第十八章 帰還
十二時間の局地停戦は、終了予定時刻を迎えても終わらなかった。停戦開始から九時間四十二分。ヴァルク側から新たな通信が届いた。
《停戦延長 提案》
作戦室にいた全員が画面を見る。
「向こうから?」
悠真が聞くと、外交官が頷いた。
「そうだ」
《追加十二時間》
《目的 捕虜交換》
その言葉に、室内の空気が変わった。人類側にもヴァルク側にも捕虜はいる。地上戦が始まって以降、武器を失い、負傷し、戦闘能力を失った人間がヴァルクに収容されていることは確認されていた。これまで彼らの生死すら完全には分からなかったが、通信が成立したことで、ヴァルク側から初めて名簿が送られてきた。
北海道方面で七名。自衛官六名、航空自衛隊の救難隊員一名。全員生存。うち三名負傷。
「生きてたんだ……」
悠真が呟く。一等空尉も画面から目を離さない。
「捕虜を取るんだな、あいつら」
「殺さなかったってことですよね」
「戦闘能力を失った人間を殺す必要がない、と判断したんだろう」
ヴァルクの考え方を知った今なら理解できる。敵兵でも武器を失えば、その瞬間には脅威ではない。必要のない死は避ける。それだけだった。
一方、人類側にもヴァルク人捕虜がいた。ルクを含めて三名。後の地上戦で負傷した二名が新たに収容されている。その二名との意思疎通はまだ十分ではなかったが、生命維持には成功していた。
「三人と七人?」
悠真が数字を見る。
「交換できるんですか?」
外交官が同じ疑問をヴァルクへ送った。
《人類捕虜 七》
《ヴァルク捕虜 三》
《人数不一致》
返答はすぐだった。
《問題なし》
「いいんだ」
《人数一致 不要》
《条件一致 必要》
続けて説明が届く。
《戦闘不能捕虜 双方全返還》
研究責任者が頷いた。
「数を揃えることが公正なんじゃない。条件を揃えるのが公正なのか」
一等空尉が腕を組む。
「こっちが三人持っていて向こうが七人持っているなら、三対三で残り四人を拘束しても意味がない」
「こっちが得ですね」
「そういう言い方はするな」
「はい」
交換条件は単純だった。双方が現在確認している戦闘不能の捕虜を全員返還する。交換地点では武器を使用しない。護衛部隊は指定距離以内へは入らない。捕虜輸送用の車両と医療要員だけが進入する。
そして人類側の捕虜一覧の最後に、ヴァルクから一文が付け加えられていた。
《第一捕虜 返還希望》
悠真はその文字を見た。
「ルクか」
*
「帰りたい?」
悠真が聞くと、ルクは迷わなかった。
《肯定》
研究施設の医療区画。ルクは人間用に改造された椅子へ座っていた。失った右下腕の傷は閉じている。胸部の損傷も安定し、最初にここへ運び込まれた時とは比べものにならないほど状態は良くなっていた。
「まあ、そりゃそうだよね」
《家族 いる》
「子供二人だっけ」
《肯定》
「会える?」
《帰還後 可能性高い》
移民船団にいる家族へすぐ会えるわけではないらしい。現在地球圏にいる十三隻は軍事部隊で、ルクの家族はさらに後方の移民船団にいる。それでもヴァルク社会へ戻れば、少なくとも連絡は取れる。悠真は少し黙った。
「俺たちから聞きたいこと、まだいっぱいあるんだけどな」
《理解》
「帰したくないって人もいると思う」
《理解》
実際、その通りだった。ルクは人類が確保した最も重要な情報源の一つだ。ヴァルクの社会、歴史、価値観、移民計画。戦術情報こそ拒否したが、人類が敵を理解する上で彼以上の存在はいない。
会議では、返還に反対する意見も出ていた。
『交換対象から第一捕虜だけ外せないのか』
『彼は情報価値が違う』
『今後の交渉にも必要だ』
しかし外交担当者の答えは明確だった。
『それをやれば、最初の捕虜交換で我々から約束を破ることになる』
『だが一個体の情報価値が――』
