婚約破棄RTA
「あら、お父様。この様な場所に珍しいですわ」
令嬢に突きつけていた扇子を離し、開いて口元に持っていく。
腰が抜けたのであろう、その場で尻もちをつく令嬢。
ヴィクトリアは見向きもすることなく父親、その奥へと視線を向けた。
下卑た笑みを浮かべた小太りの男、その更に奥、感情を消し視線を送るアルフレッド。
(お父様、エリック、重大発表……ああ、なるほどそう……さて、どうお断りしたらいいかしら)
内心ごちるヴィクトリア。
アルフレッドのところまで移動するようニーナに合図をし、ニーナが移動したことを確認したところでヴィクトリアは口を開いた。
「お父様、確認なのですが、重大発表と言うのはそこの脂ぎった肉塊との婚約発表というわけではありませんよね?もし、そうだとしたらわたくし、遺言状返事をしないといけませんこと」
会場全体が、先ほどより凍りついた。
公爵の眉が不機嫌に跳ね上がり、エリックの笑みが醜く歪む。
「ヴィクトリア、そのまさかだ。お前の嫁ぎ先はそこのエリックである」
アーモンド型の瞳が更に吊り上がる。
「お父様。貴方は、わたくしを買い叩くには、あまりに商才が欠けていらっしゃるようですわね」
ヴィクトリアは扇子を広げ、エリックという肉塊を指し示した。
「そこのエリック。貴方がお父様に提示した持参金……いくらかは知らないですが安値ですわ。わたくしの価値は、そんな金貨ごときで計れるものではなくてよ?」
「な、何を……!」
言い返そうとしたエリックだが、公爵の手によって制止させられる。
「ヴィクトリア、貴族として生まれてきたのだ。お前は政治の道具として嫁に出ろ。これは父親としての命令だ」
コツン。と自分の手に拳が当たる感覚をニーナは感じた。
アルフレッドの握りしめられ震えた拳であった。
(アルフレッド様も、この婚約には反対なんだ)
それもそっかと納得したニーナ。その行方を見守る。
「お断りしますわ。わたくしに相応しい人はわたくしが見つけて参りますもの」
「ヴィクトリア嬢、何が嫌なんだい?僕には金がある。権力もある。君に何不自由なく暮らさせてあげることができるさ」
エリックが、自信満々にその醜い腹を突き出した。
その瞬間、ヴィクトリアは心底楽しそうに——そして周囲の誰もが背筋を凍らせるほど冷ややかに笑った。
「驚きましたわ。まさかそんなものを誇りに思っていらっしゃるなんて……小物、矮小どの言葉でも貴方を形容することなどできませんの。それで、父親としての命令?どの口がおっしゃいますの?確かに血は繋がっています。けど、それだけですわ。わたくしの親はアルフレッドと亡き母。2人ですわ」
ヴィクトリアの言葉が、シャンデリアの輝く静寂の中に鋭く響き渡った。
公爵の顔は屈辱で赤黒く染まり、エリックは親ではないと切り捨てられた公爵を見て、自身の拠り所が崩れ去るのを感じて脂汗を流す。
「ヴィクトリア……! 貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか! 公爵家を勘当されて、路頭に迷っても——」
「ええ。構いませんわ。アルフレッドとニーナ。この2人さえいればわたくしは他に何もいりませんもの」
勘当の宣言。それに臆することないヴィクトリア。
当の本人はこれで串焼きが好きな時に食べにいける!くらいにしか思っていない。
だが、ここで超弩級の地雷を踏んだ愚か者がいた。
「ならば!その2人と来るがいい。ジジイはもう使い物にならないだろう。ならばよりよい見た目の執事に変えてやろう。そこの女も妾として飼ってやってもいい」
(あ、これヤバい)
ニーナが想像した通りである。
ツカツカとエリックの方へ歩み寄るヴィクトリア。
女性にしては少し高い身長の彼女と背の低いエリック、視線が重なった刹那――
一閃。
パァンと大きな炸裂音。
黒壇の扇子を振り抜いたヴィクトリア。そこに熱はこもっていない。
「貴方、死にたいようね」
勘当すら受け入れたヴィクトリアの逆鱗を触れたエリックは衝撃に目を白黒させていた。
「ヴィクトリア!!」
そして怒鳴り声をあげる公爵。
自分が連れてきた婚約者を婚約破棄したあげく扇子でのビンタ。場所がよくなかった。
曲がりなりにも貴族が集まっている社交界。その様な場所でその様な事件。
公爵は娘すら御せない愚か者だというレッテルを貼られる事になるだろう。そして噂の巡りは火を山に落としたが如く王国内を駆け巡るであろう。
「お父様。いえ、アルド公爵。邪魔しないでくださる?わたくしとエリック様の問題ですわ」
言い切った。はっきりと噂好きの貴族の前でアルド公爵と。
娘から突きつけた事実上の絶縁宣言。
絶対零度と化した会場からは絹が擦れる音すらしない。
「エリック様、貴方、本当にわたくしが買えると思っていたのですか?……貴方のその金貨より、ニーナが差し出す市場の食べ物の方が何倍も価値のあるものですわ」
「ならば、市場ごと買い叩こう!」
パァンの乾いた音が響いた。
「おめでたいですわね。貴方とは会話にならないことがよく分かりましたわ。そんな小物とつるむアルド公爵、貴方の底の浅さも……」
ヴィクトリアは、もはや塵を見るような瞳で父であった男を一瞥すると、音を立てて扇子を閉じた。その鋭い音は、セプタム公爵家としての彼女の終わりの合図であった。
「こんな、脂が詰まった扇子など不要ですわ」
ヴィクトリアはそれを放り捨て、貴族らしい笑みを浮かべ、アルフレッドへと視線を送った。
「アルフレッド、この家はわたくしにとって相応しくないですわ。『お掃除』任せましたわよ」
「は。仰せのままに、お嬢様」
(父君への宣戦布告、そしてお掃除との暗喩。つまるところ、お嬢様……家督を簒奪おつもりですか。ふふ、この老骨血が滾りますね)
勘違いである。
ヴィクトリアとしてはビンタした際に弾け飛んだワインや扇子を片付けろ。それくらいの意味であった。
しかし、裏帳簿を見つけてしまっていたアルフレッド。そしてヴィクトリアの言い回し。全てが見事に噛み合ってしまった。
(下町に降りたらニーナに色々教えてもらいましょう。それはそれで楽しそうですわね)
溜飲を下げたヴィクトリアは小さく笑い、公爵の脇を抜けていく。
「ヴィクトリア……! 待て、どこへ行くというのだ!」
背後から響くアルド公爵の不細工な叫び。だが、ヴィクトリアは一度も振り返らなかった。
「ニーナ、手を。……皆様、今宵の重大発表はこれにて終了ですわ。これにてご機嫌よう」
会場に渦巻く困惑を他所に、ヴィクトリアはニーナの手を強く、優しく引き、大理石の床を堂々と踏み鳴らして出口へと向かった。
シャンデリアの光さえ、彼女の背中を追っているかのような、あまりに不細工じゃない、鮮やかなる退場であった。
そしてこの夜からお嬢様の勘違いの覇道の幕開けとなる事となる。




