第十八話 関係をはっきりさせ、距離が近づいた日の話
夜の気配が、家の中へゆっくりと沈んでいた。
食事を終えて戻ってきたあとは、誰も大きな声を出さなかった。居間の卓には片づけの済んだ器の名残だけがあり、灯火はひとつだけ、静かな明るさを落としている。壁一枚向こうの研究室側からは、紙をめくる音や金具の触れ合う小さな音がときおり聞こえてきたが、それも今夜は妙に遠かった。
ユーナは食後すぐ研究室へ戻った。
「記録まとめるから。二人は好きにしてて」
そう言って手をひらひら振り、振り返りもせず扉の向こうへ消えた。いつも通りと言えばいつも通りだが、あの女なりに気を利かせた結果なのかもしれない、とシロウは少しだけ思った。思ったあとで、いや、単純に自分の興味の方が勝っただけかもしれないとも思い直す。あの人の善意と好奇心は、見分けがつきにくい。
シロウとリテュシアは、同じ部屋へ戻った。
日中と違って、夜の室内は少し狭く感じる。もともと使っていた部屋だから今さら驚きはしないが、静けさが増すと物の配置や距離が妙に意識へ引っかかる。
シロウは扉を閉めたあと、しばらくその場で立ち尽くしていた。
昼間は色々ありすぎた。地下の実験場で魔道具を試され、街へ出て、食事をして、無理やりではないにせよ普通の形で人の中に紛れて歩いた。緊張しっぱなしだったのに、今こうして落ち着いた部屋へ戻ってくると、今度は別のことが頭に浮かんでくる。
楽園。
以前、リテュシアが言った言葉。
あの時は、目の前のことで精一杯だった。迷宮の外へ出ること、王国に見つからないこと、自分が悪魔になってしまったという事実をどうにか飲み込むこと。そのどれもが重すぎて、彼女が示した行き先にすがるしかなかった。
だが、ユーナの家へ移り、街の中で暮らし始める形になってから、その言葉だけが少しずつ引っかかり始めていた。
もし本当に悪魔の楽園なる場所があるなら、何故リテュシアはそこへ向かおうとしないのか。
何故、危険だと分かっている魔道都市に身を置くのか。
何故、ユーナの支援を受ける形になっているのか。
その疑問を、今日までずっと飲み込んでいた。
シロウは寝台の端へ座り、両手を膝の上で組んだ。爪の先が鈍く灯りを返す。見慣れたようでいて、やはり見慣れない手だった。
向かいでは、リテュシアが髪をほどいていた。昼の外歩きで乱れた髪を指先で整える仕草は静かで、迷いがない。彼女はこういう夜の動きまで無駄が少ない。何をしても落ち着いて見える人だと、シロウは何度目か分からないことを改めて思った。
その背へ向けて、ようやく声を出す。
「……あの」
リテュシアの手が止まる。
「何ですか」
振り返らない。けれど聞いている声だった。
シロウは唇を少し湿らせた。
「楽園って、どこにあるんですか」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
灯火の揺れた音まで聞こえそうな、短い静けさだった。長くはない。ただ、その一瞬だけ、部屋の中の時間が足を止めたように感じられた。
リテュシアは振り返る。
顔色ひとつ変えていない。だが、その目は逃げていなかった。
「ありません」
即答だった。
言い淀みも、誤魔化しもなかった。
シロウはそこで叫ばなかった。怒鳴れなかったと言ってもいい。心のどこかで、そうかもしれないと薄々思っていたからだ。むしろ、すぐに否定されたことで、妙な形で納得してしまう。
「……やっぱり」
口から出たのは、責める声ではなく、落ちるような呟きだった。
リテュシアは何も足さない。
シロウは少しだけ視線を落とし、次の言葉を探した。
「最初から、なかったんですよね」
「はい」
それだけだった。
誤魔化さない。嘘の上にさらに嘘を重ねる気もないらしい。その潔さがありがたいのか、残酷なのか、シロウにはまだ判断がつかなかった。
部屋に静けさが戻る。
少しだけ距離ができたような気がした。実際に互いの位置が変わったわけではないのに、空気の中へ細い線が引かれたようだった。
シロウはゆっくり息を吐く。
「……なんで、そんなことを」
問いというより、確認だった。
リテュシアは髪を肩の後ろへ払い、それから静かに言った。
「あの場で、あなたを迷宮の外へ出させる必要がありました」
声は平坦だった。だが冷たくはない。
「迷宮に残れば、いずれ王国に見つかります。見つかれば討伐される可能性が高い。あなたはあの時、自分が何者になったのかも分かっていませんでした。外へ出る理由が必要だったのです」
「それで、楽園」
「ええ」
リテュシアは頷いた。
「分かりやすく、否定しにくく、今すぐ動かすには十分でした」
