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悪魔の花嫁 エルフの花婿 〜悪魔のぼくと美人なエルフのお姉さん〜【更新停止中】  作者: よるねこ


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第十六話 強い気配に引き寄せられ、危険に踏み込んだ日の話

 夕食のあと、家の中はゆっくり静かになっていった。


 昼に使った器はもう洗われて、流し台の脇に伏せられている。鍋の名残の匂いも薄れ、窓の外には夜の色が少しずつ溜まり始めていた。研究室側からは、まだ紙をめくる音や金具の触れ合う小さな音が時々聞こえてくる。だが壁一枚隔てるだけで、それも遠い。


 居間の卓の上では、灯火がひとつ、狭い輪のような明るさを作っていた。


 シロウはしばらくその火を見ていた。


 明るすぎない炎は、気を抜けばすぐ揺れる。揺れて、戻って、また揺れる。それを見ている間だけは、首元に残る嫌な感触や、今日一日で起きたことの重さを少しだけ脇へ追いやれた。


 けれど、考えないまま眠れるほど、気持ちは落ち着いていない。


 部屋へ戻ってから、裂けた外套は壁際へ畳んで置いた。あの低級悪魔の爪は確かに自分へ届いていたし、石壁へ叩きつけられた衝撃もまだ身体が覚えている。痛かった。怖かった。なのに傷はなく、血も出なかった。その事実だけが、布の裂け目を見れば見るほど気味悪く浮き上がる。


 向かいの寝台では、リテュシアがもう横になっていた。灯りの届く範囲から半分ほど外れていて、顔の輪郭も柔らかく暗い。それでも寝息は聞こえない。起きているのだろう。


 窓の外で風が鳴る。


 その音に紛れるように、シロウは小さく声を出した。


「……起きてますか」


 すぐに返事が来る。


「起きています」


 それだけで、部屋の静けさの質が少し変わる。完全にひとりではないと分かるだけで、夜の広さが少しだけ狭まるような感覚があった。


 シロウは寝台の上で仰向けになったまま、天井を見つめる。


「眠れないんです」


「そうでしょうね」


 あっさり言われて、シロウは少しだけ苦笑した。


「否定しないんですね」


「今日だけで色々ありすぎました」


「それは……そうです」


 灯りの色が天井の木目に薄く落ちる。宿の部屋とも違う、研究室とも違う、自分の家でもない部屋だ。まだ慣れていないはずなのに、その違和感の中へ、昼からずっと別のものが混ざっている。


 首輪へ繋がれた革紐の感触だ。


 リテュシアの手にその紐が渡った瞬間の、喉元へ乗った重さが、まだ消えきっていない。必要な偽装だったのだろうと頭では分かる。分かるからこそ、簡単に忘れられない。


 シロウはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。


「ぼく、ああいうふうに見られてるんですね」


 炎が小さく揺れる。リテュシアは少しだけ間を置いてから、言葉を選ぶように返した。


「先ほどの様子を見る限り、この街ではそういう扱いもあるようですね」


 断言ではない。見たものだけを置くような言い方だった。それでも十分だった。見たのは自分も同じだ。


「実験体とか、躾とか」


「そういう言葉を自然に使う相手がいるようです」


「嫌ですね」


「はい」


 否定も慰めもない短い返事なのに、だからこそ変に軽くならない。


 シロウは片腕を目の上へ乗せた。視界が暗くなる。暗くなると、男たちの目と声だけがよけいにはっきり思い出された。きちんと躾けている。暴れないなら上出来。使い道もある。どれも淡々とした言い方で、だからこそ嫌だった。