『一個体の情報価値と、ヴァルク全体に対する信用のどちらが大きい?』
そこで議論はほぼ終わった。さらに研究責任者が言った。
『ルクを人類側に置いておく価値だけを考えるべきではない』
『どういう意味だ』
『彼は人類を知っている。人類が彼を治療したことも、拷問しなかったことも、質問に答えない権利を認めたことも知っている』
少し間を置いて、
『ヴァルク社会の中に、人類を実際に知っている個体を一人戻す。その価値は、こちらに捕虜として置いておくより大きい可能性がある』
反論は出なかった。
*
交換前、悠真はもう一度ルクのところへ行った。
「向こうに戻ったら、俺たちのこと話す?」
《質問された場合 回答》
「何て?」
ルクは少し考えた。
《人類 敵》
「そこから?」
《事実》
「まあそうだけど」
《人類 ヴァルクを殺害》
《ヴァルク 人類を殺害》
《双方 敵》
《しかし》
表示が止まる。
《人類 私を治療》
《必要情報 質問》
《回答拒否 許容》
《苦痛による強制 なし》
《食事 生命維持 提供》
悠真は黙って読む。
《捕虜として 公正》
「ヴァルク基準で?」
《肯定》
「それ褒められてる?」
《肯定》
「ならよかった」
ルクが大きな黒い目で悠真を見る。
《神谷悠真》
「何?」
《あなた 多数ヴァルク殺害》
「それは何回も言われてる」
《しかし 私を殺害しなかった》
「俺が捕まえたわけじゃないけどね」
《あなた ヴァルク生存方法 質問》
「したね」
《理由 理解進行中》
「まだ分からない?」
《完全理解 していない》
悠真は苦笑した。
「俺も自分でそんなにちゃんと説明できないよ」
ヴァルクを殺したいわけではない。しかし撃たなければ自分たちが殺されるなら撃つ。地球は渡さない。しかしヴァルクが別の場所で生きられるなら、その方法を探してもいいと思う。悠真にとっては、それほど複雑な話ではなかった。
「俺たちに勝てないなら、別の星に行ってくれるんでしょ?」
《条件成立なら》
「だったら、その方がいい」
《なぜ》
「だって、そっちにも子供いるんでしょう」
ルクは止まった。
「お前の子供もいる。百二十億もいる。別に全員殺す必要ないじゃん」
《人類にも 子供いる》
「いるよ」
《神谷悠真 子供ではない》
「十七歳なんだけど」
《ヴァルク基準 分類困難》
「そこは高校生でいいよ」
ルクから返答はなかった。少しして、
《あなたも 家族へ帰還することを希望》
と表示された。
「うん」
《私も同じ》
「知ってる」
悠真は笑った。
「だから帰ればいいよ」
*
捕虜交換は、停戦開始から十四時間後に行われた。場所は北海道東部の閉鎖された国道だった。両側を低い山と森林に挟まれた直線区間。人類側部隊とヴァルク部隊はそれぞれ二キロ以上離れ、交換地点には医療車両と非武装の輸送車だけが入る。
世界中の報道機関が中継を希望したが、現場への立ち入りは認められなかった。映像は自衛隊とヴァルク双方が合意した固定カメラ、映像記録装置を一台だけ。それでも世界中がその映像を見ていた。
最初に人類側の車両が到着する。
ルク。そして二人のヴァルク捕虜。全員負傷者だった。
数分後、道路の反対側から黒い車両が現れた。車輪はない。地面から数十センチ浮いている。
「やっぱりあっちの救急車も浮くんですね」
悠真は基地の作戦室から映像を見ていた。一等空尉が答える。
「そこ気になるか?」
「だってずるくないです?」
「今度技術供与の条件に入れてもらえ」
「救急車を?」
「道路が要らなくなるなら役には立つ」
黒い輸送車が停止した。側面が開く。最初に人間が出てきた。自衛官。一人。二人。三人。歩けない者は担架のような装置へ載せられている。合計七人。
「全員いる」
通信担当が確認する。
「映像照合。七名全員確認」
