第十三章 軌道
母艦を攻撃する。言葉にすれば簡単だった。人類が地上でヴァルク機を何機撃墜しても、軌道上の十三隻から新しい機体が補充される。このままなら先に人類側の鹵獲機と基地が尽きる。ならば供給元を叩く。その結論自体には、臨時作戦司令部の誰も反対しなかった。問題は、どうやって叩くかだった。
「つまり、母艦と同じ高さまで上がって、そこから近づけばいいんですよね」
悠真が言うと、軌道力学担当の男は何も言わずに眼鏡を外した。
「神谷君。昨日も言ったが、宇宙は上じゃない」
「それは聞きました」
「聞いただけだな」
大型ディスプレイに地球が表示され、その周囲を一本の曲線が取り巻いた。
「ヴァルク母艦の正確な軌道要素にはまだ誤差がある。ただ、最も低いものでも高度は数万キロ級。重要なのは高さじゃない。速度だ」
数字が出る。秒速、数キロメートル。
「これが母艦の横方向の速度だ」
「横?」
「地球へ落ち続けながら、地面が同じだけ逃げている」
「……落ちてるんですか?」
「人工衛星は全部落ちてる」
「落ちてないじゃないですか」
「落ち続けてるから落ちないんだ」
悠真はしばらく画面を見た。
「宇宙、意味分かんないですね」
部屋の端で腕を固定している一等空尉が笑った。
「俺たちもお前に同じようなことを言われたな」
「何をです?」
「旋回するな。機首を向けるな。飛行機だと思うな」
「それは簡単じゃないですか」
「お前にとってはな」
軌道力学担当者が続ける。
「母艦へ接近するには、高度だけでなく軌道面、速度、到着時刻を合わせる必要がある。君が母艦を目で見つけてから真っ直ぐ向かったとしても、そこへ着く頃には母艦は何千キロも先にいる」
「じゃあ追いかければ」
「加速すれば軌道が変わる」
「だから追いかけるんですよ」
「単純に速度を上げれば、高い軌道へ移る」
「……前に行きたいのに上に行く?」
「そうだ」
「速度を落としたら?」
「低い軌道へ落ちる。軌道周期が短くなって、結果として前方の目標へ追いつける場合がある」
悠真は露骨に嫌な顔をした。
「前に行きたいのに後ろへ噴射するんですか」
「場合によっては」
「ゲームならバグですよ」
「宇宙に仕様変更を要求してくれ」
*
それから二時間。悠真はシミュレーターで三回、母艦への接近に失敗した。一回目は目標との最接近距離二千三百キロ。二回目は三百八十キロまで近づいたものの、相対速度が大きすぎてそのまま通過。三回目は燃料消費過大で帰還不能。
「これ絶対難易度設定おかしいですよ」
「現実に難易度設定はない」
「ゲームだったら目的地にマーカー出て、そこへ飛べばいいのに」
「そのゲームは裏で軌道計算を全部やってくれてる」
悠真は黙った。それを言われると反論できない。ヴァルク機も同じだった。人類が初めて動かした時から、機体の高度な自動制御が細かな飛行を処理していた。パイロットは「どこへ行きたいか」を指定し、機械がその方法を決める。しかし宇宙航行となると、その自動化された機能を人類側がまだ完全に理解していなかった。
「攻撃機は母艦から地球へ来ている。真空航行、大気圏突入、軌道変更、母艦への帰還機能は必ずある」
「じゃあ自動で帰れないんですか?」
「帰還先が敵母艦なんだぞ」
「ああ、そっか」
「しかも認証は切られている。自動帰還命令を実行して何が起こるか分からない」
画面に鹵獲一号機の推進系データが表示される。
「最大加速度はある程度把握できた。だが真空中で何秒、何分連続噴射できるか。推進用物質がどれだけ残っているか。熱をどう処理するか。どの程度の速度変更能力があるのか。まだ全部は分かっていない」
「飛べるけど帰れる保証はない?」
無言で頷かれて悠真はさすがに嫌そうな顔をした。
*
結局、人類側だけでは足りなかった。その日の午後、ルクが再び研究室へ呼ばれた。基地放棄後に移された新しい施設は以前より狭く、研究者も必要最低限に絞られている。それでもルクの生命維持装置と翻訳システムは優先して移送されていた。悠真も同席した。
《鹵獲攻撃機 宇宙航行》
《一般操作 知りたい》
翻訳画面を読んだルクは、すぐに答えた。
《可能》
「教えてくれる?」
《肯定》
研究責任者が確認する。
《この知識 ヴァルク艦隊攻撃に使用される可能性》
ルクは少し止まった。
《理解》
