猫の滴り
「んんんん!」
正志に足首を掴まれ、ズルズルと部屋の奥に引きずられる詩織。
「動かれんやろうけど、念のため奥におっとかんね」
そうやって口元だけニヤリと笑い、正志が背を向ける。
そして、ゆっくりと襖を閉めながら、少しだけ隙間を開けた状態から眼だけで詩織を覗き見ている。
その無表情な視線に、改めて詩織はゾッとし、絶望も感じる。
「んんんんーん!」
声にならない声を上げるが、正志は気にもしない。
「じゃあね、詩織ちゃん。ゆぅぅぅぅっくり寝とかんね。綺麗にしてやるけん」
そういうと、ピシャリと襖を閉めると、ガンガンと音をさせている。
ガンガンという音が落ち着くと、辺りは静寂に包まれる。
── ガチャン
台所かと思われる鍋かフライパンかわからないが、音が聞こえる。
正志が何かしているのだろうか?
それ以降、何の音も聞こえなくなった。
詩織はなんとか戒めを外せないか、手を引き抜こうとしたり、足を引き抜こうとするが、縛られたロープは緩む気配もなかった。
そのとき、詩織のスマホが震える。
音は決してあるので、バイブレーションを感じる。
これはチャットの時のバイブレーションだ。
(なんとかスマホが操作できれば……)
さらにスマホを取り出せないか、詩織がもがいていた。
── いっぽう、スマホを何度も確認する平
(おかしかね、浜崎は今日東京に帰るって言うたけど。もう帰ったとかな?)
チャットを送る、画面を見るを何度繰り返したか?
時間がたっても、まったく既読にならない。
いくらなんでも、朝から数時間も既読にならないのはおかしいと思う。
実家のことを悩んでいたし、少し心配になる。
それに、空港まで送るってことに同意してくれていたわけで、何の断りもなく空港に向かったと思えないのだった。
「修司、この前聞いたな? 浜崎家の話。あそこは気にいらん」
平の父が言葉短く話す。
父は厳しく、必要最低限のことしか話さず、また兄もよく似ていた。
「気にいらんて、どげんかしたと?」
「浜崎家ちょっと見に行った」
平の問いに、父が嫌悪を表して答える。
「あそこの正志やったか? あれは憑かれとる。家も邪気だらけ」
神主だからなのかそこはよくわからないが、父はそういうものが見えるのだった。
「ん、それって……」
父の言葉に、平の嫌な予感は確信に変わった。
「ちょっと行ってくる」
平は立ち上がると、外の車に向けて駆け出していた。
スマホを確認するが、やはり詩織の既読はつかない。
助手席にスマホを投げると、車を荒々しく発進させた。
── 浜崎家では、汗だくの詩織がうなされていた
『フフフフ、詩織ちゃん、ほらこうやってね…… 』
── ニィギャアアアアアアッ
叔母の智子が猫を抱いていて、詩織に向かって見せる。
叔母が手を動かすと、猫が聞いたこともないような悲痛な鳴き声を上げる。
場面が切り替わる。
『ねぇ、詩織ちゃんのお肌は、本当に白くて瑞々しいわねぇ……』
『ほら、こうやってね、こうすると、ね、私も若返るわよ……』
くるりと振り返る叔母の顔は、文字通り血塗られている。
── ピチャン、ピチョン
叔母の手からは、絶えず猫が滴っている。
遊び終わった猫が乗っている台から、愛おしそうに猫の滴りを搔き集める。
そして、それを自分の顔に塗りたくっていた。
ずっとずっとずっと、そうなんだ、これまでに私は……
小さいころから、見ていたんだ。
大好きな叔母さんが、大好きな猫と、たくさん"遊んでいる"ところを。
『こら、詩織ちゃん……』
── はっと起きる詩織
いつの間にかウトウトしていた。
そして、思い出してしまった。
叔母さんがこれまで何をしていたのか。
吐き気がこみ上げてくる。
なんとか耐えたが、涙があふれてくる。
本当に大好きだった。
優しく髪を梳いてくれる叔母さん。
猫を抱いて、愛おしそうに猫を撫でる叔母さん。
だから、残酷な行為に精神が耐えられなかったのだろう。
人間の防衛本能で、耐えられない記憶は封印されることがある、そんな話をどこかで聞いた。
そして、正志に対しての怒りが沸き起こってくる。
全部正志のせいだったのだ。
(ん、なんだろう? 焦げ臭い……)
夢のことで気が付かなった。
何が起こっているのかわからないが、何かが燃えているようだ。
なんとか寝返りをして、寝転がったまま反対側を見てみる。
襖の隙間から、煙が薄っすらと入ってきている。
それから、汗だくなのは暑すぎるためだと気が付く。
夏だから暑いのだが、そんなレベルではないのだ。
正志の”綺麗にする”という意味が気になっていた。
考えられることとして、これは燃えているんじゃないか?
