泣いて許しを乞う
「お嬢様、来客中だ。公爵らしくしてろ」
「あらあら。まあ!可愛らしいお客様ですこと。ようこそセプタム領へ」
鈴を転がしたような声が響く。
柔らかく微笑むヴィクトリアを見てエルゼリットは自分は誰を邪魔をしようとしていたのか思い知る。
数字でも情報でもない生の人間。その被害者になるかもしれない者を目の当たりにし、エルゼリットはくらりと目眩の様な感覚に襲われる。
ガランドの威圧によって体温を奪われた感覚から一転。ヴィクトリアによって温度を得たエルゼリット。その温度差に思考は暗転した。
「お嬢様、そいつは俺の客だ。まぁ、俺の主人なんだ。隣で話を聞いていても問題ねぇだろ?」
「……ええ、まぁ……はい」
問題しかない。
業務内容意外の対人関係が薄いエルゼリットでも分かる。ガランドは何を依頼しようとしているのか見当がついている。
「お嬢様、この幽霊はバルトロメイ領の帳簿をすべて握っていた計算機だ……さて、幽霊。お前の依頼……いや、お前の飼い主の本音を言ってみろ。お前は何のために、この都市の、この俺の部屋まで来た?」
(筒抜けです……ここで私は死ぬんだ)
エルゼリットの胸中は絶望で埋め尽くされていた。
父親から出来損ないの烙印を押され、帳簿の整理と統合性を見て伯爵へと伝えるだけの人生。
(最後の最後で温かい風呂に浸かれて良かったです)
もう全て話して楽になろうとエルゼリットが口を開こうとした時――
「ちょっとガランド!その様な言い方ないんじゃないかしら?この子も萎縮して話せるものも話せないわ」
ヴィクトリアが介入してきた。
弾けるような笑顔でエルゼリットの傍らに膝をつき、目線を合わせる。
死を覚悟した極限状態のエルゼリットにとって、その眩しさは救いなどではない。
逃げ場のない善意という名の包囲網。
濁りのない瞳で見つめられるたび、己の中に抱えた裏切りの言葉が、灼熱に晒された氷のようにドロドロと溶け出していく。
「いいのよ?ゆっくりでいいから私に教えて下さいな?」
公爵としての威厳と、少女のような無邪気さの同居。
そのあまりにも正しい存在感の前に、エルゼリットがこれまで積み上げてきた卑屈な矜持は、一瞬で塵へと変わった。
もはや嘘で塗り固めることすら、不可能なほどに。
目頭が熱くなり、頬を温かな雫が伝う。
「ごめっ……ごめん、なさい……わたっ、わたしは……」
嗚咽が混じり、言葉が出てこないエルゼリット。
そんなエルゼリットにヴィクトリアは優しく手を伸ばし、赤い髪を撫でる。
(あーあ。これ、やっちゃったよお嬢様。いつものだ)
と、ニーナはため息を落とす。
自身がそれに絆されたから分かるその劇毒の効果を。
「わたっ私は……出来損ないで!あなた様を、地獄へ突き落とすために参りました……っ!父の命令で、公爵領の事業を破綻させ、あなた様が……ヴィクトリア様が、泣いて、縋る姿を作るために……うわああぁぁん!」
ついに決壊した。
エルゼリットは床に額を擦り付け、子供のように声を上げて泣きじゃくる。
妨害、工作、諜報。そんな薄汚い単語が、ヴィクトリアの慈愛に触れて、醜い膿のように溢れ出した。
ごめんなさい、ごめんなさいと蹲るエルゼリットの背中に手を当て、ガランドへ目配せをする。
「知らなかった!ガランド様がヴィクトリア様の主人だなんて!お風呂がこんなに、温かいなんて知らなかったんです……無理です。私には、そんなっ汚い事なんて出来ません!」
「いや、出来る出来ない以前に依頼受けねぇからな。と言うか、てめぇ伯爵領に帰れると思ってるのか?」
ガランドの突き放すような言葉。
だが、その冷徹な響きこそが、かえってエルゼリットを伯爵の呪縛から物理的に切り離した。
「……ふ、ふぇ……っ、あ……」