「ぼく、ちゃんと人に見えてるんでしょうか」


 自分でも弱い問いだと思った。けれど夜の静けさの中では、そのくらいの言葉しか出てこない。


 リテュシアはすぐには答えなかった。どう返すかを考える沈黙があってから、静かな声が落ちてくる。


「少なくとも、私はそう見ています」


 シロウは腕をどけて横を向いた。


「少なくとも、ですか」


「この街の全員がどう考えているかまでは分かりません。ですが」


 そこで一度言葉が切れ、続く声は少しだけ低くなった。


「どう見られるかより、どう扱うかです」


「扱う……」


「はい」


 淡々とした調子のまま、けれどその一言だけが妙に重い。


 シロウが目を向けると、リテュシアもこちらを見ていた。灯りの輪の外に半ば沈んでいるのに、目だけははっきりしている。


「あなたは私が管理します」


 静かな声だった。


 強くもなく、脅すようでもない。ただ決まったことを告げるような言い方だった。


 シロウは目を瞬いた。


「……管理、ですか」


「はい。その方が安全です」


「ぼくにとっても、ですか」


「私にとっても」


 返ってきた答えに、迷いはなかった。


 優しく包むような言い方ではない。守ると言い切るのとも少し違う。けれど妙に落ち着くのは、そこに曖昧さがないからかもしれないとシロウは思った。


 何となく喉が渇いて、寝台から起き上がる。卓の上の水差しから杯へ水を注ぎ、口をつけた。冷たい水が喉を落ちていく。その間も、部屋の静けさは崩れない。


 杯を戻してから、シロウはもう一度言った。


「正直、怖いです」


 それは今日一日のことでもあり、この街のことでもあり、自分の身体のことでもある。どれかひとつではない。


 リテュシアの声が、すぐに返る。


「大丈夫です」


 シロウは無意識にそちらを見る。


 一拍。


「私がいます」


 それだけだった。


 短い。けれど、その短さの中に揺らぎがない。大丈夫だと思い込ませるための言葉ではなく、そうすると決めている人間の言葉だった。


 シロウはすぐには返事ができなかった。胸の奥に溜まっていたざわつきが、その一言だけで全部消えるわけではない。けれど、形が少し変わる。怖さがなくなるのではなく、とりあえず立っていられる場所ができるような感覚だった。


「……はい」


 やっと出た返事は、我ながら情けないほど素直だった。


 リテュシアはそれ以上言葉を重ねない。余計なものを足さないところも、この人らしい。


 沈黙が戻る。だが、さっきまでの沈黙とは少し違っていた。


 シロウが寝台へ戻ると、リテュシアの視線が一瞬だけこちらへ留まる。その目は優しいというより、確かめるような目だった。昼の戦いのあとから、時々その視線を感じる。傷がないか、呼吸は乱れていないか、疲れはどうか。そういうものを見ている目だ。


 灯りが揺れ、影が頬へ落ちる。


 リテュシアはごく小さく、ほとんど独り言のように呟いた。


「……想定以上です」


 シロウが聞き返すより先に、彼女は目を閉じた。


 想定以上。


 その言葉だけが、妙に残る。


 シロウも寝具へ身体を沈めた。疲れていないわけではない。むしろ昼から今まで、ずっと気を張りっぱなしだった。それでも頭だけは妙に冴えている。眠りへ落ちるまで時間がかかるだろうと思っていた。


 だから、自分がいつの間にかうとうとしていたことに気づくのが少し遅れた。


 ふと、目が開く。


 何かの音を聞いたわけではない。夢を見たわけでもない。ただ、目が覚めた。そうとしか言えない起き方だった。


 部屋は暗い。卓の灯りはもう消えていて、窓の外から差し込む月明かりだけが床へ薄く落ちている。向かいの寝台にはリテュシアの影がある。


 そこで、胸の奥がすうっと冷える。


 昼の低級悪魔の時とも違う。


 回収屋が来た時とも違う。


 もっと遠く、もっと重いものが、夜のどこかにいる。


 空気そのものが厚くなったような感覚だった。耳ではなく、背骨の奥で何かを感じる。嫌だ、と本能が先に言う。


 シロウは寝台の上で身を起こした。


「……」


 声にならない息が漏れる。


 それだけで、向こうの寝台から気配が動いた。


「どうしました」


 リテュシアの声は低く、はっきりしていた。眠っていない。あるいは、すぐ起きられるようにしていたのだろう。


 シロウは窓の方を見たまま、どうにか言葉を探す。


「外……」


「何かいますか」


「分かりません。でも」


 喉が乾く。


「何か、います」


 言いながら、自分でもそれが確信に近いと分かった。姿を見たわけではない。だが、昼に低級悪魔を感じた時と同じ種類の感覚が、もっとはっきり、もっと重く、身体の深いところを掴んでくる。


