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崩壊する価値観

 ニーナとの出会いから2日。

 働き、1日の移動を挟んで夜もいい時間、ニーナと共に黄金都市へと足を踏み入れたエルゼリットは屋敷の取り壊し以上の衝撃を受ける事となる。

 整備された道、王都以上に溢れかえる人と立ち並ぶ屋台。そして巨大な施設とやけに豪華な宿屋。


(こんな夜にこれだけの人……治安が良すぎます)


 公爵領と伯爵領、王都と共通しているのだが、決して治安がいいわけではない。

 路地裏に入れば死体が転がっている事もあるし、追い剥ぎ、カツアゲ、強盗など普通にある。

 しかし、この都市、夜でも子供が歩ける程治安が良い。

 ガランドの子飼いの人間が常に目を光らせ、トラブルを起こした外部の人間は住民によって文字通り身ぐるみを剥がされ街の外へ捨てられる。


「ガランドさんの前に、まずは汚れを落とさないとね」


 と、ニーナに連れて行かれたのは一番巨大な施設。

 ニーナは受付に銅貨を渡すとエルゼリットを連れて施設の中に入っていく。

 左右様々な店が並ぶ目まぐるしい空間を迷わずニーナは突き進み、エルゼリットは立ち並ぶ売店の数々に目が迷子になる。

 ニーナが迷わず暖簾を潜った先。そこは、エルゼリットの常識を根底から覆す一般開放されている風呂の脱衣所だった。


(……嘘……嘘ですよね?ここ、着替える場所?壁が、壁がないです)


 仕切りといえば、腰の高さほどしかない棚。

 その向こうでは、仕事を終えたばかりであろう下町の女性たちが、笑い声を上げながら惜しげもなく肌を晒している。

 バルトロメイの静かな書斎。重厚な扉。何重ものカーテン。

 隠すことで守ってきた彼女の矜持が、この開放的な空間ではただの邪魔な布切れに成り下がっていた。


「ほらお姉さん、脱いで脱いで。これ、荷物入れね!」


「ちょ、ちょっと待ってくださいましニーナさん!私、このような衆人環視の中で……っ!」


「大丈夫だって!誰も減るもんじゃないし!ほら、その真っ白な肌、みんなびっくりしちゃうかもね!」


 無邪気なニーナの手が、エルゼリットの泥だらけの服に伸びる。

 抵抗する気力も、文字情報のストックも、ここでは何の役にも立たない。

 数分後。

 バスタオル一枚を命綱のように抱きしめ、震える足で浴室への扉を開けたエルゼリット。

 そこには、立ち込める熱い湯気と、琥珀色の瞳を灼くような生のエネルギーが満ち溢れていた――。


「ほら、いくよ」


 ニーナに腕を引かれ、体と髪を洗い、岩で囲われた湯船へと浸かったエルゼリット。

 エルゼリットと同じ琥珀色をした湯船。暴力的なまでの熱い衝撃がエルゼリットの全身を貫く。


「ふぁ……」


(あ、これ、だめなやつ……)


 書斎で冷え切った体が、労働で疲れ切った体が溶け出すような感覚をエルゼリットはこれは麻薬だと感じてしまう。

 琥珀色の湯面に、自分の顔が映る。

 のぼせた熱のせいでか琥珀色の瞳はとろんと潤み、唇は微かに開いたまま。

 病的なまでに白かった肌が、まるで熟した果実のように、熱を帯びた瑞々しい桜色へと染め上げられていく。


(……私の、肌が……赤い……赤い髪と同じ色をしています……)