合理だけを並べた言い方だった。そこに余計な飾りはない。だがそれだけに、むしろ彼女らしい。
シロウは自分の爪を見たまま、小さく言う。
「あなたのためでもあったんですよね」
「はい」
そこも否定しない。
「わたしも一人では危険でした。王国へ戻る気はありませんでしたし、戻ればまた別の形で使われるだけです。迷宮から脱出するには、あなたを動かすのが最も確実でした」
シロウは少しだけ苦く笑う。
「ですよね」
あまりにも筋が通っていて、逆に怒りにくい。あの時の自分は、本当にひどい状態だった。迷宮の外がどうなっているのかも知らず、見た目のせいで外へ出ることすら怖がっていた。その自分を動かすには、ああいう言葉が必要だったのだろう。
理屈では分かる。
分かるが、胸の奥に何かが引っかかるのも事実だった。
シロウは顔を上げた。
「今も」
喉が少し渇く。
「今も、利用してますか」
問いかけると、リテュシアはほんのわずかの間だけ黙った。
逃げるかもしれないと、どこかで思っていた。だが彼女は逃げなかった。
「しています」
即答だった。
シロウの肩がわずかに落ちる。
それを見ても、リテュシアは言葉を止めない。
「ですが」
そこで、声の温度が少しだけ変わった。
「最初と同じではありません」
シロウは目を上げる。
リテュシアはまっすぐこちらを見ていた。あの時の迷宮で、自分を値踏みするように見ていた目と同じようでいて、今は少し違う。
「最初は利益でした」
その言葉に、シロウは黙って耳を傾けるしかない。
「あなたは強く、利用価値があった。わたし一人では生きていくのが難しい状況だった。ですから、あなたを使うと決めました」
迷いなく言う。そこに恥じる色も飾る気配もない。
だが、そのあとに続いた一言が、部屋の空気を変えた。
「今は違います」
はっきりした声だった。
シロウは瞬きをする。
「利益だけであれば、もっと効率の良い選択を取っています」
リテュシアは静かに続ける。
「あなたは強い。ですが、賢く立ち回れるタイプではない。この世界の知識も、この世界の常識も足りない。性格も、疑うより先に信じる方です。その上、悪魔として強すぎる。隠れきれず、放っておけば人に狙われ、利用され、いずれ大きく壊れます」
シロウは反論しなかった。反論できない。全部その通りだと思ってしまったからだ。
「わたしも同じです」
リテュシアは自分の胸元へ指先を置く。
「美しいエルフであること。元奴隷であること。元生贄であること。力があっても、それだけで安全にはなりません。一人なら、また狙われます」
言葉は短いのに、その中に過去が詰まっているのが分かった。
「ですから最初は、互いの利益のためでした」
一拍。
「ですが、それだけであれば」
リテュシアの睫毛がわずかに伏せられる。
「もっと冷たく扱っています」
シロウは息を呑んだ。
「それをしていない時点で」
彼女は視線を戻す。
「……分かるでしょう」
部屋の中が静かになる。
シロウには、その続きを待つことしかできなかった。
リテュシアはそこで逃げなかった。目を逸らしもせず、自分の言葉を、自分で引き受けるように口にした。
「あなたに対して、情があります」
短い言葉だった。
だが、それだけで十分だった。
シロウの胸の奥で、さっきまで固く引っかかっていたものの形が変わる。消えたわけではない。嘘をつかれた事実も、最初は利用だったという現実も変わらない。けれど、その先に今の言葉が乗るだけで、全部の見え方が少し変わる。
「だから」
リテュシアは言った。
「これからも一緒にいられます」
それは恋の告白のような甘い響きではなかった。
もっと静かで、現実的で、だからこそ重い言葉だった。
シロウはすぐに返事ができなかった。膝の上で組んでいた手に力が入る。爪の先が布へ食い込む。怖さもある。嬉しさもある。うまく言葉にならない感情が胸の中で混ざり合っていた。
長い沈黙のあと、ようやく出た声は小さかった。
「……はい」
その一言に、リテュシアは目を細めるでもなく、ただ静かに待っていた。
シロウは続ける。
「ぼくも」
喉の奥が詰まる。
「一人じゃ無理です」
情けないくらい、そのままの本音だった。
「リテュシアさんがいないと」
言ってから、顔が少し熱くなる。だが今さら引っ込められない。リテュシアはそれを笑わなかった。
「ええ」
短く返す。
それだけで、妙に落ち着いた。
シロウは少しだけ肩の力を抜く。息を吸って、もう一つ、今度はちゃんと伝えるべきことを言った。
「信用してます」
部屋の空気がまた少し変わる。
リテュシアの目が、ほんのわずかに揺れたように見えた。大きな反応ではない。けれど、確かに何かが届いた顔だった。
