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悪魔の花嫁 エルフの花婿 〜悪魔のぼくと美人なエルフのお姉さん〜【更新停止中】  作者: よるねこ


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第十七話 女王様なエルフにはムチがすごく似合った日の話

 朝、目を覚ました時、最初に感じたのは静けさだった。


 恐る恐る意識を浮かせるような目覚め方をしたせいで、しばらくは自分がどこにいるのかも曖昧だった。だが、薄い光の差す窓と、見慣れない天井板、それから向かいの寝台がもう空になっていることに気づくと、すぐに思い出す。


 ユーナの家だ。


 昨夜、屋根の上から見たあの重い気配は、結局それ以上こちらへ寄ってこなかった。遠ざかって、消えて、最後には夜の奥へ溶けるようにいなくなった。だから眠れた。眠れたのだが、すっきりした目覚めとはほど遠い。


 シロウは寝台の上で身体を起こし、目元を押さえた。


 少しだけだるい。だが、身体そのものが重いわけではない。寝不足の気配だけが頭の表面に薄く残っている。


 向かいの寝台はきちんと整えられていて、ついさっきまで人がいた痕跡だけがある。リテュシアはもう起きているらしい。扉の向こうから、かすかに食器の触れ合う音と、ユーナの声がした。


 そこまで聞こえたところで、シロウの腹がぐうと鳴る。


「……お腹減りました」


 呟いてから寝台を降りる。足を床へつけた瞬間、昨夜の気配を探すように無意識に神経が外へ向かったが、何も引っかからなかった。静かな朝の空気だけがある。そのことに少しだけ安堵しながら、シロウは顔を洗い、外套を羽織って部屋を出た。


 居間にはもう朝の匂いが満ちていた。


 焼いた穀物の香ばしさと、薄く煮た豆の匂い。昨日より少し軽い食事だが、温かいものが卓へ並んでいるだけで気持ちはまるで違う。ユーナは椅子へ半分座るような適当な格好で杯を傾けていて、リテュシアはその向かいにきちんと座っていた。


 シロウが顔を出すと、ユーナがちらりと見る。


「おはよう」


「おはようございます」


 返しながら席へ着く。リテュシアの視線が一瞬だけこちらへ向き、すぐに外れた。顔色や目の下でも見られたのだろうかと思ったが、何も言われない。


 シロウは焼いた生地を一口ちぎって食べ、そこでようやく少しだけ息をついた。


「……普通の朝ですね」


 ぽろりと出た言葉に、ユーナが笑う。


「何だと思ってたの」


「起きたら何か来てるとか」


「来てたら先に起こすよ」


「起こしてほしくないです」


「無理」


 即答だった。シロウは嫌そうな顔をしたが、嫌そうな顔をしながらも二口目を食べた。空腹の前では文句も少し弱くなる。


 食事はしばらく静かに進んだ。昨日の夜のことを誰もすぐには口にしない。その無頓着さがユーナらしく、その沈黙を気にしないのがリテュシアらしい。シロウだけが何となく落ち着かない気分で杯を持ち上げていた。


 その空気を崩したのは、やはりユーナだった。


「強化するよ」


 唐突だった。


 シロウは杯を持ったまま止まる。


「何をですか」


 ユーナは何でもない顔で豆を口へ運び、それから指先で向かいを示した。


「リテュシアちゃん」


 示された本人は特に驚く様子もなく、静かに水を飲んでから口を開いた。


「必要性はあるようですね」


 断定しきらない言い方だったが、拒否でもない。


 ユーナは頷く。


「昨日ので分かったでしょ。低級ならともかく、上が本当に来るならそのままじゃ足りない」


 シロウは思わず顔をしかめた。昨夜見ただけの相手を、もう前提として話している。昨日の今日で気持ちの切り替えが早すぎる。


「ぼくの気持ちは置いていくんですね」


「置いていくよ」


「置いていかないでください」


「でも必要なのは本当でしょ」


 そう返されると、強くは言い返せない。シロウが黙る横で、リテュシアは少しだけ考えるような間を置いたあと、静かに言った。


「制御できる範囲で」


「できるよ」


 ユーナの返事は軽い。だが、その軽さが逆に不安でもある。


 シロウは焼いた生地を皿へ戻し、ふたりを見比べた。


「嫌な予感しかしないんですけど」


「大体当たってると思う」


 ユーナが真顔で言うので、余計に良くない。


 食事を終えたあと、ユーナは器をさっさと片づけてから、居間の奥の扉へ向かった。研究室へ通じる扉だ。昨日来たばかりの時は、家と研究室がただ隣り合っているように感じたが、こうして生活の流れのまま歩いていくと、本当にひと続きなのだとよく分かる。