《それでも教える?》
《一般航行操作 軍事秘密ではない》
さらに、
《あなた達 すでに機体運用》
《操作不足による死亡 不要》
と続いた。
「相変わらずだな」
「何が?」
「戦うのはいいけど、操作ミスで死ぬのは違うってこと?」
「おそらく」
研究者が苦笑する。ただしルクには明確な線引きがあった。《母艦 現在防御配置》は回答拒否。《艦隊認証情報》も拒否。《母艦内部構造 軍事区画》も拒否。その一方、《攻撃機 一般軌道航法》《燃料残量確認方法》《緊急帰還手順》《真空時 冷却制限》には答えた。
ルクは自分の文明を裏切っているわけではない。人類が事故で死なないための知識は与える。仲間を効率よく殺すための情報は渡さない。その境界は驚くほど明確だった。
「敵に操縦教えるって変じゃない?」
悠真の問いが翻訳される。ルクの返答は、
《敵が戦闘可能なら 戦闘で決着》
《事故は決着ではない》
だった。
「……スポーツマンみたいだな」
「たぶん、もっと極端だ」
研究責任者がそう言った。
*
ルクから得た情報で、ヴァルク機の宇宙航行モードが一気に理解された。通常の大気圏飛行画面とは別に、三次元軌道表示、目標軌道、相対速度、推進剤、熱余裕、生命維持残量。そのほとんどを機体側AIが自動計算する。
「やっぱり自動じゃん」
「だからといって何も知らなくていいわけじゃない」
軌道力学担当者が答える。
「どの軌道へ入りたいか決めるのは君だ。機械に間違った目的を与えれば、正確に間違った場所へ連れていってくれる」
「それ一番嫌なやつですね」
再びシミュレーター。今度は目標軌道を指定し、機体側が必要な噴射を提案。人類側コンピューターでも別計算し、両方を比較して誤差を確認してから実行する。一回目、最接近距離十二キロ。二回目、二・八キロ。三回目、ランデブー成功。
「できた」
「機械がな」
「俺もやったでしょう」
「七割機械」
「じゃあ三割俺じゃん」
「せいぜい二割だな」
「減らさないでください」
しかしここから先は悠真が速かった。軌道そのものを数式で理解しているわけではない。それでも位置と速度が別物であること、今行う操作の結果が数分、数十分後に現れること、相手との距離より相対速度の方が重要であること。その概念を一度受け入れると、六自由度空間で培った感覚が働き始めた。
「これ、敵を追いかけるんじゃないんですね」
「そうだ」
「敵が来る場所に、自分の軌道を置く」
軌道力学担当者が少しだけ笑った。
「それなら合格だ」
「ゲームでも待ち伏せは得意です」
「ただし今回の待ち伏せは数時間前から準備する」
「遅いなあ」
「宇宙だからな」
悠真は表示を見る。
「でも、全部人間が計算する必要ないですよね」
「当然だ」
「じゃあ俺が必要なのは?」
「軌道へ乗るところまでは我々とコンピューターの仕事だ」
「その後?」
「敵が撃ってきたら君たちの仕事になる」
分かりやすかった。宇宙へ行く方法を知る者。戦う方法を知る者。両方が必要だった。
*
十三隻の母艦についても解析が進んでいた。最大級は全長およそ七キロメートル。最小でも数キロ。形状は完全に同一ではない。大半は多数の攻撃機や降下艇を収容する主力母艦とみられるが、三隻は放熱量と通信量が特に大きく、補給・整備機能が強い可能性があった。さらに二隻は他艦との通信中継が極端に多い。
「指揮艦?」
「可能性はある。ただし断定はできない」
問題は、どれを攻撃するかだった。
「一番でかいやつじゃないんですか?」
「なぜ?」
「ボスって一番でかいじゃないですか」
「ゲームから離れろ」
「最近そればっかり言われるな」
作戦立案班が選んだのは、十三隻の中では中型の一隻だった。他艦から比較的離れる時間帯があり、地球との軌道関係が接近に適している。攻撃機発進回数も多い。そして、もう一つ。
「これを見てくれ」
拡大画像。母艦側面には巨大な板状構造が複数存在していた。
「羽?」
「宇宙船に翼は要らない。放熱器の可能性が高い」
悠真の表情が変わる。
「また熱?」
「また熱だ」
真空では空気へ熱を逃がせない。熱伝導も対流も使えず、最後に頼れるのは放射になる。七キロの巨大艦には、エンジン、兵器、演算装置、生命維持、格納庫、何万人あるいはそれ以上の乗員が存在する。そこから生まれる廃熱は膨大だ。