 リテュシアはすぐに起き上がった。寝具の擦れる音だけが小さく響く。彼女は窓の方へ目を向け、それから一瞬だけシロウを見る。


「行けますか」


「行きたくはないです」


「そうでしょうね」


 その返しのあとで、彼女は静かに続けた。


「ですが、確認は必要です」


 止められない。そういう声だった。


 ふたりで部屋を出る。廊下は暗く、壁の向こうの研究室からだけ薄い灯りが漏れている。そこへ近づく前に、扉が内側から開いた。


 ユーナがいた。


 外套を羽織り直し、首や手首の魔道具をいくつか戻している最中だったらしい。金具が小さく鳴る。髪は少し乱れているが、目は完全に起きていた。


「気付いた?」


 それはシロウへ向けた問いだった。


 シロウは小さく頷く。


「はい……」


 ユーナの口元が上がる。


「いいね」


「よくないです」


「そう?」


「全然」


 夜中に得体の知れないものへ気づけてしまうことのどこがいいのか。だがユーナは気にした様子もなく、廊下の先を見やった。


「たぶん、上」


 シロウの背筋が強ばる。


「……上」


「断定はできないけどね」


 そこでリテュシアが口を挟む。


「何故、来ているのでしょう」


 ユーナはすぐには答えなかった。壁へ寄り、手首の腕輪を指先で軽く叩く。考えている時の癖なのかもしれない。


「分からない」


 その返事に、シロウは少しだけ救われる。全部知っているわけではないらしい。


 ユーナは視線を上げた。


「この辺、もともと魔力は溜まりやすい。低級が寄るのは別におかしくない」


「でも、今回は違う」


 リテュシアが静かに言う。


「そう」


 ユーナは頷いた。


「タイミングが良すぎる」


 そこで彼女の視線がシロウへ向く。月明かりの届かない廊下の中で、その目だけが妙に光を持っていた。


「……関係あるかもね」


 シロウは息をのむ。


「ぼくですか?」


「かも、だよ」


 断定しない。だが否定もしない。その曖昧さがかえって怖い。


 リテュシアは少し考えるように沈黙してから、低く言う。


「偶然ではない可能性があるようですね」


「あるかも」


 ユーナは軽く返し、そのまま扉の方へ顎をしゃくった。


「外、見に行く」


「戦うんですか」


 シロウの問いに、ユーナは首を横に振る。


「まだやらない」


 その返事だけは、少しだけ安心できた。


 家を出ると、夜の空気は思ったより冷たかった。昼の熱は石畳からもう抜けていて、靴裏にひんやりした感触が伝わる。研究区画の一角らしく、周囲の建物はどれも背が高い。灯りの落ちた窓も多いが、完全に寝静まったという感じではない。遠くで何かを打つ音が一度だけ響き、それきり止む。


 ユーナは迷いなく建物の裏手へ回った。石壁の横に積まれた箱を足場にして、低い屋根へ先に上がる。動きが妙に軽い。


 リテュシアも後に続く。


 シロウは箱に足をかけず、そのまま腕を伸ばした。自分の背丈なら届く。縁を掴んで身体を引き上げると、石の冷たさが掌に伝わった。


 屋根の上は風が強い。月が高く、魔道都市の輪郭を青白く照らしている。ここからなら街の端の方まで見えた。石造りの建物の群れ、その向こうの暗がり、さらに先の、灯りの届かない外縁。


 ユーナが低く言う。


「向こう」


 指した先は、街の外れよりさらに少し外だった。崩れた石の影がまだらに広がり、その向こうに夜が濃く溜まっている。


 最初、シロウには何も見えなかった。


 なのに、いると分かる。


 視界の端で見えるわけではない。形が見えているわけでもない。ただそこにある。夜の景色の中へ、別の重さが沈んでいる。低級悪魔の時は、濁った水たまりのようだった。いま遠くにいるものは違う。もっと深い。もっと底が見えない。近づけば飲み込まれると、本能が最初から知っているような気配だった。