 扉が開くと、空気が変わる。


 居間に残っていた温かな匂いが薄れ、代わりに紙と金属と魔石の乾いた気配が鼻を打った。ユーナはそのまま研究室の奥へ進み、さらに階段を下りていく。


「地下もあるんですか」


 シロウが聞くと、ユーナは振り返りもせず答えた。


「あるよ。上で暴れられると困るから」


「もう嫌な気しかしないです」


「正常な反応」


 階段は石造りで、下りるほどに空気がひんやりしていく。地下の実験空間は思っていたより広かった。床も壁も固い石で組まれていて、壁際には頑丈そうな的板、割れた石片の入った籠、魔石を固定する台が並んでいる。訓練場とも処刑場ともつかない空気だった。


 シロウは入った瞬間に眉を寄せる。


「絶対にろくでもないことする場所じゃないですか」


「ろくでもないこと以外にも使うよ」


「信用できません」


 ユーナは笑いながら、棚の奥から細長い布包みと、小さな箱をひとつだけ持ってきた。


 それだけだ。


 シロウはその少なさに、逆に少しだけ気を抜く。


「……少ないですね」


「いきなりいくつもだと混乱するでしょ」


 ユーナは布包みを机へ置き、するりと紐を解いた。


 中から出てきたのは、銀色の細い腕輪だった。飾り気はほとんどない。中央に薄い青の石がひとつ埋め込まれている。


「これは防御用」


 単純だった。シロウはそこで少し安心する。何に使うのか分からないものより、最初からそう言われた方がずっとましだ。


 次に布包みの脇へ置かれた箱が開く。中に納まっていたのは、黒い柄を持つ短い棒だった。だがユーナがそれを持ち上げて魔力を流すと、先端から細い光の線がふっと伸びる。光はしなって揺れ、空気を裂くような音を立てた。


