》
《ヴァルク 非軍事技術 段階提供》
《資源確保後 移民船団 別候補星へ航路変更》
《双方 将来の報復・絶滅戦争を行わない》
「最後、重いですね」
悠真が言う。
「今はヴァルクの方が強い。だが百年後もそうとは限らない。人類が力をつけて追いかけ、報復戦争を始める可能性を向こうは警戒している」
「そんな先まで?」
「向こうは何百年かけて移民してきた文明だぞ。百年くらいは十分に政策の範囲だ」
ヴァルクからも質問が来ていた。
《将来 人類軍事力増大》
《ヴァルク追跡攻撃 可能性》
人類側も同じ質問を返す。
《将来 ヴァルク再建後》
《地球再侵攻 可能性》
どちらも単純な《否定》だけでは終わらなかった。航路情報の扱い、移民船団の位置情報、軍事技術の提供範囲、星間通信の方法、将来的な接触が発生した場合の手順まで決められていく。
「これ、本当に終わるんです?」
「だから終わらせるために決めてる」
*
最も揉めた問題の一つは、戦争の責任だった。人類側から当然の要求が出る。
《侵攻開始主体 ヴァルク》
《人類側都市・軍事施設・艦艇損害》
《人類側死者多数》
《責任確認》
ヴァルクの返答。
《肯定》
悠真が少し驚いた。
「認めるんだ」
外交官は頷く。
「認めなければ和平は難しい」
ヴァルクは、自分たちが先に地球へ侵攻した事実を否定しなかった。ただし続きがある。
《ヴァルク側死者・艦艇損害 存在》
《人類側攻撃による死亡 存在》
「そりゃまあ」
悠真が言う。
「こっちも撃ったからな」
一等空尉が答えた。だが人類側は譲らない。
《人類攻撃 侵攻への抵抗》
《戦争開始責任とは別》
ヴァルク。
《理解》
《侵攻開始責任 ヴァルク》
その一文が正式記録へ入った。問題は、その後だった。
「賠償はどうするんです?」
悠真が聞く。
「金を払ってもらうわけにはいかん」
一等空尉が言う。
「ヴァルク円とかないですもんね」
「そういう問題でもない」
移民船団は、別の恒星へ向かうための資源さえ不足している。その相手から大量の物資を取り上げれば、和平そのものが成立しなくなる。
そこで人類側が要求したのは、復興に直接使える技術だった。
《侵攻開始責任に基づく復興支援》
《医療》
《エネルギー》
《材料工学》
《水処理》
《農業》
《インフラ復旧》
《非軍事宇宙技術》
ヴァルクは長い計算の後、
《受諾可能》
と答えた。
「兵器は?」
「当然、対象外だ」
「ですよね」
《軍事技術 提供しない》
ヴァルク側から即座に念押しされた。
「聞こえてたみたいですね」
「文字通信だぞ」
*
和平協定の内容が公表されると、世界の反応は割れた。
《ヴァルク 侵攻責任を正式認定》
《復興技術提供へ》
《地球領有権を永久放棄》
《報復戦争禁止条項》
『人類はヴァルクを許したのか』
『いいえ。政府は「責任認定と和平は別問題」と説明しています』
『では戦死者への補償はどうなるのでしょうか』
『国内制度による補償に加え、ヴァルクから提供される医療・エネルギー・復旧技術を戦災地域へ優先投入する案が検討されています』
和平支持の声は多かった。
『もう誰も死なないなら、それでいい』
『子供を戦争に行かせたくない』
一方で、反対する者もいる。
『侵略者をそのまま逃がすのか』
『家族を殺した連中に資源まで渡すなんて』
『和平じゃない。降伏だ』
調印予定地の周辺でも、和平支持者と反対者の双方が集まり始めていた。悠真はニュース映像を見ながら言った。
「どっちの言ってることも分かるんですよね」
一等空尉が答える。
「分かることと、両方できることは別だ」
「許せない人に、許せって言うのも違う気がする」
「ああ」
「でも戦争続けるのも違う」
「ああ」
悠真はしばらく考えた。
「難しいですね」
「だから大人が何日も寝ずに書類作ってる」
「そこに戻るんだ」
*
和平調印の前日、ヴァルクから一つの要望が届いた。
《KAMIYA YUMA 調印立会希望》
「また俺」
「今回は飛ばなくていいぞ」
一等空尉が言った。
「それは嬉しいですけど、俺が何かサインでもするんですか?」
「しない」
「よかった」
「お前に国家間協定へ署名する権限はない」
「高校生ですからね」
「一応、特別任用操縦員でもある」
「そこ一応なんだ」