「まず最初に言っておくが、俺達の最優先はお嬢様だ。今後振りかかる火の粉を払う為の扇子がてめぇだ。人質として軟禁かてめぇの有能さを示してお嬢様に使われるか……今ここで選べ」
ガランドの突きつける、あまりに極端な二択。
床に伏し、涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしたエルゼリットは、震える指先でヴィクトリアのドレスの裾をぎゅっと掴んだ。
ヴィクトリアもニーナもガランドの言っていることは理解している故に口を挟まない。
「……帳簿を」
短く、ガランドに確かに告げる。
ガランドから黄金都市の物流と金の帳簿を受け取り、目を走らせるエルゼリット。
ほんの数分の静寂。
「こちらの商店、敷地面積に比べて売り上げが多すぎないですか?確か施設内の商店ですよね……となると敷地を小さく申告して払っている場所代を浮かせてないですか?」
ガランドの口角が、微かに、しかし確かに上がった。
泣き腫らした目で、鼻をすすりながら、なおも帳簿の不整合を指摘し続けるエルゼリット。
「決まりね。貴女、帰る場所がないならここで働きなさいな。ガランド?」
「ああ、てめぇは能力を示した。てめぇがここで働くなら俺達が全力でてめぇを守ってやる。じゃねぇとお嬢様がうるさいからな」
ガランドから投げ渡された山積みの書類を、エルゼリットは抱きしめるように受け取った。
まだ頬を濡らす涙は止まっていない。呼吸も、不規則なままだ。
けれど、書類を握る指先だけは、かつてないほどに確かな熱を帯びていた。
「……ぐすっ……この帳簿も、おかしいです……っ」
泣きながら不正をなじるエルゼリットと、それを見て満足げに頷くガランド。
ニーナは「あーあ、二人目のガランドさんが増えちゃった」と天を仰ぎ、ヴィクトリアは「素敵な扇子さんが増えましたわね!」と無邪気に拍手する。
それが、伯爵領の幽霊がセプタムの財務担当へと生まれ変わった、産声であった。
「それはそうと、ニーナちゃんさ、どうやって攫って来たんだ?」
何気なく投げかけたガランド。
その言葉にヴィクトリアは固まる。
(は?え?攫ってきた?わたくし、ニーナにお願いしていたのは屋敷周りの事だけよ?)
「……ニーナ、正直に何があったか話しなさい」
「えと……手を引いて、ここまで連れてきました?」
端的に伝えたニーナ。
それは捉えようによっては人攫いのそれと変わらない。
「ニーナ、わたくしも一緒に謝りますわ。伯爵家へ行って頭を下げましょう」
「え?ちょっと?ええええ?お嬢様?」
ヴィクトリアの劇毒は、今度は身内であるニーナを全速力で追い詰めていく。
隣で帳簿を抱えていたエルゼリットも、そのあまりの真っ直ぐさに、今度は別の意味で涙が溢れ出した。
「……あ、あの、ヴィクトリア様……私のために、そこまで……っ」
ガランドが低い声で追い打ちをかける。
「……聞いたか、ニーナ。お前の浅はかな行動のせいで、お嬢様が敵地で頭を下げることになる……お前、自分が何をしたか、本当の意味で理解できたか?」
「う、うわああぁぁん!ごめんなさい、ごめんなさいお嬢様ぁ!私が悪かったです、私が全部悪いんです!謝りに行くなら私一人で行きますから、お嬢様はここにいて下さい!」
ついにニーナも、床に崩れ落ちて泣き始めた。
安心で泣くエルゼリット。自責の念で泣き叫ぶニーナ。
ガランドは、二人の泣いて許しを乞う姿を冷徹に、けれどどこか満足げに眺め、最後に短く言い放った。
「……泣き止んだら、仕事だ。夜明けまでに、現状の収支報告をまとめろ……二人でな」
後日、本気で謝りに行こうとするヴィクトリアを全力で止める三人がいた事を領民が見ていたらしく、新しい苦労人が増えたと噂になるのだった。