 鞭だ。


 ただの鞭ではない。魔力の量で長さも太さも変わるのか、ユーナが少し手首を返しただけで、光の線が長く伸び、次には短く収まった。


「こっちが攻撃用」


 シロウは思わず目を見開いた。


「……鞭なんですね」


「打撃も斬撃も拘束もできる。出力次第で変わるよ」


 ユーナは軽く振ってみせる。しなった光が石床を叩き、ぱちんと鋭い音が地下に響いた。見た目だけでも危ないと分かる。


 リテュシアがその柄を見つめる。


「扱いは難しいですか」


「慣れればそうでもない。リテュシアちゃんならいける」


 そう言って、ユーナはまず腕輪から先に付けた。左腕へ銀の輪がはまり、青い石が一瞬だけ淡く光る。


「受けてみて」


 ユーナは足元の石片を拾い、軽く放った。速くはない。だが狙いは正確だ。リテュシアの肩へ向かって飛ぶ。


 その瞬間、腕輪が鳴った。


 細い音と一緒に、肩の前へ薄い膜のような光が走る。石片はその光へぶつかって弾かれ、床を転がった。


 シロウは思わず目を見開く。


「今の……」


「防いだね」


 ユーナが満足そうに言う。リテュシアは自分の腕輪を見下ろし、肩へ手をやった。


「衝撃はあります」


「でも通ってないでしょ」


「そうですね」


 分かりやすい。読んだままの効果だ。


 次に、黒い柄がリテュシアへ渡される。彼女は右手で受け取り、軽く振って重さを確かめた。もうその持ち方が妙に板についている。


 シロウはそれを見て、つい本音を漏らした。


「なんか似合ってますね」


 一瞬、地下の空気が止まる。


 ユーナが吹き出した。


「それ言う?」


 リテュシアは柄を持ったまま、ゆっくりこちらを見た。怒ってはいない。だが、何とも言えない視線だ。シロウは遅れて自分の発言を振り返り、少しだけ肩をすくめる。


「いや、その……」


「似合うそうです」


 リテュシアの声はいつも通り平坦だった。


「違いました?」


「別に」


 否定もしない。そこがまた何とも言えない。


 ユーナはまだ笑っていたが、すぐに気を取り直して的板を指した。


「じゃあ打ってみて」


 リテュシアは頷き、軽く魔力を流した。黒い柄の先から伸びた光が、今度はさっきよりも厚みを増す。しなる線が空気を切り、次の瞬間には的板へ叩きつけられた。


 鋭い音が地下に響く。


 板の表面が深く抉れ、端が裂けた。


 シロウは思わず一歩引く。


「強い」


「まだ軽い方だよ」


 ユーナが言う。リテュシアはもう一度柄を握り直した。今度は魔力を少し増やす。光の線が細く長く変わり、打ちつけた瞬間、板の表面に走った筋がそのまま切り裂くように開いた。