悠真は立会人として参加するだけだった。正式な署名は、人類側の各国代表と国際停戦履行機構。ヴァルク側も、先遣艦隊と移民船団側の複数機関が電子的に承認する。
そして地上へ降りてくるヴァルク側補助代表の名前を見て、悠真は少し笑った。
《RUK》
「ルク来るんだ」
《今回は捕虜ではない》
通信に本人から返事が来る。
「それはそうだよ」
*
調印式は北海道で行われた。最初の局地停戦。最初の捕虜交換。そして今度は、正式な和平。
会場は華美なものではない。軍と警察が厳重に警備する簡易施設。上空には双方合意の監視機だけが飛び、武装部隊は一定距離より近づけない。
ヴァルクの小型輸送艇が降りる。扉が開く。ルクが姿を見せた。
以前と同じ小柄で幅広い身体。四本の腕。だが今は捕虜用の簡易装備ではなく、暗色の正式装備らしきものを身につけている。
悠真が小声で言った。
「なんか偉そうになってる」
《役割変更》
「聞こえてた?」
《近距離通信》
「そうだった」
ルクは人類側代表の前へ進む。そこで一瞬止まった。人類代表も止まる。ルクが四本ある腕のうち、細い方の一本を前へ出した。手の形は人間と違う。それでも意味は分かった。
人類代表がその手を握る。シャッター音が一斉に響いた。悠真がルクへ小さく聞く。
「握手、練習した?」
《した》
「やっぱり」
《人類儀礼 合意表現として有効》
「そっちにはないの?」
《同形式 なし》
「じゃあ結構頑張ったんだ」
《困難ではない》
少し間。
《練習 三回》
「ちゃんと練習してるじゃん」
*
協定文が読み上げられる。ヴァルクは地球への領有権を放棄する。人類は撤退を妨害しない。双方は捕虜を返還する。資源採掘と技術提供を段階的に進める。ヴァルクは別候補恒星系へ向かう。人類は追撃しない。ヴァルクも再侵攻しない。
そして最後。
《双方文明 相互絶滅を目的とする戦争を将来に渡って行わない》
人類側代表者たちが署名する。ヴァルク側の承認信号が入る。一つ。また一つ。
先遣艦隊。移民船団管理機構。生存計画機関。最後の承認。
《協定成立》
会場の外から歓声が聞こえた。同時に、遠くから抗議の声も聞こえる。悠真はその両方を聞いた。
「許したわけじゃないですよね」
一等空尉が横にいた。
「ああ」
「忘れるわけでもない」
「ああ」
「でも、もう殺さない」
一等空尉が少しだけ悠真を見る。
「それが和平だ」
許したわけではない。忘れるわけでもない。ただ、これ以上殺し合わないと決めた。それだけだった。だが戦争を終わらせるには、それで十分だった。
*
『ただいま、人類とヴァルクとの間で正式な和平協定が成立しました!』
《人類・ヴァルク和平成立》
《ヴァルク地球領有要求 永久放棄》
《侵攻開始責任を認定》
《地球史上初の異文明間和平協定》
世界各地で鐘が鳴った。歓声。拍手。涙。長く閉鎖されていた避難施設から外へ出る人々。病院では負傷兵たちがテレビを見ていた。基地では兵士が黙って画面を見る。墓地へ向かう人もいた。
誰もが同じように喜んだわけではない。それでも和平協定は成立した。
*
協定成立から十二時間後。ヴァルク地上部隊の最終撤収が始まった。
北米。欧州。東アジア。最後まで残っていた部隊が大型降下艇へ乗り込む。
人類側監視部隊が確認する。兵員。装備。軍事設備。一つずつ地上から消えていく。
そして翌朝。
《確認》
《地球上 ヴァルク戦闘部隊》
《ゼロ》
悠真は画面を二度見した。
「ゼロ?」
「確認上はな」
一等空尉が答える。
「本当にいなくなった?」
「地上には」
悠真は窓から空を見る。まだそこには母艦がいる。
「上にはまだいるか」
「ああ」
「次はあれですね」
*
そこから撤退は加速した。人類が追加の小惑星採掘区域を開放する。ヴァルクが技術データを渡す。地上部隊撤収確認。母艦が一隻、月軌道より外へ。
さらに一隻。
《地球近傍ヴァルク母艦 残り十一》
翌日。
《残り九》
さらに。
《残り六》
世界中の観測所が数を追った。最初は十三という数字が絶望の象徴だった。それが減っていく。
五。
三。
二。
そして最後の一隻。地球先遣艦隊の指揮機能を担っていた最大級の母艦だった。そこには、先に地球を離れた艦隊の最終調整を行う部門が残っている。そしてルクも、その船へ戻ることになった。
*
出発前。最後の通信。
《神谷悠真》