人類側の医療員が前へ進む。ヴァルク側からも四本腕の兵士が出てきた。誰も武器を持っていない。両者が道路の中央へ近づく。
人間とヴァルク。戦争が始まって以来、これほど近い距離で、互いを殺す目的もなく向かい合うのは初めてだった。
約十メートル。双方が止まる。通信確認。
《交換開始》
人間の捕虜がこちらへ歩き始める。ルクたちも反対側へ進む。すれ違う。それだけだった。
「握手とかないんですね」
「誰と誰がするんだ」
「代表同士とか」
「戦争映画の見すぎだ」
ルクが道路中央を通過する。カメラがその姿を映していた。右下腕を失った、小柄なヴァルク。数週間前なら、映像を見た人類のほとんどがただ「宇宙人」と呼んでいただろう。今は違う。少なくとも悠真たちは知っている。名前は正確には発音できない。だからルク。
家族がいる。子供が二人いる。自分たちと同じように生きたいと思っている。そして、人類を追い出して地球を奪うことを必要だと判断している敵でもある。
「ルク」
悠真が画面に向かって言った。
「じゃあね」
もちろん聞こえてはいない。ルクはそのままヴァルク側へ歩いていった。
*
交換は二十七分で終了した。七名の人間は全員生存。重傷者二名。中等症一名。残る四名は栄養状態に多少問題があるものの、生命に危険はなかった。
「治療されてる」
医務官が報告書を見る。
「最低限だがな。骨折は固定されている。感染対策もされているらしい。人間用の薬は使えないから、創傷処置と生命維持が中心だ」
「拷問は?」
「今のところ痕跡なし」
捕虜となっていた自衛官たちへの聞き取りも始まった。証言は似ていた。拘束された。武器を取り上げられた。逃げようとすれば止められた。質問もされた。基地位置、部隊配置、鹵獲機に関する情報。答えなかった。それでも拷問はなかった。食料も人間が摂取可能なものを分析した上で与えられていた。
「向こうも同じことしてたんですね」
悠真が言った。一等空尉が答える。
「同じではない。似ているだけだ」
「どう違うんです?」
「戦争中の敵を妙に信用するなってことだ」
「信用してませんよ」
「ならいい」
それでも事実は事実だった。双方とも捕虜を殺さなかった。双方とも捕虜を拷問しなかった。双方とも約束した人数を返した。二つ目の約束も守られた。
*
停戦開始から二十四時間。終了予定時刻の十分前。世界中の軍が緊張していた。このまま戦闘が再開するのか。
人類側は停戦延長を提案した。
《同区域 さらに二十四時間延長》
ヴァルクからの回答。
《同意》
「伸びた」
悠真が言った。
「四十八時間になったな」
「じゃあ、その次も伸ばせばいい」
「そう簡単にはいかん」
その直後。新しい通信が届いた。
《追加提案》
《北米 一区域》
《東欧 一区域》
《東アジア 一区域》
《同条件 停戦試験》
作戦室がざわついた。
「向こうから三か所追加?」
「確認しろ」
ヴァルクは、北海道で使ったものとほぼ同じ条件を提示していた。十二時間。双方攻撃停止。負傷者回収。民間人退避。新規兵力配置禁止。
「何が変わったんでしょう」
悠真が聞く。研究責任者が答える。
「昨日まで向こうは、人類が約束を守る能力を評価できないと言っていた」
「はい」
「一回守った」
「一回だけですよ」
「ヴァルクもそう考えているだろう」
画面に新しい通信。
《人類 約束履行 一回確認》
悠真が笑った。
「本当に一回って言った」
続く。
《捕虜返還 履行確認》
《限定停戦 拡大試験 価値あり》
「信用された?」
外交官が首を振る。
「そこまではいかない。だが信用できるかどうか調べる価値が出てきた」
「それだけ?」
「和平交渉では、それが大きい」
*
その夜。悠真の端末へ新しい通信参加要請が入った。
「また俺?」
「またお前だ」
一等空尉が答える。ヴァルクとの回線が開く。
《神谷悠真 参加確認》