「……そうですか」
返事は短い。
だが、その短さの中に、受け取った重みがあった。
シロウは少し笑う。泣きそうになるような重い空気ではない。ただ、胸の中で何かが少しずつ収まっていく感じがあった。
リテュシアはそこで、小さく息を吐いた。
「以前も言いましたが」
嫌な予感がした。さっきまでの空気が少しだけ違う方向へずれるのを、シロウは敏感に感じ取る。
「わたしは処女なので、その気になったら言ってください」
やはり言った。
シロウの動きが完全に止まる。
「い、いや……その」
言葉が出てこない。顔が熱い。耳まで熱い。さっきまでの真面目な空気をどうしてこう簡単にひっくり返せるのか。
だが、今回は完全には逃げなかった。
「……もっと、リテュシアさんのことを知ってから」
どうにかそれだけ言うと、リテュシアは否定しない。むしろ小さく頷いた。
「いきなりや無理矢理はいけませんよ」
淡々としている。だが、内容が内容なので落ち着かない。
「処女には色々準備がありますので」
シロウは勢いよく首を振った。
「そんな事しません!」
即答だった。
リテュシアは、その反応を見てほんのわずかに微笑んだ。
昼間、リードを引いた時に見せたものよりもう少しはっきりした、けれどやはり大きくはない笑みだった。
「ええ、信じています」
そう言ってから、何でもないように続ける。
「今日は一緒に眠りましょう」
シロウが固まる。
「い、一緒!?」
「ただ寝るだけです」
あまりにも平然としていた。逃げ道はない。
シロウは視線を泳がせ、寝台を見て、自分の体を見て、それからリテュシアを見る。寝台はそこまで大きくは無い。分かってはいた。分かってはいたが、改めて言葉にされると落ち着かない。
「でも、狭いですよ」
「狭いですね」
「ぼく、でかいですし」
「知っています」
「落ちたら」
「その時は起きます」
話にならない。だがリテュシアは本気でそう思っている顔だった。
シロウはしばらく迷った末、観念したように頷いた。
「……分かりました」
灯火を少し落とす。
部屋の明るさがやわらかく狭まり、窓の外の夜が少し近づく。研究室側から聞こえていた紙の音も、今はだいぶ遠い。ユーナはまだ起きているのだろうが、こちらへ入ってくる気配はない。
シロウが先に寝台の端へ腰を下ろし、そっと横になる。できるだけ壁際へ寄るが、体が大きすぎて限界がある。すぐあとにリテュシアも反対側から横になった。
やはり狭い。
少し距離を取ろうとしても、肩と腕のどこかが触れる。寝返りひとつでぶつかりそうだ。シロウは息の整え方すら分からなくなり、とりあえず浅く呼吸をすることしかできなかった。
隣にいる。
それだけで、妙に落ち着かない。
だが、嫌ではないことが余計に困る。
「……大丈夫ですか」
小さく聞くと、リテュシアは目を閉じたまま答えた。
「問題ありません」
短い返事。
それだけかと思った次の瞬間、彼女は静かに続けた。
「安心しています」
シロウは目を瞬いた。
こんな近い距離でその言葉を聞くと、さっきまでとは別の意味で胸が落ち着かなくなる。
「ぼくは、ちょっと緊張してます」
正直に言うと、リテュシアの唇がわずかに動いた気がした。
「そうでしょうね」
「否定しないんですね」
「する理由がありません」
それもそうかもしれない。
少し沈黙が落ちる。
窮屈な寝台。触れている腕の熱。布越しに伝わる体温。窓の外では、人の街の夜の音が遠くに鳴っている。迷宮の沈黙とは違う、生活のある夜だった。
シロウは天井を見つめたまま、小さく息を吐く。
「でも」
「何ですか」
「一人じゃないのは、やっぱり、いいですね」
隣でリテュシアの気配が少しだけ動いた。顔を向けたのかもしれない。だがシロウはそちらを見なかった。見たらまた緊張しそうだったからだ。
「ええ」
返ってきた声は柔らかかった。
「わたしもそう思います」
その一言だけで、今日一日の全部が少し報われるような気がした。
楽園はなかった。最初の言葉は嘘だった。利用されてもいた。けれど、今この狭い寝台の上で、自分たちは同じ方を向いている。そう思えるだけで十分だった。
シロウはゆっくり目を閉じる。
窮屈だが、安心する。
隣にはリテュシアがいる。強くて、賢くて、怖い時もあるが、今は確かにここにいる。そして、自分と一緒にいる理由を、きちんと言葉にしてくれた。
夜は静かに更けていく。
利用から始まった関係が、別の形へ変わったのだと、今夜はもう疑わずにいられた。
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