「なに?」
《今回 最後の直接通信になる可能性》
悠真は少し黙った。
「そっか」
ヴァルクが別候補星へ向かえば、距離は急速に広がる。太陽系を離れれば、通信に何時間ではなく、何日、何月、やがて何年もかかる。
「ルク、移民船団戻るんだよね」
《肯定》
「家族のところ?」
《肯定》
「子供も?」
《生存確認済》
「よかった」
《神谷悠真》
「はい」
《あなたも家族のもとへ戻る》
「戻るよ」
《学校》
「それも行く」
《理解困難》
「最後までそれ?」
《軍事能力と学校教育の関連 低い》
「高校卒業したいんだって」
《理解努力》
「努力してください」
悠真は少し笑った。
「向こうの星、着いたら連絡できる?」
《可能なら》
「してよ」
《理由》
「生きて着いたか知りたいから」
少し間。
《理解》
《連絡可能なら 送信》
「約束?」
《約束》
「じゃあ、待ってる」
さらに一文。
《神谷悠真も 生存を》
「そっちもね」
それで通信は終わった。友達という言葉は最後まで使わなかった。敵だった。捕虜だった。交渉相手だった。それでも悠真は、ルクが次の星へ無事に着けばいいと思っていた。それで十分だった。
*
最後の母艦が地球近傍軌道を離れる日。世界中が空を見ていた。悠真は基地の格納庫前にいた。すぐ後ろには一号機。すべての始まりになったヴァルク攻撃機。何度も撃たれ、何度も直され、人類には完全な修理方法さえ分からないまま、それでも最後まで飛び続けた機体だった。
大型画面には最後の母艦が映っている。
《軌道変更開始》
巨大艦がゆっくりと速度を変え始めた。地球を周回する軌道から外れ、月軌道よりさらに外側、人類とヴァルクが和平協定で定めた待機宙域へ向かう。
人類側は一発も撃たない。ヴァルクも何も撃たない。ただ離れていく。
「十三隻全部行ったな」
一等空尉が言った。
「地球からは、ですよね」
「ああ」
ヴァルク艦隊がそのまま別の恒星系へ出発するわけではない。百二十億人を乗せた移民船団を再び恒星間航行へ送り出すには、まだ大量の資源が必要だった。
水。炭素。金属。生命維持に必要な物質。船体補修材。長期間の航行に必要な推進系資源。
小惑星《2038 QX7》で行われた採掘は、あくまで最初の実証にすぎない。これから複数の地球近傍小惑星、月周辺、さらに条件次第ではより遠方の小惑星へ採掘船を送り、必要な物資を集めなければならない。その作業には時間がかかる。数日では終わらない。数週間でも足りない可能性がある。
だからヴァルク船団は、今しばらく太陽系内に留まる。十三隻の母艦も地球へ攻撃できる軌道からは退くが、移民船団の護衛と資源回収のため、月より外側の指定宙域で待機することになっていた。
「じゃあ、まだ宇宙人は近くにいるんですね」
「いる」
「なんか終わった感じしないな」
「いなくなることと、戦争が終わることは別だ」
悠真は画面を見る。確かにヴァルクはまだいる。望遠鏡を向ければ見える。レーダーでも追跡できる。地球近傍にはヴァルクの採掘船が行き交い、これからしばらく、人類とヴァルクは同じ太陽系の中で生活することになる。
だが、十三隻の母艦はもう地球を包囲していない。攻撃機も人類の基地を狙っていない。地上には一人のヴァルク兵も残っていない。
「最初に見た時、本当に終わったと思いましたよね」
「ああ」
「三日で負けたし」
「ああ」
「でも結局、一隻も沈めなかった」
「一隻はお前らがだいぶ壊したがな」
「落とさなくてよかった?」
一等空尉は少し考えた。
「その方が死人は少ない」
悠真も遠ざかる巨大艦を見る。
「倒さなくても勝てるんですね」
「戦争による」
「今回のは?」
「地球を守った。それで十分だろ」
*
ニュースでは、戦争の始まりから終わりまでが繰り返し流されていた。十三隻の異星船。世界中から上がった迎撃機。
三日間。人類軍の壊滅。それでも戦った軍人たち。最後まで飛んだ戦闘機。敵機を傷つけ、結果として一号機を地上へ落としたパイロット。その機体を偶然見つけた高校生。
最初の撃墜。鹵獲機部隊。地上戦。捕虜。ルク。
百二十億という途方もない移民人口。母艦攻撃。世界同時反攻。停戦。小惑星《2038 QX7》。そして和平。
その全部が積み重なって、十三隻の母艦は地球を狙う軌道から離れていった。