(どうしよう、どうしたらいい? 紐は取れないし、せめてスマホを!)
少しゆったりしたズボンなので、足を上げたらなんとかスマホがポケットから滑りでるのではないか?
そう考え、詩織が足を上げていく。
ただ、悲しくなるくらい詩織は筋力がないので、足を上げることすら難しい。
周囲を見回し、なんとか壁のほうへ少しずつズリズリと近寄る。
壁に足を付けて、少しずつ足を上げていく。
何度か足ごと倒れたが、何回目なのかわからないがスマホが滑り落ちた。
(やった、でもこれどうやって操作すればいいのよ!?)
スマホを取り出すことに夢中になっていたが、気が付くと隙間から入り込む煙が濃く、量が増えている。
スマホがあるであろう場所に当りを付けて、後ろででさわれるように這いずる。
何度かスマホに触れたように思うが、なかなか掴めない。
指先に当たったり、手の甲で触れたりと、何度ももどかしくさぐる。
そして、ようやく両手で握ることができた。
だが、何も見えないし、やみくもに触ってどうにかなるものではない。
(どうしよう……)
なんとかスマホを手にしたものの、それ以上どうすることもできそうにない。
── フ…フフン…フ
その時、ハミングが聞こえた。
詩織の背後に気配を感じる。
─── ズズズッ、ペタッ、ズズズッ、ペタッ
足を引きずっているような音、そして素足の足を置いた時の音。
── フ…フフン…フ
そしてまたハミング。
近づく足音に、恐怖が襲ってくる。
尋常な暑さもあり、生汗が止まらない。
(誰? 振り返らなきゃ…… でも、怖い……)
─── ズズズッ、ペタッ、ズズズッ、ペタッ
そのとき、またスマホが震えた。
それが合図となって、勇気を振り絞り詩織が寝返りで振り返る。
そこには、猫を抱いた白いワンピースの叔母が立っている。
『フフフ、詩織ちゃん?』
「んんんんんんー!」
口を塞がれていたため、絶叫はかき消された。
── そこで詩織の意識が遠のいた
信号待ちでスマホを確認する平。
既読もつかないが、念のため再度チャットを送る。
信号が変わるまでチャットを眺めるが、やはり既読はつかない。
青になったと同時に、平はアクセルをべた踏みした。
のろのろと加速するワンボックス。
前にいる車は制限速度以下で走っている状況で、平はイライラしていた。
追い越し禁止の一本道。
しばらく続くため、この状況は変わらないのがわかり、さらに焦燥感が募る。
対向車線の車もあるので、さすがに追い越しも難しい。
十五分ノロノロに堪えた平が痺れを切らしかけたころ、ようやく前の車が左折で消えていった。
あと十分ほどだろうか?
