第十六話 霊峰を目指して
早朝、椿は北門から妖人街を出た。
天気は快晴。
北門を出ると馬の牧草地が広がっていた。
家畜商が母馬に跨って先行し、後方から追従してくる馬の群れを大移動させていた。鬼神組にとって馬の生産は闘技場や賭博場と並んで重要な収益となっており、妖人街で馬車などに用いられている馬はこの牧草地で育てられている。
昼下がり、椿は重たい背嚢を背負って颯爽とした足取りで牧草地を通り過ぎた。
牧草地を抜けてしばらくすると広大な樹海が見えてきた。妖人街の住民たちはこの草木が鬱蒼とした未開の領域を屍の木叢と呼んで恐れている。近づくものはいない。
遥か樹海の後方──地平線には険峻な山脈が連なっていた。
目的地は山脈を形成する山の一つであり、剣仙が住むとされる千剣山だ《せんけんざん》。
前方に見える千剣山の頂は厚い雲に覆われていて見えない。
━━━こりゃあ、苦労しそうだぜ。剣仙の居場所だって山の頂とか大雑把すぎだろ
椿は苦笑を浮かべながらも覚悟を決めて樹海に分け入って行くことにした。
森の植生はナラやトチノキなどの落葉広葉樹で構成されているのだが、いずれも五十メートル以上の巨木ばかりで原始の森を彷彿させた。茂みの天蓋によって陽光が遮られており、昼だというのに薄暗い。
椿は鬼一法眼が記した地図を藤兵衛から受け取り、それを頼りに下生えの草木を搔き分けながら歩き続けた。
梅雨という季節がらひどく蒸していた。
それに喉も乾いてきた。
椿は滴る汗を拭いながら歩き続けた。
一時間後、開けた場所に出た。
せせらぎが聴こえてくる。
渓谷だ。
幅の広い沢が流れていた。
椿は砂利を踏み鳴らしながら岸辺に駆け寄った。
体を屈ませ、水面を覗き込んだ。
水が透き通っていて、川底を泳ぐ魚の姿が見える。
「綺麗な水だ」
椿は水を両手ですくい上げた。
「ひゃっ!冷たいな」
すくい上げた冷たい水をごくりと喉を鳴らしながら飲み込んだ。新鮮で冷たい水が乾いた喉を潤した。
「飯でも食うとするか」
椿はひとり呟くと背嚢を地面に置いた。
背嚢から取り出した握り飯と水筒を手にし、手ごろな岩に腰かけて軽食を口に頬張る。
食後、ひと休みしてから沢沿いの斜面を登り始めた。登っていくごとに傾斜が強くなっていく。
椿は人を寄せ付けない過酷な道のりの厳しさを痛感し始めていた。
だが、山頂までははるか遠くだ。まずは麓を目指さなければならない。
歩みを進めるごとに陽が傾いていった。
徐々に水量が減っていき、最終的に沢が枯れて小石と岩が点在するガレ場に到達した。
結局、千剣山の麓に到着したのは夕方。
辺りにはハイマツなどの背が低い高山植物が生い茂っていた。どうやら森林限界まで来たようだ。
背後を振り返ってみるとすでに眼下は深い霧に覆われて見えない。
椿は日が暮れる前に岩陰の平らな場所を見つけ、野営の設営に取りかかった。
背嚢から布と支柱を取り出し、幄帳で骨組みを覆っていく。
四隅を地面に打ち込んだ杭で固定し、布の屋根を支柱で持ち上げる。
即席の天幕が完成だ。
風は遮られ、雨が降っても濡れずに済む。
山中で一晩を明かすには十分だった。
椿は風の刃で付近に自生するハイマツを伐採し、薪として搔き集めて焚き火の準備をした。
幄帳の外で火打ち石を使って火をおこした。息を吹きながらハイマツの樹皮に着火させて火種を作り、薪をくべていった。
やがて、白煙が空に立ち昇って火勢が大きくなり、温かい橙色の炎が夕闇を照らした。
すでに日没は近く、肌寒くなってきた。