《参加》
悠真の名前が表示される。その下。見慣れた識別表示が出た。
《交信補助個体》
続いて、ルクの人類側識別名。
《RUK》
「え?」
悠真が画面を見る。
「ルク?」
ヴァルク側から通信。
《人類呼称 使用》
「向こうでもルクって呼ばれてるの?」
《一時通信識別 使用》
「そりゃそうか」
その直後。
《神谷悠真》
文章の癖が少し違う。翻訳担当が言った。
「ルク本人からだ」
悠真が姿勢を直す。
《帰還完了》
「よかったね」
《家族 通信完了》
悠真は少しだけ笑った。
「子供、生きてた?」
《肯定》
「それはよかった」
間。
《人類捕虜 帰還確認》
「全員帰ったよ」
《良い》
「そっちの二人も?」
《治療中》
「じゃあ交換成功だ」
《肯定》
そこでルクから少し長い通信が届いた。
《私は 人類滞在情報を報告》
作戦室が静かになる。
《人類 ヴァルク事情理解後も抵抗》
《しかし ヴァルク絶滅目的ではない》
《捕虜 治療》
《強制尋問 なし》
《約束 履行》
悠真は画面を見た。
「向こうに話したんだ」
《肯定》
「誰に?」
《軍事指揮》
《移民管理》
《交渉判断担当》
「偉い人だらけじゃん」
《概ね肯定》
一等空尉が小さく笑った。さらにヴァルク艦隊から正式な通信が続く。
《人類評価 更新》
《提案実行可能性 上昇》
悠真の表情が変わった。昨日、ヴァルクが戦争を続ける理由の一つに挙げたもの。
《人類提案が実行される確率》
それが少し動いた。
「どのくらい?」
外交官が質問を送る。
《和平選択 現在可能か》
返答。
《否定》
「ですよね」
悠真は肩を落とす。続く。
《地球占領方針 依然として生存確率高い》
《想定ヴァルク損失 代替星移動より低い》
《現在方針変更理由 不足》
何も根本的には変わっていなかった。ヴァルクはまだ勝てると思っている。ならば地球を取る。別の星へ向かうより安全で、死ぬヴァルクも少ない。人類が約束を守る可能性が少し上がった程度では、その計算は逆転しない。
しかし最後に一文が加わった。
《ただし》
《交渉継続価値 上昇》
悠真は画面を見た。
「ゼロじゃなくなった?」
ルクから返答。
《正確には以前もゼロではない》
「細かいなあ」
いかにもルクの言いそうなことだった。悠真も周囲も笑った。
*
翌朝。北海道の停戦は継続していた。北米でも十二時間の停戦が始まった。東欧でも。東アジアでも。世界地図に、これまで存在しなかった色が追加された。
赤は戦闘地域。青は人類支配地域。黒はヴァルク支配地域。そして白が停戦区域。
まだ小さい。地球全体から見れば点に過ぎない。その外では今も戦闘が続いている。ヴァルク攻撃機が飛び、人類のミサイルが上がり、地上では砲撃が続いている。
死者も増えている。何も終わってはいない。それでも昨日まで、その地図に白は一つもなかった。
「増えましたね」
悠真が言う。一等空尉が答えた。
「でもまだ向こうは勝てると思ってる」
「だったら戦うしかないんですよね」
悠真は十三隻の母艦を見る。和平への道は見えた。資源を渡す。ヴァルクは地球から撤退する。別の恒星へ向かう。
人類は生き残る。ヴァルクも生き残る。理屈だけなら成立している。問題は、ヴァルクにとって今のところ、その道より地球を奪う方が安全だということだった。
「結局、向こうの計算を変えないと駄目なんだ」
悠真が言った。一等空尉は答えなかった。答える必要もなかった。
人類は初めて、ヴァルクとの約束を守った。ヴァルクも守った。捕虜は帰った。ルクも家族へ帰る道を取り戻した。だからこそ次に必要なのは、信用だけではなかった。
戦争を続ければ勝てる。地球を奪う方が安全だ。そう考えているヴァルクに、別の答えを選ばせること。
和平を成立させるために、人類はまだ勝たなければならなかった。