 打撃ではなく、今度は斬ったのだと見て分かる。


 シロウは口を開けたまま固まる。


「今、切れましたよね」


「うん」


 ユーナが満足そうに頷く。


「出力で変わるから」


 リテュシアは柄を軽く捻り、今度は線を短くした。的板へ向けるのではなく、床の上の石片へ放つ。光が巻きつくように動き、石片を絡め取って持ち上げる。


 拘束までできるらしい。


「……全部できるんですね」


 シロウが呟くと、リテュシアは石片を落としてからこちらを見た。


「扱えそうです」


「それはそうでしょうけど」


 シロウはなおも目を離せない。強いし、危ないし、そして本当に似合っているのがまた何とも言えなかった。


 ユーナがそこでにやりとした。


「じゃあ次」


 嫌な予感しかしない声色だ。


 シロウは反射的に一歩下がる。


「嫌です」


「まだ何も言ってない」


「言う前から嫌です」


「試す」


「ほら!」


 ユーナが楽しそうに笑う。シロウは本気で顔をしかめた。


「やめてください。ぼくはいいです」


「よくないよ。確認しないと」


 そこでリテュシアが静かに口を挟む。


「安全性は?」


 止めるのではなく、そこを聞くのがこの人らしい。シロウはそちらを見て、ちょっとだけ複雑な顔になる。


 ユーナは悪びれず答えた。


「死なないよ」


「それ基準おかしいです!」


 シロウの声が地下に響いた。ユーナは笑い、リテュシアは無表情のままだ。


「軽くです」


 リテュシアが言う。


「軽くならまだましですけど……」


「では」


「何でそうなるんですか」


 結局、押し切られる形でシロウは地下の中央へ立たされた。認識阻害の首輪はいつも通り首についている。ユーナはそれをちらりと見て、特に問題にしない。


「まずは打撃で」


 リテュシアが鞭を構える。


 シロウは半歩だけ後ろへ下がったが、逃げ切れる気はしなかった。光の線がしなり、次の瞬間には腹の横を打った。


 ぱちん、と乾いた音が鳴る。


「っ……!」


 衝撃はある。かなりある。思わず息が詰まる程度にはちゃんと痛い。だが、それだけだった。服は揺れた。身体も少し横へずれる。けれど皮膚は裂けない。骨も何ともない。


 シロウはそこを押さえたまま目を見開く。


「今の、結構痛かったんですけど」


「跡は?」


 ユーナが聞く。シロウが服をめくって見ても、赤みすら薄い。すぐに消えてしまいそうな程度だった。


「……ないです」


「もう少し込めてみて」


 ユーナが楽しそうに言う。


「嫌です!」


 シロウは即座に返したが、ユーナは聞いていない。リテュシアは一瞬だけこちらを見る。止めるかと思いきや、静かに言った。


「もう少しだけ、です」


「リテュシアさんまで!」


「確認です」


 その声があまりに真面目なので、シロウは反論しきれない。リテュシアが柄へ込める魔力を少し増やす。光の線がさっきより太くなる。


 次に打たれた一撃は、明らかに重かった。


 衝撃が服越しに深く入って、シロウは思わず片膝をつく。息が漏れる。だが、それでも皮膚は裂けない。痛みだけが広がって、そこで終わる。


 地下に小さな沈黙が落ちた。


 ユーナの目が細くなる。


「やっぱり強すぎるね」


 シロウは腹を押さえたまま顔を上げる。


「褒められてる気がしません」


「実際、普通ならかなり強いよ」


 そこでリテュシアが鞭の先を少し細く絞った。出力を変えたのだと見て分かる。打撃用の太さではなく、今度は切るための線に近い。


 シロウの顔色が変わる。


「ちょっと待ってください。今、嫌な感じしました」


「斬撃を確認します」


「確認しなくていいです!」


 だが、もう遅い。光の線が横へ走る。


 シロウは反射的に腕を上げた。細い斬撃が袖を裂くように通り、布が裂ける。冷たい感触が肌の上を走る。鋭さはあった。だが、そこまでだ。皮膚は切れない。血も出ない。


 シロウは裂けた袖と、自分の腕とを何度も見比べた。


「……え?」


「切れていませんね」


 リテュシアが言う。


「そりゃそうでしょ。効かないんじゃなくて、シロウくんが強すぎるだけ」


 ユーナが笑う。笑うな、とシロウは思う。思うが、言い返す余裕がない。かなり強い魔道具を試されたのに、自分だけが妙な結果になっているのだから。


「こんな強いやつ、普通に使うんですよね……」


 半ば呆然として言うと、ユーナは肩をすくめた。


「普通には使わない。強いから」


 その返しの方が余計に嫌だった。


 シロウは地下の石床へ座り込むように腰を落とした。身体に大きなダメージはない。だが、心が少しへこんでいる。


「……何でぼく、こんなことされてるんでしょう」


 本音がぽろりと出る。ユーナはそこでようやく声を抑えた。


「確認はできたでしょ」


「できましたけど」


「価値あるよ」


「その言い方が嫌です」


 そこでリテュシアが近づいてきた。鞭の光はもう消している。柄だけになったそれを腰へ下げ、しゃがみ込む。視線の高さが近くなる。


「痛みはありますか」


「あります」


「ですが無傷です」


「それも嫌です」


「そうでしょうね」


 短い返事だったが、笑っていない。それだけで少しだけ救われる。


 リテュシアはシロウの裂けた袖を見てから、静かに続けた。


「魔道具が弱いわけではありません」


「……分かってます」


「かなり強力です」


「余計にへこみます」


「でしょうが」


 そこで一度言葉が切れる。リテュシアはごくわずかに目を細めた。


「それでも耐えています」


 淡々とした声なのに、妙にまっすぐだった。


「あなたが異常なだけです」


「慰めになってないです」


「事実です」


 確かにその通りだ。だからこそ変に優しい言葉よりましだった。シロウは深く息をつき、ようやく少しだけ肩の力を抜く。


 ユーナがその様子を見て、机へ寄りかかる。


「まあ、確認は終わり。これ以上やるとシロウくんの心が折れそうだし」


「今もだいぶ折れてます」


「立てるでしょ」


「それとこれとは別です」


 ユーナが笑い、地下の空気が少し軽くなる。


 しばらく魔道具の調整と付け直しが続いたあと、ユーナがふいに背伸びをした。


「一応、確認しとこうか」


 シロウは瞬きをする。


「何をですか」


「街中での感じ」


 ユーナはそう言って、リテュシアを見た。


「シロウくんが外でどれくらい落ち着いていられるか。ついでにご飯」


「ついでなんですね」


「大事だよ、ご飯」


 そこは否定しづらい。シロウが黙っていると、ユーナは壁の棚から細い革紐を持ってきた。


 その瞬間、シロウの顔が曇る。


「……やっぱりそれ出てきますよね」


「街中はね」


 言いながら、ユーナは首輪へ金具を引っかける。かちりと鳴るその音だけで、昨日の嫌な記憶が一気に蘇った。


「嫌なんですけど」


「その方が安全」


「毎回それです」


「毎回本当だから仕方ない」


 ユーナは紐を軽く引いて長さを確かめ、それをそのままリテュシアへ差し出した。リテュシアは何のためらいもなく受け取る。細い革紐が彼女の手へ収まるのを見て、シロウは深いため息をついた。


