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悪魔の花嫁 エルフの花婿 〜悪魔のぼくと美人なエルフのお姉さん〜【更新停止中】  作者: よるねこ


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第十五話 魔導都市での悪魔の扱いを知ってしまった日の話

 裂けた外套を椅子の背へ掛けたあとも、シロウはしばらくその前に立ったままだった。


 布の裂け目は胸元から脇へかけて大きく走っている。爪が通った跡だ。あの低級悪魔の爪先は確かに自分へ届いていたし、ぶつかった衝撃も、石壁へ叩きつけられた硬さも、いまでも身体が覚えている。痛くなかったわけではない。怖くなかったわけでもない。むしろ逆で、怖さだけならまだ喉の奥に残っていた。


 なのに、布の下には何もない。


 シロウは胸元へ手を伸ばし、服を少し開いて自分の肌を見た。傷どころか赤みもない。肩や腕もたどってみる。どこにも裂けたところがない。


「……やっぱりおかしいです」


 半分ほど独り言のつもりで言ったのに、返事はすぐ後ろから来た。


「そうですね」


 リテュシアは卓の横に立ち、ほどいた荷の位置を整えていた。いつも通り静かな声だ。肯定されると、それはそれで落ち着かない。シロウは振り返り、少しだけ情けない顔になる。


「もっとこう、大丈夫ですとか、気のせいですとか、ありませんか」


「ありません」


「そうですか……」


 即答だった。


 壁の向こうから、紙をめくる乾いた音が続いている。帰ってきてからずっと、ユーナは研究室側に籠もったままだ。扉を閉めたまま何かを書きつけ、時々引き出しを開け、硬いものを机へ置く音を立てている。たぶん、さっきの低級悪魔のことを書いているのだろう。シロウのことも。


 そう思っただけで、また落ち着かなくなる。


 リテュシアは棚へ布を収めてから、ようやくこちらを見た。


「気になるなら確認しますか」


「確認って」


「本当に傷がつかないのか」


 その言い方に、シロウは眉をひそめる。


「いや、もう十分確認できてませんか」


「戦闘中だけの可能性があります」


「それは」


「否定できますか」


 否定できない。できないのが嫌だった。シロウが口を閉じていると、壁の向こうで椅子が引かれる音がした。ほどなくして研究室側の扉が開き、ユーナがこちらへ顔を出す。


「やっぱり気になる?」


 話を聞いていたらしい。シロウは少しだけ肩を落とした。


「気になりますよ」


「だよね」


 そう言って中へ入ってくる。さっきまで外で鳴っていた魔道具の音は少し減っていたが、それでも首や手首にはまだいくつも下がっている。全部外したわけではないらしい。歩くたびに小さく金具が鳴る。


 ユーナはシロウの前へ来ると、裂けた外套をちらりと見て、それから本人の腕へ視線を落とした。


「ちょっと見るよ」


「見るって」


 返事を待たずに手首を取られる。指先は細いのに妙に迷いがない。手の甲から前腕へ、骨の位置を確かめるように押され、つままれ、シロウは思わず顔をしかめた。


「痛いです」


「痛覚はあるんだ」


「ありますよ」


「へえ」


 面白そうに言って、ユーナはそのまま袖をまくる。白い肌が昼の光を受けて出る。そこへ彼女は自分の腰から細い針のようなものを抜いた。飾りにも見えるほど小さいが、先端だけは鈍く光っている。


 シロウの背中がぴくりとした。


「何ですか、それ」


「ちょっとだけ」


「その言い方で安心できたことがないんですけど」


「今回は本当にちょっとだけ」


 言いながら、ユーナは針先をシロウの腕へ当てた。浅く。皮を試すような力で押す。


 シロウは息を止める。


 痛みはある。針が触れた感覚もある。けれど、それだけだ。皮膚はへこみもしない。針先が止まったところだけが白くなって、すぐ元へ戻る。


「……あれ?」


 思わず自分から腕を持ち上げて見てしまう。刺さっていない。穴も開いていない。血もない。


 ユーナは眉を上げた。


「やっぱり常時だ」


 今度は角度を変え、少しだけ強く押す。それでも結果は同じだった。シロウは見ていられず、思わず手を引く。


「待ってください、何なんですかこれ」


「こっちが聞きたい」


 ユーナは本気でそう思っていそうな顔で言う。針を指先でくるりと回してから腰へ戻し、代わりに手のひらでシロウの腕を軽く叩いた。乾いた音がする。感触はある。だがやはり痣も残らない。