「攻撃機にも冷却限界があった。降下艇にもあった。母艦だけ無限ということはない。ただし、攻撃機みたいに一枚壊したら終わるとは思わないでくれ。複数系統、装甲、予備系統。何重にも冗長化されているはずだ」
「じゃあ壊せない?」
「違う。壊せる場所があるということだ」
研究責任者が答えた。
「それで母艦を沈められます?」
「一機の攻撃機で全長七キロの船を沈められると思うな」
「じゃあ何しに行くんです?」
少し間があった。
「傷をつける」
悠真は黙る。
「人類が母艦まで行ける。攻撃できる。損傷を与えられる。それを証明する。最初の一回は、それでいい」
地上で負け続けている世界に、まだ攻撃できることを見せる。ヴァルクにも、人類は地上で待っているだけではないと理解させる。そのための一撃だった。
*
作戦は国際共同になった。日本だけでは機体が足りない。アメリカ、ドイツ、フランスなど複数国から、残存鹵獲機と搭乗員のデータが共有された。軌道計算は日米欧印の宇宙機関が共同で行い、追跡には中国と南米の大型レーダーも加わる。各国が互いに隠していた軍事データまで、必要な部分から開放されていった。数日前までなら考えられないことだったが、地球を取られれば、どの国の機密だったかなど意味がない。
そしてもう一つ、極めて現実的な問題があった。
「言葉、どうするんです?」
悠真が聞いた。
最終的な攻撃隊は五機。日本から神谷悠真と航空自衛隊二等空佐。アメリカから元戦闘機パイロット。ドイツからテストパイロット。そして五人目はフランス出身の元宇宙飛行士。国際宇宙ステーションへの長期滞在経験があり、鹵獲機操縦訓練でも上位だった。
国籍は四つ。母語も違う。
「作戦中の共通言語は英語だ」
指揮官が答えた。悠真が少し嫌そうな顔をする。
「学校で習っているだろ」
「宇宙戦ができるほどは習ってませんよ」
「宇宙戦のできる英語教育をしている高校があったら教えてくれ」
当然、全員が長文で会話するつもりはなかった。戦闘中に必要な用語は事前に統一された。《Break》《Abort》《Target》《Heat》《Fuel》《Left》《Right》《Cover》《Return》。数字、距離、方位、機体番号。誤解が致命傷になる場面では、可能な限り短く定型化する。
「それ以外は?」
「日本語でも構わない」
悠真は首を傾げた。
「通じるんですか?」
その答えは、最初の合同通信訓練ですぐに分かった。最初に画面へ現れたのはアメリカ人だった。四十代。空軍で戦闘機に乗っていたという男が、片手を上げる。
『Kamiya? 初めまして。ワタシ、日本語、少しできます』
「本当に?」
『少し。昔、三沢、いました』
「ああ、日本にいたんだ」
『Yes。ラーメン、ビール、あと……カラオケ』
「最後二つ戦闘に役立ちませんね」
『Very important』
二等空佐がため息をついた。次にドイツ人テストパイロット。
『コンニチハ。カミヤ』
「こんにちは」
『ワタシ、日本語……』
そこで止まった。
『チョット』
「本当にちょっとですね」
『はい。チョット』
英語なら問題なく話せる。日本語は挨拶と簡単な単語程度だった。最後にフランス人の元宇宙飛行士が映った。
『神谷悠真君ですね。お会いできて光栄です』
あまりに自然な日本語だったため、悠真は一瞬返事を忘れた。
「……日本人?」
『違いますよ』
「ですよね」
『京都に三年、筑波に二年ほど住んでいました。日本の宇宙開発チームとも仕事をしていましたから』
発音にもほとんど癖がない。
「めちゃくちゃ喋れるじゃないですか」
『妻が日本人だったことも大きいですね』
「じゃあ助かった」
『通訳役を期待しています?』
「かなり」
『戦闘中は期待しないでください。長い通訳をしている暇はありません』
正論だった。作戦中は英語を基本とする。ただし複雑な軌道判断や悠真への説明が必要になった場合、フランス人宇宙飛行士が日本語で補助する。アメリカ人も簡単な日本語なら理解できる。ドイツ人には英語で伝える。
「なんか、パーティーゲームみたいですね」
『何が?』
「一人だけ全員と話せる人がいる」
フランス人は笑った。
『では私が死んだら困りますね』
悠真の表情が止まる。
『冗談ですよ』
「宇宙へ行く前にそういう冗談やめません?」
『フランス人なので』