「……犬みたいなんですけど」


「そう見せてるんだよ」


 ユーナが言う。


「管理されてる方が、余計なやつが手を出しにくい」


「散歩されてる気分です」


 シロウがぼそりと文句を言うと、リテュシアは紐を持ったまま静かに答えた。


「安全なようですね」


「それは分かりますけど」


「なら問題ありません」


 即断である。


 シロウは肩を落とした。分かってはいるのだ。昨日の回収屋の視線を思い出せば、自由に歩かせるより、誰かの管理下にあるよう見せた方が面倒が少ないことは理解できる。理解できるから腹立たしい。


 地下から上がり、研究室を抜け、居住区側を通って玄関を出る直前、リテュシアが歩き出した。それに合わせて紐がわずかに張る。シロウは一歩遅れてついていき、すぐにそれが形としてかなり情けないことに気づいた。


「……ほんとに散歩です」


 前を向いたままぼやくと、リテュシアは返事をしなかった。


 代わりに、ほんの少しだけ紐が引かれる。


 大きくではない。ついて来いと示すだけの、ごく軽い力だった。シロウの身体がそれにつられて一歩前へ出る。


 そこでリテュシアの口元が、ごくわずかに動いた。


 笑った、と言うには小さすぎる。だが、硬い横顔がほんの少しだけ和らいだのを、シロウは見逃さなかった。


「……今ちょっと楽しんでません?」


 思わず言うと、リテュシアは前を向いたまま短く返した。


「別に」


「絶対そうじゃない顔でした」


「気のせいです」


 即答だ。だが、否定の速さが逆に怪しい。シロウは何とも言えない顔になり、その横でユーナが吹き出した。


「いいじゃん、管理されてる感じ出てるよ」


「うれしくないです」


 それでも、さっきの一瞬で屈辱の中に妙な軽さが混じった。ほんの少しだけだが。


 昼の街は朝よりずっと賑やかだった。露店の匂い、行き交う人の声、荷車の軋み。シロウは無意識に肩を固くしたが、喋らず、視線を泳がせすぎず、ただリテュシアの後ろを歩いているだけで、昨日のような刺さる視線は来ない。


 少し屈辱で、かなり助かる。


 その感情がやはり最悪だった。


 しばらく黙って歩いていたシロウへ、ユーナが横から声をかける。


「あと街では、あんまり喋らないでね」


 シロウは反射的に顔を向けかけて、すぐに前へ戻した。リードがあるので動きまで変に見える。


「……何でですか」


「話せる時点で価値あるから」


 ユーナの口調は軽い。だが内容は軽くない。


「珍しいよ。知性のある悪魔なんて。見つかったら面倒なのが寄る」


「面倒なのって」


「研究者とか」


 即答だった。


 シロウはまた嫌そうな顔になる。


「昨日ので十分なんですけど」


「昨日のより多いかも」


「やめてください」


「だから喋らない方がいいの」


 そこでリテュシアが静かに補った。


「最低限に留めた方が良さそうですね」


 その言い方は、見たものから判断している響きだった。断定しないが、否定もしない。シロウは小さく頷くしかない。


「……はい」


 街を歩きながら、何度か人とすれ違う。中にはこちらをちらりと見る者もいたが、やはりそこで終わる。シロウが黙っているせいもあるのだろう。言葉を発しない限り、少し変わった実験体で済む。そういう扱いに納得してしまう自分も嫌だった。


 ユーナが連れていった店は、大通りから少し外れた、石壁の落ち着いた店だった。昼時は少し過ぎているのに、客はまだ何組かいる。騒がしすぎず、静かすぎず、話し声と食器の触れ合う音が程よく混じっている。