一分が一時間になったような、そんな錯覚に陥る。
まだかまだか、そんな思いで運転を続け、ようやく浜崎家へ続く山道の入り口へ辿り着いた。
照りつける太陽で、路面は乾ききっている。
砂利道をタイヤが空転するかの勢いで駆け抜ける。
鬱蒼とした竹藪が見えてくる。
家に近づくと異変に気が付く。
煙がもうもうと上がっているのだ。
浜崎家の前に車を止めると、詩織に電話をする。
呼び出し音が鳴るからスマホは電源が入っている。
── ブーブブー、ブーブブー、ブーブブー、ブーブブー
バイブレーションの振動が手のひらに伝わる。
はっと目を覚ます詩織。
(叔母さん!? どこにいったの?)
叔母は消えている。
それよりも、煙が立ち込めており、暑くてどうしようもない。
── ブーブブー、ブーブブー、ブーブブー、ブーブブー
スマホがずっと振動している。
通話が来ているのだ。
画面が見れないので、どうやって出ようかと思ったが、スマホの画面を適当に触る。
かすかに何かが聞こえた気がする。
「んんーんんーんんー!」
通話ができているのかわからないが、どうすることもできない。
それ以上、スマホから何も聞こえてこなくなった。
── スマホのコールが何度もなるが、スマホをずっと耳に押し当てる平
何度目かのコールで、通話が開始される。
「んんーんん」
詩織の声なのかどうかわからないが、くぐもった呻き声が一瞬聞こえそして切れた。
おかしい、絶対に何かが起こっている。
何が起こっているのかわからないが、煙も出ているし尋常ではない。
玄関を確認すると、鍵が閉まっていた。
横に回りこんで、家を確認していく。
裏手に回り込むと、台所から火の手が上がっていた。
勝手口に手をかけるが、やはり鍵が閉まっている。
玄関に回りこむ。
スマホを操作して、119番通報をする。
浜崎家の住所を告げ火事を報告、まだ何か向こうから言っている状態だが、緊急だからと平の名前と住所を叫ぶと電話を切る。
玄関は細い格子とガラスなので、蹴りを入れる。
── バリン
何度目かの蹴りで、格子ごと破壊できた。
手を入れて鍵を開ける。
平は浜崎家に上がったことがないため、どこに何があるのかもわからない。
だが、迷っている暇はない。
玄関を入り、すぐに右へ走る。
部屋が二つあったが、どちらの部屋も誰もいない。
引き返し、玄関から左側へ走る。
すぐに左突き当りを右に曲がる。
そのとたん、右手奥の台所からメラメラと火の手が上がっている。
この先にも部屋がある。
かなり広い平屋なのだ。
このまま台所の手前の部屋を捜索していると、おそらく火の手が回り奥に進めなくなりそうだ。
行くなら今だった。
迷っている暇はない。
だが、平はなぜかわからないが、左手にある襖の部屋が妙に気になる。
襖に手をかける。
だが、ビクともしない。
よくよく見ると、襖には釘が打ちつけられている。
「浜崎!? 中いるのか??」
襖に耳を付けて確認する。
「んんん! んんんんー!」
聞こえる!
「浜崎!ここを蹴破るけん、襖のとこにおるなら離れて!」
十秒ほど数えて襖に蹴りを入れる。
── ボコン、ガッ
一撃で襖が蹴破られたが、何か硬いものに当たる。
覗き込むと硬い板のようなものが、反対側に貼られているようだった。
何度も何度も蹴りを入れるが、変化が見られなかった。
── ドン、ドン、ドゴン
蹴りを二発入れて、勢いをつけて体当たりする。
それでも割れたりしないのだが、少しへこんで部屋の中側に歪んだようだ。
同じように蹴ったり体当たりしたり、どれくらい実施しただろうか?