「関係あるんですか?」
『たぶんありません』
横からアメリカ人が日本語で割り込んだ。
『フランス人、よく喋る』
『あなたに言われたくありません』
今度は日本語だった。ドイツ人が少し遅れて、
『……ワタシ、ワカラナイ』
と言った。悠真が笑った。
「ごめんなさい」
短い笑いが五人の間に起きた。翌日に死ぬかもしれない人間たちだった。
*
宇宙空間では、フランス人元宇宙飛行士が事実上の編隊長となることが決まった。空戦能力だけなら二等空佐や悠真の方が高い。しかし宇宙での位置感覚、軌道判断、生命維持、緊急事態への対処経験は比較にならない。
『宇宙では私の指示を優先してください』
「分かりました」
『戦闘が始まったら?』
「その時はみんなで考える?」
『それが一番危険ですね』
「じゃあ俺が言います」
二等空佐が割り込む。
『神谷、お前が勝手に指揮官になるな』
「じゃあ二等空佐で」
『俺も宇宙戦は初めてだ』
アメリカ人が英語で何か言い、フランス人が笑った。
「何て?」
『「五人とも初心者なら、最初に生き残った奴が専門家だ」と』
「嫌な専門家のなり方ですね」
ドイツ人も英語で短く返す。今度は悠真にも聞き取れた。
『Survive first.』
まず生き残れ。そこだけは、何語でも同じだった。
*
作戦最大の問題は、近づけばバレることだった。最初に悠真が奪った機体のような友軍識別の穴は、もう存在しない。ヴァルク側は鹵獲された機体番号をすべて失効させ、人類による運用を前提に認証系を更新している。
宇宙には山も雲もない。そしてレーザーは真空でよく届く。
「……これ、空より最悪じゃない?」
悠真が言うと、元宇宙飛行士が流暢な日本語で答えた。
『ようやく気づきましたか』
「隠れる場所ないですよね」
『ありません』
「遠くから撃たれますよね」
『撃たれます』
「帰っていいですか」
『駄目です』
「ですよねー」
アメリカ人が続ける。
『ダイジョウブ。たぶん』
「その『たぶん』いらないです」
ドイツ人も日本語で、
『ガンバル』
とだけ言った。
「ありがとうございます」
『ワタシ、日本語、便利』
「便利な単語だけ覚えてるな、この人」
ただし完全な隠密は無理でも、探知を遅らせることはできる。そこで使うのが地球だった。
「地球の陰?」
「正確には、地球本体をセンサー遮蔽として利用する」
「つまりでっかい山ですよね」
「その理解でいい」
「やっぱり宇宙にも地形があるじゃないですか」
「地形とは呼ばない」
作戦は、母艦から地球そのものが遮蔽物になる時間帯を利用する。五機は低出力で軌道を変更し、地球の裏側を通過。母艦の直接監視から外れている間に軌道を合わせ、地平線から出た時点ではすでに母艦との距離を大きく縮めている。そこから先は戦闘だ。
「ステルスじゃない」
作戦担当者が念を押す。
「見つかるまでの時間を稼ぐだけだ」
「何分?」
「分からない。最悪、地球の陰を出た瞬間」
「最高なら?」
「撃つまで気づかれない」
悠真は首を振った。
「それ絶対ないやつだ」
*
出撃は夜明け前になった。五機を一か所に集めることは危険だったため、各機は別々の地点から発進し、高高度で合流する。悠真の一号機は、山間部に設置された仮設拠点から飛び立った。以前の基地はもうない。格納庫も研究棟も失われたが、ヴァルク機には滑走路すら必要なかった。機体は地面からそのまま浮き上がる。
『神谷、体調は』
「首ちょっと痛いです」
『医官は何と言った』
「許可は出ました」
『なら信じる』
高度一万、二万。空が暗くなり、大気が薄くなる。空気抵抗が減る。ここまではまだ飛んでいる感覚があった。だが高度が上がり、機体が水平速度を増やし始めると感覚が変わった。地面に対して上がっているのではない。地球の周囲を横へ落ち始める。
『Orbital insertion. Stand by.』
フランス人の声。正式な作戦通信は英語だった。
『All units, confirm trajectory.』
続いて日本語。
『神谷君、予定軌道からのずれはほぼありません。そのままで』
「了解」
人類側コンピューターとヴァルク機AI、両方の表示が重なる。指定噴射。加速。身体が座席へ押しつけられ、何十秒か後に推進が停止する。突然静かになった。
「……入った?」