 リテュシアが静かに口を開く。


「常時ですか」


「たぶんね」


 ユーナの目が細くなる。観察する目だ。研究室で机へ向かっていた時の目より、もう少し生の興味がある。


「面白い」


「面白くないです」


 シロウはすぐに言い返した。自分の身体に起きていることを面白いで済まされるのは、さすがに落ち着かない。ユーナは肩をすくめる。


「わたしにとっては面白いよ。君にとっては嫌だろうけど」


「嫌です」


「だろうね」


 認められても困る。


 シロウはもう一度自分の腕を見る。さっき低級悪魔の爪を受けた場所だ。外套だけが裂けて、自分は何も壊れていない。頭では理解しているのに、目で確認すると余計に気味が悪かった。


「これ……戻るんですか?」


 ぽつりと漏れた問いは、自分で思っていたより弱い声になった。


 ユーナは少しだけ考える顔をしたが、結局いつもの調子で返す。


「どうだろ」


「どうだろ、ですか」


「今は分からない」


 リテュシアは横からシロウを見た。


「戻らない可能性もあると」


「ある」


 ユーナはあっさり頷く。


「逆に、何かのきっかけで抜けるかもしれない。暴虐の悪魔を喰った影響だとしたら、定着してるのか、流れてるだけなのか、まだ見えてないし」


 さらりと言われる一つ一つが重い。シロウは椅子へ腰を下ろし、肘を膝へ置いて額を押さえた。


「嫌なことしか分からないんですけど」


「強いのは嫌じゃないでしょ」


「自分が何なのか分からないのが嫌です」


 少しの沈黙が落ちた。


 ユーナは返事をしなかった。冗談のように笑い飛ばせるところではないと分かったのかもしれない。代わりに、リテュシアが落ち着いた声で言う。


「だから監視が必要です」


 シロウは顔を上げる。


「そこに繋がるんですか」


「当然です」


「当然ではない気がします」


「正解でしたね」


 リテュシアの視線はぶれない。あくまで冷静な確認だ。ユーナがそこで楽しそうに口元を歪めた。


「うん、やっぱり同室で正解だったね」


「そこで乗らないでください」


「でも本当にそうでしょ。夜に急に変なこと起きても、隣の部屋より早い」


「変なことって何ですか」


「分からないから言ってる」


 それが一番嫌だった。シロウは言い返そうとして、結局言葉が出てこない。分からないことばかりだ。今日だけで、自分の身体は爪も針も通らないと分かった。それなのに、どうしてそうなっているのかは何も分からない。


 外では日が少しずつ傾き始めていた。窓から差す光が床を長く照らし、卓の脚が影を引く。壁の向こうの研究室からは紙を重ねる音がもうしない。代わりに部屋そのものが静まりかけた、その時だった。


 外の方で、控えめにだが確かな足音が止まる。


 ひとりではない。ふたりか、みっつ。玄関の外で靴裏が石を擦る音がして、それきり止まる。


 ユーナの顔が少しだけ変わった。


「来たね」


 シロウの肩がびくりと跳ねる。


「誰がですか」


「たぶん回収屋」


 言いながら、ユーナはもう動いていた。壁際の棚へ寄り、引き出しから細い革紐を取り出す。輪に見えた。シロウが嫌な予感を覚えるより先に、ユーナはその紐の先の金具をシロウの首輪へ引っかけた。


 小さく、かちりと鳴る。


「え」


「喋らないで」


「ちょっ」


「本当に」


 声の調子が軽くない。シロウは反射的に口をつぐむ。ユーナは紐をそのままリテュシアへ渡した。


「持ってて」


 リテュシアは何も聞かずに受け取る。革紐は細いのに、手へ渡された瞬間だけ妙に存在感を持った。シロウは自分の首から下がるそれを見て、言いたいことが山ほど浮かぶ。だがさっき喋るなと言われたばかりだ。眉間へしわを寄せたまま立ち尽くしていると、リテュシアが紐を軽く引いた。


 強くはない。ただ、そこに従えという意味がある程度には十分だった。


 シロウはますます顔をしかめる。だが騒げば余計に目立つ。結局、口を結んだままユーナを見るしかない。


 玄関の戸が叩かれた。


 ユーナは一瞬で表情を緩め、何事もない顔で迎えに出る。シロウたちのいる居間から玄関は半ば見える位置だ。戸が開くと、外からふたりの男が入ってきた。どちらも軽装だが、腰や肩に小さな道具袋を下げている。兵士ほど武装してはいない。研究者とも少し違う。だが目つきだけは、ものの価値を測る人間のそれだった。