 店へ入る前に、ユーナがシロウの首元へ手を伸ばした。


「中では少し緩める」


「外していいんですか」


「完全にはダメだね」


 留め具を少しずらし、革紐の長さが緩む。完全に自由ではないが、さっきまでよりずっとましだ。シロウはその差だけで少し楽になるのを感じた。


 席へ着くと、ユーナが適当に料理を頼む。シロウはできるだけ口を閉じていたが、店の匂いに釣られてどうしても気になってしまう。


「……何があるんですか」


 小声で問うと、ユーナは肩をすくめた。


「喋ったね」


 シロウはぎくりとする。


「小さかったですよ」


「分かってる。これくらいなら平気」


 そう言ってから、皿に出てくる料理のことを簡単に教えてくれた。焼いた肉と根菜の煮込み、それから薄い生地の包み焼きらしい。聞いているだけで腹が鳴りそうになる。


 リテュシアはそのやり取りを見ながら、自然に間へ入るように会話を引き取る。店の人間が近くに来ると、注文も追加もほとんど彼女が受けていた。シロウはそれに黙って従う。今の自分が不用意に話すべきではないと分かっているからだ。


 料理が運ばれてくると、店の中の空気が少しだけ優しくなる気がした。温かい匂いはそれだけで強い。


 シロウは一口食べて、思わず目を瞬いた。


「……おいしいです」


 小さな声で零すと、ユーナが笑う。


「でしょ」


「話してる」


「いまのはいいの」


 基準が曖昧だと思ったが、うまいものを前にすると細かい文句を言う気力が少し減る。肉は香ばしく、煮込みは味が深い。包み焼きの中には刻んだ菜と柔らかい肉が入っていて、噛むと汁が広がった。


 昼の店内には普通の客たちがいて、普通に食べて、普通に話している。その中で自分もこうして食事をしているのが、不思議なほど穏やかに感じられた。


「少しは元気になりましたか」


 リテュシアが静かに聞く。


 シロウは包み焼きを持ったまま、少し考えてから頷く。


「ちょっとだけ」


「なら良かったです」


 短い返事だったが、その声だけでだいぶ落ち着く。


 ユーナは横から杯を傾けながら言う。


「怖がりのわりに、今日はちゃんと街歩けてるね」


「リードのおかげです」


「それ助かってるって意味?」


「悔しいですけど」


 ユーナが吹き出し、リテュシアは何も言わないまま食事を続ける。その横顔はいつも通りだ。だが机の下で紐を持つ手は、妙に安定している。


 ふと、シロウはその手元を見た。黒い紐が指に軽く巻き取られ、必要以上に余らない長さで保たれている。あまりに自然すぎて、余計に何とも言えない気持ちになる。


 食事の時間が進むにつれ、店内の空気に少しずつ馴染んでいく。完全に気を抜けるわけではない。それでも、昨夜のような重さに比べれば、温かい食事の湯気は十分ありがたかった。


 ふと、シロウは窓の外へ目を向けた。


 通りを人が行き交っている。荷車が過ぎ、子どもが走り、店の看板が風に揺れる。平和だ。見た目だけなら、本当にただの街の昼だ。


 その光景を見ながら、無意識に何かを探していたのだと、自分で気づく。昨夜のような重い気配がどこかにないか。外の空気が急に変わっていないか。


 リテュシアはその視線に気づいたらしい。杯を置き、静かに言う。


「大丈夫です」


 シロウは窓から目を離し、彼女を見る。


「……分かるんですか」


「いまは何もありません」


 言い切るのではなく、目の前の状況をそのまま示すような声音だった。けれど、そのあとに続いた言葉ははっきりしている。


「私がいます」


 同じ言葉だった。


 昼でも、夜でも、場所が変わっても、そこだけは揺らがない。


 シロウは少しだけ肩の力を抜いて、包み焼きの残りを口へ運んだ。


「……はい」


 店の外では、まだ平和な昼が続いている。


 完全に安心できるわけではない。昨夜のことも、地下での実験も、全部消えたわけではない。けれど、温かい食事と、机の下でゆるく足元へ垂れている革紐と、その先を持つ手の存在だけで、今日は少しだけましだった。


 街は相変わらず危険で、面倒で、落ち着かない。


 それでも、そんな街の真ん中で食事をしている自分は、昨日の朝よりはほんの少しだけ、この場所に足をつけている気がした。

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