 かつて、父から「お前は死人のように働けばいい」と冷遇されていた彼女にとって、この温もりはあまりにも異質しすぎた。

 ドクドクと、全身を巡る血の音。

 自分が数字を処理するだけの死人ではなく、呼吸をし、血の通った一人の人間であることを、温泉の熱が強制的に自覚させていく。


「 お姉さん、赤くなってるよ! 気持ちいいでしょ?」


 隣で豪快に湯を撥ねさせるニーナ。

 普段なら不敬だと憚る行為すら、今のエルゼリットには心地よい雑音にしか聞こえない。

 理性が、ふやけて、溶けて、流れていく。

 妨害工作、父親の命令、伯爵令嬢の矜持――。

 そんな重たい荷物は、すべてこの琥珀色の湯船の底に沈んでいってしまった。


「……ええ。本当。気持ちいいです。こんなの私、知らなかった」


 帳簿に載っている数字も、嘆願書にもこの様なことは書いていない。

 エルゼリット自身が労働し、初めて自力で得た知識は働いた後の風呂はとても気持ちいいと。


 しばらく湯船に浸かっていると、ニーナが立ち上がる。


「じゃあ、行こっか」


「ええ。お願いします」


 ふやけ、溶けていたエルゼリットの思考が急速に冷えていく。

 今から自分が臨むのは闇の王との対峙。それも敵地のど真ん中での。


 濡れた体を拭き、髪にタオルを当てていく。

 解かれた髪は瑞々しく光り、白い肌は血色の良いピンク色。


 持って来ていた質素な服に袖を通し、エルゼリットは新しいメイド服に着替えたニーナの後ろを歩く。

 商店を抜け、階段を上がると施設の顔は変わる。

 夜もいい時間であるにも関わらず、様々な人が書類を持って慌ただしく歩いている。


(夜だというのに仕事?)


「ごめんね。慌ただしくて。ガランドさんがどうしても遅くに戻ってくるからこの時間に仕事を始める人が多くて……」


「いいえ。ちょっと驚いてしまっただけです」


 施設の一番奥。質素な扉の前でニーナは立ち止まり、振り返ってニコリとエルゼリットに笑いかける。

 ここからは自分で頑張ってとでも言いたげな笑顔だった。


「ガランドさーん。報告に来ました。それと、追加で派遣してくれてありがとうございます」


 口調はしっかりしているが、声色は気安く部屋の主へと投げるニーナを見てエルゼリットは心臓が止まったような錯覚。

 白髪混じりの黒い長髪の男。

 目の下に隈を作っているがそれがまた男の不気味な雰囲気を助長している。

 ただ、そこにいるだけ。それだけで感じる冷たい存在感に温まっていたエルゼリットの肌は粟立つ。


「ニーナちゃん。お前はいつから人攫いなんて覚えてきたんだ?よくやった。人質にも労働力にも使えるなぁ……バルトロメイの幽霊はよ」


 エルゼリットは、自らの喉がヒュッと鳴るのを感じた。

 潜入も、妨害工作も、すべては見透かされていた。

 人質か奴隷の様に使い潰されることを幻視するエルゼリット。

 バルトロメイとガランドから聞き「あー、あそこのお嬢様」と、ニーナ。


「闇の王――ガランド様。下賎な私の依頼を受けて下さい」


 腰を折り、頭を下げるエルゼリット。

 ガランドを前に用意していた台詞も予想していた話の流れも全て無意味だと悟る。

 そんなエルゼリットが導き出した結論は自分を下げ、誠心誠意お願いすることだった。


 深々と頭を下げ、ガランドの返答を待つエルゼリット。

 床を見つめる視線の端で、ガランドがゆっくりと椅子を鳴らし、立ち上がる気配がした。


「……面白い。バルトロメイの幽霊が、頭を下げてまで何を望む」


 氷のような声が、上気した彼女の項をなでる。

 すべてを見透かした上で、あえてその願いを言葉にさせる残酷さ。

 エルゼリットは震える唇を噛み締め、黄金都市の熱気に背中を押されるように、自らの運命を闇の王へと委ねた。

 それが、書斎の幽霊が本当の地獄へ足を踏み入れた瞬間だった。


 エルゼリットが乾いた口を開こうとした時――

 バタン!と、勢いよく扉が開いた。


「ガランド!この前のお小遣いいただきに来たわ!」


 エルゼリットの目に最初に飛び込んできたのは眩い銀髪。遅れてアーモンド型の目。筋の通った鼻と血色の良い薄い唇。

 引きこもっているエルゼリットにも分かる圧倒的な美貌。

 寝間着の上にマントを羽織っているだけにも関わらず、理解していまう。この雰囲気、ニーナの主人であると。


 頭に手を当てるガランドをカツアゲする彼女こそ――

 セプタム公爵家当主――ヴィクトリア・セプタム。その人であると。

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