 シロウは知らないうちに一歩退いていた。


「……無理です」


 正直な言葉しか出ない。


 ユーナはその反応に頷いた。


「だよね」


 軽く言うが、視線は遠くから外さない。面白がっているだけではない。測っている。距離と、気配と、こちらの反応を。


 リテュシアはすぐに結論を出した。


「戦闘は避けるべきです」


 その声は低く、迷いがない。ユーナも今回はすぐに同意した。


「うん。いまは無理」


 その言葉を聞いても安心はしなかった。遠いはずの暗がりが、じわじわこちらへ近づいてくるような錯覚がある。シロウは視線を切れないまま唇を噛んだ。


 低級悪魔の時にはなかった感覚だ。怖いというより、身体が拒否している。立っているだけで、背中の内側を冷たい刃でなぞられるような寒気が走る。


「見えてるんですか」


 シロウが絞るように聞くと、ユーナは小さく首を振る。


「はっきりはね。でも、いる」


 その言葉とほとんど同時だった。


 暗がりの中の何かが、こちらを向いた。


 目が合ったわけではない。距離もある。姿も見えない。それでも、確かに向いたと分かった。夜の重さが、ぴたりとこちらへ揃う。


 シロウの身体が固まる。


 息をすることすら一瞬遅れた。


「……っ」


 声にならない。


 ユーナの口元から、笑いではない短い息が漏れる。


「見られた」


 リテュシアがすぐに動いた。シロウの前へ半歩だけ出る。守るようでもあり、遮るようでもある位置だった。


「戻ります」


 即断だった。


 ユーナも反対しない。反対しないどころか、もう屋根の縁へ向かっている。シロウは遅れて足を動かした。逃げるわけではない。だが、あの暗がりへ背を向けるだけで心臓が嫌な音を立てた。


 屋根から降り、家の前まで戻っても、あの気配はまだ遠くにあった。重く、夜の奥に沈んだまま、確かにそこにいる。玄関を開ける前に、シロウは思わず振り返る。


 暗がりは何も語らない。


 だが、立ち止まって見ていると、ほんのわずかに空気が変わるのが分かった。


「……あれ」


 シロウが低く言うと、ユーナも足を止める。


「どうしたの」


「遠ざかってる、気がします」


 自分でも曖昧な言い方になる。けれど、さっきまで背骨へ直接触れてくるようだった重さが、少しだけ薄い。風の向きが変わっただけではない。夜の奥へ、重い塊がじわじわ引いていくような感覚がある。


 リテュシアも空の向こうを見たが、彼女にははっきりまでは掴めないのだろう。すぐにシロウへ視線を戻した。


「分かるのですか」


「……少しだけ。でも」


 シロウは眉を寄せる。


「離れていってます」


 ユーナはそこで初めて、少しだけ長く息を吐いた。


「なら助かった」


 軽い口調だが、その言葉には本音が混じっていた。彼女も、あのまま近づかれるのは避けたかったのだろう。


 シロウはなおも気配を追う。重さはゆっくり、だが確かに後退していた。こちらへ向けられていた意識が薄れ、夜の奥へ沈んでいく。完全に消えたわけではない。だが、さっきまでのように肌を刺す圧はもうない。


 しばらくそのまま立っていると、最後にはその感覚も途切れた。


 何かが夜の向こうへ溶けるように消えていく。


 シロウはようやく肩の力を抜いた。


「……いなくなりました」


「完全に?」


 ユーナが問う。


「分かりません。でも、もうこっちは見てないです」


 その答えに、ユーナとリテュシアが顔を見合わせる。ごく短い視線のやり取りだったが、それで十分だったらしい。


「中に入りましょう」


 リテュシアが言う。


 玄関を閉めた途端、家の中の空気がやけに暖かく感じた。壁と屋根があるだけで、夜の圧が一段遠くなる。


 居間へ戻ると、ユーナは窓へ寄って外を一瞥した。それから腕を組み、振り返る。


「……あれが上」


 シロウはまだ喉が強ばっていて、すぐには返事ができない。どうにか声を絞り出す。


「低級と、全然違います」


「でしょ」


 軽く言うが、冗談の余地はなかった。


 リテュシアは扉の近くに立ったまま、夜の方を一度だけ見てから目を戻す。


「現時点では、不用意に接触するべきではないように見えます」


「同意」


 ユーナは即答した。


 その返事に、シロウは少しだけ意外さを覚える。昼間なら何でも見に行きそうな顔をしていたのに、今は線を引いている。相手の格が違うのだと、その反応だけでも十分に伝わった。


 しばらく重い沈黙が部屋に落ちる。


 シロウは自分の手を見下ろした。昼には低級悪魔を叩き潰した手だ。傷もなく、血もついていない。なのに、さっき屋根の上で感じたものの前では、この手が急に頼りないものに思えた。


