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輝く底なし沼

 ニーナを伴って会場へと入ったヴィクトリア。

 耳を刺すような豪華な騒音が2人の耳を叩いた。豪華な楽団を雇ったのであろう。腕は悪くない。悪くはないが、ヴィクトリアにとっては騒音でしかなかった。

 舞踏会ではなく、社交界。所狭しと軽食やワインが並べられていている。

 そして人、人、人。

 華やかなワルツと、それ以上に耳障りな人々の社交辞令という名の騒音に早くもヴィクトリアは辟易していた。

 何千もの蝋燭を灯した巨大なシャンデリアが、大理石の床を照らし出している。

 会場を埋め尽くすのは、香水の匂いをキツくさせた令嬢たちと、腹の底で何を考えているか分からない笑みを張り付かせた紳士たち。

 彼らは手に持ったクリスタルグラスを揺らしながら、まるで値踏みをするような視線で周囲を窺っている。


「あら、セプタム公爵令嬢がようやくお出ましですわ」


「今夜、重大な発表があるとか……」


 視線がヴィクトリアとニーナに集まる。

 夜空をそのまま溶かし込んだ様なドレスと口元を隠すための黒壇の扇子。決して派手ではない。しかし、一級品と分かるそれと本人の美貌。会場中の視線を全て集めるには十分だった。


「令嬢の隣にいるのは……どちらの令嬢かしら?」


「おお、美しい。セプタム令嬢と並んでいても分かる美しさ……我が妻に……」


 緊張でそれどころではないニーナだった。

 本人が聞けば卒倒するような台詞も飛び交う中、ニーナの背中にそっと手が添えられる。


「ニーナ、貴女も目立ってますわよ」


 悪戯が成功したような笑顔でニーナを見つめたヴィクトリアだが、決して機嫌がいいわけではない。むしろ機嫌が悪すぎるまであった。

 聞き取っていた、今夜、重大な発表があるとの言葉。これに関して公爵から何も聞かされていないと言うことは碌でもないことであろうと予想していたからである。

 それとニーナを我が妻にと。これを言った者に関しては特に無いヴィクトリアの粛清リストに名前を連ねることになる。


「あわ、あわわ……お嬢様、みんなが……みんなが怖い目で見てきます……」


 ドレスの端を握りながら怯えたようにヴィクトリアを見上げたニーナを見て少しだけ溜飲を下げたヴィクトリアは注意深く周りを確認していく。


(有象無象しかいないですわ。全く、貧乏であるならこんな社交界なんてする必要ないのではなくて)


 有象無象とヴィクトリアが切り捨てた人々の中には伯爵家の子供たち、新進気鋭の商会の商会長なども含まれているのだが、その様なことヴィクトリアにとっては関係ない。


「ニーナいいですこと。その様な不躾な視線を送る輩はあしらうのですよ。難しそうならわたくしの名前を出しなさいな」


 その言葉を最後に、ヴィクトリアは「少し喉が渇きましたわ」と、優雅な足取りで給仕の方へと向かってしまった。

 残されたのは、煌びやかな光の海に取り残された、紺碧のドレスを着た一人の獲物。


 (待って、お嬢様!? 一人にしないで! 私、名前の出し方なんて知らないし、出したら出したで面倒な事ににりそうなんだけど!)


 ニーナの危惧は、即座に的中した。

 ヴィクトリアの姿が見えなくなった途端、周囲の空気から警戒が消え、代わりに粘着質な好奇が這い寄ってきたのだ。


「あら……見ないお顔ですわね? そのドレス、少しデザインが古いようですけれど……どこの没落貴族の生き残りかしら?」


 扇子で口元を隠し、嘲笑を浮かべた令嬢たちが、獲物を囲む猟犬のように距離を詰めてくる。


 (来たぁ! 定番のやつ来た! デザインが古いって、これお嬢様のお古だからね!? 本人に言ったら首が飛ぶわよ!?)


 ニーナは震える膝を必死で抑え、折れたら主人に合わせる顔がないと微笑みを、精一杯顔に張り付かせた。


「いえ……私は貴族ではなくてですね。お嬢様に個人的に懇意にさせてもらってるだけです」


 しかし、その正直な言葉は飢えた令嬢にとっては格好の餌食でしかなかった。


「まあ?貴族ですらない?その様な身元の方が公爵令嬢に取り入って何を企んでいるのかしら?」


「個人的に懇意ですって?セプタム令嬢も物好きですわね。貴族ではない者を着飾ってこの神聖な場にお連れするのですから」


 周囲の冷笑が物理的な重みを伴ってニーナにのしかかった。


「あの、私のことは何といっていただいてもいいです。けれど、お嬢様の事を言うのは辞めてください」


 貴族的な言い回しなど分からない。故の直球の言葉。

 分かり易すぎる反論に令嬢達の目にほんのりと怒気が宿る。

 嫉妬とプライドが混じり合い、扇子を握る彼女たちの指先が白く強張る。


「……聞き捨てなりませんわね。身分を弁えぬ小娘が、わたくしたちに説教をするつもり?」


「ええ、そうですわ。セプタム令嬢が甘やかされるから、このような礼儀も知らない野良犬が社交界を汚すのですわよ」


(そういえば……周りの人達は、見てるだけ。なるほど、ここはそういう場所なんだ)


 多対一で吊るされる構図。そしてそれを娯楽のように消費していく周りの人間達。

 その事実に気がついたニーナはため息をついた。

 ヴィクトリアなら決して怒らない。むしろ自分が良しとさえしているその行為。それはより彼女達の怒りに油を注ぐことになる。


「平民の野良犬風情が……私を前にため息ですって?覚悟は出来ていて?」


 激昂した令嬢が、手にしたグラスのワインを今にもぶちまけようと掲げた。

 

(あ、死んだ。お嬢様から借りたこの高価なドレスを汚したら、今度こそ首が飛ぶ!)