「お疲れ」


 ユーナが軽く言う。


 背の高い方の男が鼻で笑う。


「お疲れ、じゃない。外縁で反応があったって話で来たんだ」


「遅いよ」


「こっちも仕事なんだよ」


 そう返しながら、男の視線が部屋の中を一巡する。卓、棚、窓辺。そして、リテュシアの手元の革紐と、その先に立つシロウでぴたりと止まった。


 シロウは喉が乾くのを感じた。首輪が妙に重い。喋るなと言われているから余計に息苦しい。だがユーナは平然としていた。


「で、回収するものあるか?」


 男が本題へ入ると、ユーナは肩をすくめる。


「低級すぎて回収するものはなかったよ」


「……ああ、そういうやつか」


 妙に納得の早い返しだった。もうひとりの男が小さく舌打ちし、道具袋を叩く。


「無駄足だな」


「魔力の澱みに寄ってくるようなのなんてそんなもんでしょ」


 ユーナが言うと、ふたりは顔を見合わせた。慣れたやり取りだ。こういう空振りは珍しくないのかもしれない。


 そのうちのひとりが、改めてシロウを見た。


「それ、実験体か」


 視線は首輪と革紐に向けられている。シロウは条件反射で身構えかけたが、リテュシアの持つ紐がわずかに張る。動くなという無言の合図だ。奥歯を噛み、どうにか踏みとどまる。


 ユーナは軽く笑った。


「うちの研究室の」


「へえ」


 男が一歩だけ近づく。シロウは反射的に退きそうになるが、リテュシアが背後から静かに立つだけで、その動きは封じられた。傍から見れば、よく馴らされた獣のそばに監視役がいるように見えるだろう。実際、その男もそんな目で眺めた。


「きちんと躾けてるみたいだな」


 言い方が妙に自然で、シロウは胸の奥が冷えた。こんな言葉が、冗談でも珍しがる風でもなく出てくる。しかも相手も、それを不自然だと思っていない。


 ユーナは肩をすくめる。


「まあね」


「暴れないなら上出来だ」


 もうひとりの男が言う。目はシロウから外れない。その視線には敵意も好意もない。ただ、値踏みだけがあった。


「大人しいのは使い道もあるしな」


 その言葉の意味をシロウはすぐに飲み込めなかった。飲み込めないのに、ぞわりとした嫌な感覚だけが先に肌を走る。リテュシアは何も言わない。革紐を持ったまま、相手とシロウの間に立つ位置を変えない。


 ユーナの笑みがほんの少しだけ薄くなる。


「そういうのはやらないよ」


「だろうな。お前は趣味悪いわりに変な線引きあるし」


「褒めてる?」


「褒めてない」


 軽口のように交わしながらも、空気は少し張っていた。男たちはそれ以上部屋の奥へ入らないし、ユーナも招かない。見えているのは居間の入り口までだ。境界線がはっきりある。


 背の高い方の男が、最後に一度だけシロウへ目をやる。


「変なの拾ったな」


「そっちこそ、低級の残骸でも欲しかったんじゃないの」


「低級は低級だ。手間のわりに合わん」


 鼻で笑って、男は踵を返した。もうひとりもそれに続く。玄関の戸が閉まる前、外からひとつだけ声が投げられる。


「次にもっと上が出たら回せよ」


「気分が向いたらね」


 ユーナはそう返して戸を閉めた。


 ぱたりと音がして、ようやく部屋の中から外の気配が切れる。


 その瞬間、シロウは思いきり息を吐いた。


「……怖いんですけど」


 口を開いていいと誰も言っていないのに、もう無理だった。ユーナは振り返り、革紐を見てから小さく笑う。


「でしょ」


「でしょ、じゃないです」


 シロウは首元の金具を気にしながら眉を寄せる。


「何なんですか今の」


「回収屋」


「それは聞きました」


「見たでしょ。回収できそうなら持ってく。できなきゃ帰る」


「ぼくも回収されるところだったんですか」


「そこまではいかないよ」


 ユーナはあっさり言うが、シロウは信用しきれない顔のままだ。リテュシアがそこで革紐を外し、首輪から金具を外してくれる。首が急に軽くなった気がした。


「必要な対応でした」


 リテュシアが言う。


「必要でも嫌です」


「でしょうね」


「慣れろとは言わないんですね」


「今回は言いません」


 その返答に、シロウは少しだけ力が抜けた。言う時は言うが、言わない時は言わない。この人なりの線引きなのだろう。


 ユーナは玄関へ耳を澄ませてから、もう足音が遠いと分かったのか、そのまま居間へ戻ってきた。卓に手をつき、さっき男たちが立っていた場所を見る。


「低級で回収価値が薄いのは助かったね」


「助かったんですか」


「助かったよ。中途半端に価値があると、もっとしつこい」


 さらりと言われるその一言が重い。シロウは首輪の感触が残る首元を押さえたまま、椅子へ座り込んだ。


「この街、思ってたより嫌です」


「今さらだね」


 ユーナはそう言って笑ったが、その笑いはさっきより弱い。少なくとも、回収屋が来たこと自体は本気で厄介だと思っているのだろう。


 リテュシアが静かに言う。


「これがこの街の普通なんですね」


 短いが、それで十分だった。シロウは反論しなかった。外から見れば華やかな魔道都市だ。珍しいものが集まり、人も金も流れ、研究者が高価な魔道具を抱えて歩く。だが、いま見た光景の方が、この街の本当の顔なのかもしれない。危険なものを怖がるだけでは終わらず、価値として測り、使い道を口にする人間が当たり前にいる。