「……ぼく、あれにも勝てるんでしょうか」


 考えるより先に言葉が漏れた。


 ユーナはすぐに答えなかった。面白がるようにではなく、静かにシロウを見る。昼間より少しだけ慎重な目だった。


「分からない」


 正直な返事だ。


「低級相手みたいにはいかないと思う」


 シロウは唇を結ぶ。その横で、リテュシアが一歩だけ前へ出た。ユーナとシロウの間へ割り込むほどではない。だが、視線の流れを切るには十分な位置だ。


「過剰な干渉は控えてください」


 静かな声で言う。


 ユーナは眉を上げた。


「今のどこが過剰なの」


「これ以上です」


「まだ何もしてないよ」


「これからするつもりの顔です」


 その言葉に、ユーナはふっと笑った。否定しないところがこの女らしい。


「はいはい」


 軽く流すような返事だ。だが、その返事で十分だった。少なくとも今は、それ以上押してこない。


 シロウはそのやり取りを見て、少しだけ肩の力を抜いた。完全に安心したわけではない。ただ、さっき屋根の上で立ち尽くすしかなかった時よりは、足場がある気がする。


 リテュシアがこちらを見た。


「大丈夫です」


 さっき部屋で聞いたのと同じ言葉だった。


「いまはまだ、無理をする段階ではありません」


「……はい」


 シロウは小さく頷く。さっきの気配を思い出すだけで、背筋の奥が冷える。それでも、この人がそう言うなら、今すぐ外へ引きずり出されることはないのだろうと思えた。


 ユーナは窓辺から離れ、卓へ指先をつく。


「でも、そのうちやるよ」


 空気が一瞬で変わる。


 シロウは間髪入れずに言った。


「やめてください」


 今度はユーナが吹き出した。


「早いなあ」


「早くないです。あれ見たあとで普通に言わないでください」


「普通だよ」


「普通じゃないです」


 シロウが本気で嫌そうな顔をすると、ユーナは肩を震わせながらもどこか満足そうだった。怖がる相手を見て喜んでいるというより、反応が正しく返ってきたことに納得している顔だ。


「今はまだ観察だけ。そこは本当」


「今は、ですよね」


「今は、だね」


「嫌なんですけど」


「知ってる」


 知っていて言うのだからたちが悪い。


 リテュシアはその会話を止めず、ただシロウの様子を見ていた。昼とは違う疲れが顔に出ている。呼吸は落ち着いているが、目の奥の緊張がまだ抜けきっていない。怖がっている。だが、それだけではない。さっきの問いの中には、ただ逃げたいだけではない何かもあった。


 勝てるのか。


 あの言葉を向けられる程度には、シロウはすでに次を見ている。


 リテュシアはそのことを静かに認識する。そして同時に、昼の低級悪魔相手で見せた異常な耐久を思い出した。想定以上。あれは間違いではない。守る価値も、管理する意味も、昼よりさらに増している。


 彼女はそれを口には出さない。代わりに、短く言う。


「休みましょう」


 シロウが顔を向ける。


「眠れる気がしません」


「それでも横になるべきです」


「そうですけど」


「私が見ています」


 また断定だ。街のことは推測で話すのに、自分のことになると迷いがない。その差が妙にありがたかった。


 ユーナが手をひらひらさせる。


「じゃあ私は記録続けるから。何かあったら呼ぶ」


「何かあってほしくないです」


「分かる」


 分かると言いながら、まるで分かっていない顔で研究室側へ戻っていく。扉が閉まり、ほどなくして紙をめくる音がまた始まった。


 残されたふたりは部屋へ戻る。


 寝台へ横になっても、さっき屋根の上で感じた重さはしばらく消えなかった。暗がりがこちらを向いた瞬間の、あの嫌な感覚だけがはっきり残っている。


 けれど、あの気配はもうこちらを見ていない。


 遠ざかって、消えた。


 その事実があるだけで、恐怖は少しだけ形を変える。今すぐ扉を破って来るものではないと思えるだけで、夜の重さは違った。


 同じ部屋の中にはリテュシアがいる。


 寝具の擦れる小さな音がして、彼女が横になる気配がした。完全な静けさの中に、かすかに人のいる気配が混じる。そのことだけで、恐怖が少しだけ遠のく。


「……リテュシアさん」


「何ですか」


「さっきの、ほんとに大丈夫なんですか」


 返事はすぐに来た。


「大丈夫です」


 一拍。


「私がいます」


 同じ言葉だった。昼にも、さっきにも聞いた。繰り返しなのに、適当には聞こえない。言うたびに引き受けるものが増えているような声だった。


 シロウは薄暗い天井を見つめたまま、小さく息を吐く。


「……分かりました」


 完全に安心したわけではない。できるはずもない。外にはまだ、何が起きるか分からない夜が広がっている。あの上位存在が何故来たのかも、何を見たのかも、まだ分からない。


 けれど今夜は、とりあえず目を閉じられる気がした。


 壁の向こうでは、ユーナがまだ紙へ何かを書き続けている。部屋の中では、リテュシアの気配が動かないままそこにある。夜は深く、静かで、昼とは違う種類の恐怖だけが薄く残っていた。


 その恐怖を消しきれないまま、それでもシロウはゆっくり目を閉じた。

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