 

 ニーナがぎゅっと目を閉じた、その時。

 会場の喧騒を切り裂くような、鋭く、そして優雅な足音が背後から近づいてきた。

 

「あらあら。わたくしが少し席を外した隙に、随分と分不相応な噴水ショーの準備をなさっているのね?」


 氷の礫を投げつけられたかのように、令嬢たちの動きが止まった。

 そこには、グラスを片手に、獲物を値踏みするような極寒の笑みを浮かべたヴィクトリアが立っていた。

 

「お……お嬢様!」


「ニーナ、下がっていなさい。汚れが飛ぶと不快ですから」

 

 ヴィクトリアはニーナを背中に庇うと、黒壇の扇子をパチンと閉じ、ワインを掲げた令嬢の喉元を、その扇子の先で鋭く指し示した。

 そしてニーナは知る事となる。自分が従っている主人の内に秘めた苛烈な炎を。


「さて、貴女は確か、メインヒルズ子爵の令嬢、それとアルモンテ男爵のとこの……まぁ、何だっていいですわ。わたくしの所有物にそのワインで何をしようとしていたのかしら?」


(怒ってる……怒ってるよぉ。そんなにドレスが汚れるのが嫌だったんですね。じゃあ私に書かせないで下さいよ……)


 斜め上の事を考えるニーナはともかく、ワインを掲げた令嬢――メインヒルズ令嬢は怒りから怯えへと瞳の色を変える。


「そこの野良犬が噛みついてきたので貴族としての立ち振る舞いを教えていただけですわ」


「ニーナ、貴女から喧嘩を売ったのかしら?」


 ヴィクトリアから問われたニーナはちらりと令嬢を見る。そこには助けてほしいと、ありありと映っていた。

 その視線をしっかりと理解した上でニーナは――


「いいえ。その様なことはございません」


 事実上の死刑宣告である。

 自分の事はいいと言ったが、腹が立っていないわけではなかった。

 その言葉を受け、ヴィクトリアは喉元に突きつけた扇子を少し上へと持ち上げる。


「我が家の野良犬はこう言っていますわよ?ああ、野良犬の言う事などとは言わない方がいいですわ……貴女、わたくしが何故怒っているか理解していて?」


「……ドレスにワインがかかるからですの?」


「本当に救いようのない……わたくしのニーナを野良犬などと巫山戯た事をおっしゃるからですわ」


 え?そんな事?と、令嬢達が呆然と漏らす。


「わたくしが価値を認め、わたくしの傍に置くと決めた存在。それを貶めるということは、わたくしの審美眼そのものに対する宣戦布告だと……その都合の良い脳髄では理解できませんでしたの?まぁ、何でもいいですわ。ニーナ、衛兵から剣を借りて来なさい。その首、慰謝料くらいにはなるでしょう」


 何のことも無しに告げた死刑宣告。

 刹那、時が止まり瞬間ざわめく。

 顔を白くした令嬢が2人。


「お嬢様!そこまでしなくてもいいです!お嬢様のその気持ちだけで十分です!」


(……っていうか、剣なんて借りてこれるわけないでしょ! 私、メイドだよ!? 衛兵さんに首撥ねるから剣貸してなんて言ったら、真っ先に私が捕まるわ!)


 必死にヴィクトリアの腕に縋り付くニーナの背中には、滝のような冷や汗が流れていた。

 ヴィクトリアの怒りは、ニーナが想像していた自分のドレスを汚されかけた怒りなどではなく、もっと根源的で、狂気に近い独占欲だった。

 

 自分の価値観を否定されることは、彼女にとって死に等しい。

 そしてその価値観の最上位に、今、自分という野良犬が居座っているという事実。

 

(重い……愛が重すぎる……! 串焼き一本の代償が『人の首』なんて、そんなの、お釣りがいりすぎて破産しちゃうよ……!)


 などと、内心慌てふためくニーナであった。

 そしてその喧騒をかき消したのはヴィクトリアでもニーナでもなく第三者であった。


「騒がしいな。何があった?」


 セプタム公爵その人である。

 その隣には、これ見よがしに豪華な宝石を光らせ、獲物を値踏みするような下卑た笑みを隠そうともしない男——エリックが、脂ぎった顔で立っている。

 ヴィクトリアの扇子が、かすかに、けれど不気味なほど冷たく震えた。

 

「輝く底なし沼」の底が抜け、真の絶望が口を開けた瞬間であった。

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