 窓の外で風が鳴った。


 夕方へ向かう光は少し赤みを帯びてきて、床の影も長くなっている。ユーナはその光の中で、ふいに窓の方へ顔を向けた。


「次は上を見に行くよ」


 シロウは反射的に立ち上がりそうになった。


「やめてください」


 間髪入れずに出た声に、ユーナが吹き出す。


「早いなあ」


「早いじゃないです。今の話のあとで何でそうなるんですか」


「低級だけじゃ測れないから」


「測らなくていいです」


「よくない」


「よくないのはこっちです」


 シロウの必死さに、ユーナは喉の奥で笑い続ける。だがその笑いの裏に、もう決めている響きがあるのが嫌だった。リテュシアは笑わない。笑わずに、ただシロウを見る。


「いずれ必要です」


「リテュシアさんまで」


「今回の相手では、あなたの異常性しか分かりませんでした」


「それだけで十分では」


「十分ではありません」


 逃げ道のない言い方だ。シロウはがっくり肩を落とし、椅子へ座り直す。ユーナは笑いを収めると、卓の上へ指先を置いて軽く叩いた。


「まあ、すぐじゃないよ」


「本当ですか」


「今日じゃない」


「それはもう終わってます」


 思わず返すと、ユーナはまた笑う。さっきまでの息苦しさが少しだけほどけたが、安心はできない。今日は終わっても、この先が終わっていない。


 しばらくして、ユーナは研究室側へ戻っていった。足音が遠ざかり、紙を引き出す音がまた始まる。今度はさっきより速い。回収屋とのやり取りまで含めて記録しているのかもしれない。


 居間に残ったのはシロウとリテュシアだけだった。


 窓の外はもう薄く色づき始めている。遠くで鐘のような音がひとつ鳴り、研究区画のざわめきも少しずつ低くなっていた。シロウはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言う。


「さっきの人たち、慣れてましたね」


「そうですね」


「首輪とか、実験体とか」


「珍しくないのでしょう」


 それが嫌だった。嫌だと口にしてしまえば少しは楽になるかと思ったが、出てきたのは別の言葉だった。


「ぼく、ちゃんと人に見えてましたかね」


 問いかけたあとで、自分でも妙なことを言ったと思う。けれどリテュシアは笑わなかった。すぐには答えず、窓の外へ一度だけ目を向け、それから静かに言う。


「少なくとも、私はそう見ています」


 シロウは少しだけ目を見開く。


「少なくとも、ですか」


「今のこの街で、誰にどう見えるかは別です」


「……厳しいですね」


「嘘を言っても仕方がないでしょう」


 その通りだった。けれど、そのあとに続けてくれた一言の方が、シロウの胸に残る。


「ですが、あなたがどう振る舞うかまで他人に決めさせる必要はありません」


 声は静かで、変わらず淡々としている。けれど、その静かさの中にだけ少し熱があった。


 シロウはそれ以上すぐに返せず、膝の上で手を組んだ。今日だけで、自分は低級悪魔を叩き潰し、針も通らない身体だと分かり、知らない男から実験体のように見られた。息が詰まるようなことばかりだ。それでも、さっきの一言だけは妙にまっすぐ胸へ入った。


「……ありがとうございます」


 ようやくそれだけ言うと、リテュシアは短く頷くだけだった。


 壁の向こうでは、ユーナがまた何か硬いものを机へ置いた音がする。研究室の気配はまだ忙しい。今日のことは、たぶんまだ終わっていない。記録も整理も、次へ向けた考えも、あの女の中ではもう動き出している。


 窓の外の空は夕色へ変わっていく。


 その光の中で、卓の上には外された革紐が細く横たわっていた。さっきまで自分の首輪へ繋がっていたそれを見て、シロウはまた少しだけ嫌な気分になる。だが同時に、あれがなければ面倒になっていたのかもしれないと理解もしてしまうのが、なおさら気分が悪い。


 この街では、嫌でも覚えなければならないことがある。


 知らないうちに、その数がまたひとつ増えていた。

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