── バゴッ、ダダン
何度目だったろうか、平も暑さで汗が滝のように流れる状態だった。
ようやく襖が部屋の中に吹き飛ぶ。
はあはあと肩で息をする平。
そのころには、煙が尋常ではないほど充満しており、咳き込みながらしゃがむ。
「浜崎! いるのか?」
部屋の奥に進む平。
部屋の中は真っ暗だった。
スマホを取りだしてライトをつける。
手前から照らしていくと、奥にぐったりとした詩織が見える。
「浜崎、しっかりしろ!」
肩の下に手を入れて起こして揺さぶる。
だが、全く起きない。
煙を吸いすぎたのか?
わからないが、鼻のそばに耳を近づけると呼吸音がする。
詩織を横抱きにして抱え、なるだけ腰を低くして進む。
なるだけ煙を吸わないようにするが、詩織を抱いているため時折咳き込む。
また、屈んで抱きかかえるという無理な姿勢のため、かなり進みが遅い。
部屋を出ると、台所から奥は業火となっており、髪の毛がチリチリしているような錯覚に陥る。
玄関のほうへノロノロ向かっていると、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
── なんとか車にたどり着いた平
詩織を助手席に座らせ、紐を解いていきながら怪我の有無を確認する。
血が滲んでいりところもあるが、大怪我ではなかった。
ほっとして、顔にかかっている詩織の髪をかき上げる。
車に置いてあるウエットティッシュで煤けた顔を拭く。
そのとき、救急車、消防車、パトカーが並んで入ってくるのが見えた。
── ニャー
平には聞こえなかったが、竹藪から白と黒のハチワレ猫が詩織を見つめている。
消防隊は消火活動に入り、救急隊と警察に事情を説明する平。
救急隊から負傷者の有無を聞かれ、平の車に乗せてあると話す。
救急隊は救急車へ担架をとりに走り、平は詩織の元へ急ぐ。
詩織は起き上がっており、竹藪のほうをじっと見ていた。
「浜崎、大丈夫ね??」
ゆっくり振り返る詩織。
「うん……」
おっとりした感じで、ぼーっとしているようにも思える。
まあ縛られて火事になっているのだから、呆然としてしまうだろう。
平もそう思ったのだが、なぜか釈然としなかった。
「大丈夫ですか? 担架にのってください」
救急隊が詩織に話しかける。
「大丈夫です。自分で歩くので……」
救急隊は担架に乗るよう何度言うのだが、詩織は頑なに拒んだのだった。
「浜崎? あ、自分が支えますので。救急車まで連れていきます」
そう言って詩織に肩を貸すと、詩織もおとなしく歩き始める。
「フ…フフン…フ」
え? 驚いて詩織を見る平。
薄っすらと口元だけ笑みを浮かべる詩織。
「なあ、浜崎さ、本当に大丈夫とね?」
「フ…フフン…フ」
戸惑う平に、ハミングを続ける詩織。
ようやく救急車に乗り込む二人。
「ねえ、平君、猫ってね……」
そこまで言ったところで、救急隊がハッチバックをバタンと閉じる。
辺りには、消火活動の消防隊の声と、無線でやり取りをしている警官の声が響く。
静かに走り出す救急車からサイレンが響く。
そのテールランプを眩しそうにハチワレ猫が見送っていた。
◇◇
テレビからニュースの音声が聞こえる。
次のニュースです。
本日十六日の十五時ごろ、長崎市〇〇町の平屋で全焼火災が発生しました。
この家に住む女性が煙を吸って負傷し、病院へ搬送されましたが、命に別状はないということです。
一方、同居していた正志さんと美江さんの行方は依然として分かっておらず、警察が行方を捜索しています。
焼け跡からは大量の白骨が見つかりましたが、鑑定の結果、いずれも動物の骨であり、人間のものではないと発表されおり……
本作はフィクションであり、登場する人物・団体・歴史的背景・風習などはすべて架空のものです。
また、舞台として描かれる長崎は、作者が最も慣れ親しんだ故郷であり、地域を貶める意図は一切ありません。
物語のリアリティを高めるため、一部実在の地名を使用していますが、作品内容とは無関係です。