『Orbit confirmed.』
少し間を置いて、同じ声が日本語になる。
『ようこそ、神谷君』
「何も感じないですけど」
『それで正常です』
悠真は外部映像へ視線を向けた。地球。青。白い雲。黒い宇宙。その境界を描く巨大な曲線。映像では何度も見た。ゲームでも、テレビでも、写真でも。それでも自分の下にある景色は別物だった。
「……丸い」
アメリカ人が日本語で言った。
『ミンナ、それ言う』
「もっと格好いいこと言えばよかった」
フランス人が笑う。
『後から考えても遅いですよ』
ドイツ人。
『キレイ』
その一言だけは、妙にしっくりきた。
「ですね」
やがて機体は地球の向こう側へ入り、母艦との直接線が切れる。
『Low emission mode. From here, minimum communication.』
フランス人が続けて日本語でも短く補足した。
『ここから通信最小限です』
「了解」
五機。日本、アメリカ、ドイツ、フランス。四つの国の人間が、同じ敵から奪った五機のヴァルク機に乗り、地球の陰を利用してヴァルク母艦へ向かう。
*
一時間十二分後。目標まで六千キロ。四千。二千。直接見える距離ではない。それでもセンサー上では存在している。
巨大だった。攻撃機、二十メートル。降下艇、三百メートル。そして母艦、五・八キロメートル。同じ宇宙船という言葉で呼ぶには、大きさが違いすぎる。
「これ攻撃機でどうにかする相手じゃないですよね」
フランス人が日本語で答えた。
『だから撃沈する作戦ではありません』
「傷つけるだけ」
『そうです』
地球の縁が近づく。もうすぐ遮蔽が切れる。
『All units, thermal margin check.』
ここからは定型英語。
『Japan One, eighty-two.』
『Japan Two, eighty-five.』
『Eagle, eighty.』
『German One, seventy-nine.』
『Orbite, eighty-four.』
悠真も事前に覚えた言葉だけで返した。
『Fuel seventy-four.』
『Copy.』
通じた。
空戦とは違う。敵へ近づく前から、何時間も戦闘が始まっている。速度、位置、熱、推進剤。全部、使ったら戻らない。
『遮蔽終了まで十秒』
最後だけ、フランス人が日本語で言った。悠真は地球を見る。この下に母親がいる。亮太がいる。一等空尉も研究者も、数十億の人類もいる。そして地球のさらに遠くでは、百二十億のヴァルクが待っている。
敵を憎んでいるわけではない。だからといって、譲ることもできない。
『Three, two, one.』
地球の縁から宇宙が開けた。同時に警告。
《能動探知》
「早っ!」
『Detected! Break formation!』
英語なら完全には聞き取れなくても、その命令は分かる。五機が散開する。遠方の母艦から小さな反応が分離していく。一、三、十、二十。
「迎撃機!」
二等空佐。
『多いな』
アメリカ人。
『Many. Very many.』
「それは聞けば分かります!」
ドイツ人の声。
『Enemy twenty-three. More coming.』
片言の日本語ではなく、戦闘になれば英語。その切り替えだけは全員が完璧だった。ヴァルクは待ち伏せしていたわけではない。ただ、人類が宇宙まで来る可能性をすでに考えていた。
『Kamiya.』
二等空佐。
「はい」
『帰るか?』
今度は日本語だった。冗談ではない。まだ帰還軌道へ移れる。ここで退けば、生きて地球へ戻れる可能性は高い。悠真は一度、青い惑星を見た。
「帰ったら、地上が先に尽きます」
視線を前へ戻す。ヴァルク機の戦闘表示が開く。敵、二十三。増加中。その後ろには五・八キロの母艦。
「行きましょう」
フランス人がすぐに英語へ変換した。
『All units, continue mission.』
『Copy.』
『Copy.』
『Copy.』
二等空佐だけが日本語で答えた。
『了解』
五機が編隊を開いた。日本語。英語。片言の日本語。四つの国籍。五人の人間。だが戦場では、短い命令と数字だけで十分だった。
空ではない。音もない。上下もない。逃げ込める雲も山もない。そこにあるのは、速度と距離と熱と死だけだった。