椿は携帯用の鉄鍋を焚き火にかけ、沢で余分に汲んでおいた水を水筒から流し込んだ。続けて樹海で採集した食用可能なキノコ、鬼神組からもらった米を鍋に放り込む。
ぐつぐつと煮立ったところで味噌を入れてかき回し、鍋に蓋をした。
数分後、蓋を開けると白い湯気が立ち昇った。
キノコ雑炊の完成だ。
椿は雑炊をおたまでお椀によそい、息でふうふう冷ましながら箸を使って旨そうに食べた。
夕食を済ませると焚き火を消し、椿は幄帳の中へ潜り込んだ。防寒対策で持ってきた毛皮の外套を羽織り、蓆を敷いてそこにうずくまった。
これで寒さをしのげる。
椿はよほど疲れていたらしく、すぐまどろみに落ちた。
翌朝、椿は外套を着たまま、日の出とともに出立した。
朝日は清々しいほどに眩かった。
行く手には、目的の千剣山が聳え立っていた。
山の尾根を目指して登っていく。
昼頃になってようやく山頂が見えてきた。
それからも険しい岩場を登り続けた。
辺りには草木が一本も生えておらず、岩場が広がっていた。山の岩肌は万年雪に覆われていた。
下界では雨季だが、ここでは吐息は白く、凍えるほどの冷気に満ちている。
幸いにも天気は晴天だが、山の天候は変わりやすい。吹雪にでもなったらどうなるか分かったものではなかった。
やがて、山頂に到着した。
だが、付近に草庵は見当たらない。冷たい山風が吹き抜けていった。
砂礫と雪に覆われた地面には、黒色の大きな鳥居だけが佇んでいた。
「草庵なんてどこにもないじゃねか!」
椿は苛立って目の前に落ちていた小石を鳥居に向けて蹴り飛ばした。
小石は放物線を描きながら鳥居を通った後に地面に落下する━━はずだったが、鳥居を通過した瞬間に小石は忽然と消えた。
「どうなってんだ!?」
椿は不信に思って鳥居に近づき、試しに片腕を突っ込んでみる。
春先のような生暖かい空気が奇妙ではあったが、特に痛みや変な感触はなく、腕を引っこめて様子を見ても異常なし。
彼女は危険が無いと判断し、おそるおそる顔を突っ込んだ。
すると眼前には水墨画のような風景が広がっていた。
白い雲海から巨人の指のように細長く尖った岩の柱が何百、何千と天に向かって突き刺さり、その何億年もの歳月が刻んだ皺のような岩肌には、しがみつくように青々とした松が自生していた。
椿が足を踏み入れてみると、そこは岩の柱の一つであることがわかった。
柱の頂点に当たる場所なのだがやたらに広い。穏やかな川が流れており、岸壁から雲海に向かって滝のように落下してゆく。
鬱蒼とした草地に一軒の草庵が佇んでいた。
庭先に生えている桃の木に満開の花が咲き乱れており、甘い匂いが大気に溶け込んでいた。
「綺麗だなあ」
椿が花の美しさに見惚れていると突然、背後に何者かの気配が湧き起こる。
柄を掴んだまま振り返ってみると、そこに立っていたのは白い道士の服を着た初老の男だった。細身だが身長が高く、背中には長い曲刀を背負っている。
男は白くて長い顎髭をいじりながら微笑み、椿のことを眺めていた。
「おぬしが法眼の弟子じゃな?」
「そうだ。名前は赤桐椿。爺さんが仙人だな」
「いかにも。わしが人から剣仙と称される呂洞賓じゃ。風華一閃流の極意を習得に参ったのじゃろ?」
「なぜそれを⁉」
「ほっほっほ。全部お見通しよ。じゃが、法眼の奴め。礼儀を教えておらぬではないか。椿よ。おぬしが教えを乞いに来た以上、その生意気な物言いは改めてもらうぞ」
「分かった……分かりました。老師」
「それでよい。では修行を始めるとしよう」




