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悪魔の花嫁 エルフの花婿 〜悪魔のぼくと美人なエルフのお姉さん〜【更新停止中】  作者: よるねこ


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第十四話 最強悪魔が最弱戦闘した日の話

 廊下の向こうから漂ってきた匂いは、思っていたよりもずっとまともだった。


 焼いた薄い生地の香ばしさに、煮た豆と刻んだ菜の匂いが混じっている。台所の方を覗くと、ユーナは袖を軽くまくり、鍋の中を木の匙でかき回していた。火加減を見る横顔は研究室にいた時と大して変わらないのに、鍋の前に立っているだけで妙に不思議な光景に見える。


 シロウは部屋の入口で立ち止まったまま、しばらくその背中を見ていた。


「何ですか」


 振り向きもせずにユーナが言う。


「いや、作れるんだなと」


「だから作れるって言ったじゃん」


「半分くらいしか信じてなかったです」


「今は?」


「まだ半分くらいです」


 ユーナが喉の奥で笑う。鍋の中身を木皿へよそい、焼いた生地と一緒に卓へ並べた。余計な飾りは何もない。だが、湯気の立つ皿が卓へ置かれるだけで、さっきまで他人の家だった空間に急に昼の気配が満ちる。


 リテュシアはすでに席に着いていた。外套を脱ぎ、背筋を伸ばして座る姿は宿にいた時と同じなのに、見慣れない卓に向かっているだけで少し印象が変わる。シロウも向かいへ腰を下ろした。


 焼いた生地は外が少し硬く、中は温かい。豆は香草と一緒に煮込まれていて、見た目より味がある。菜もよく煮えていた。ユーナは自分の皿へ手を伸ばしながら、当然のような顔で言う。


「ほら、普通でしょ」


 シロウは口の中のものを飲み込み、正直に頷いた。


「普通ですね」


「何だと思われてたの」


「焦げた何かが出るかと」


「ひどいなあ」


 ひどいが、研究室での様子を見た後ではそう思っても仕方がない。シロウはもう一口食べて、それからようやく少しだけ肩の力を抜いた。昨日から何度も振り回されているが、食事が普通であることはかなり大きい。


 窓の外では、昼へ向かう街の音がうっすら聞こえていた。遠くで車輪が鳴り、どこかの家の戸が閉まる。研究室側からは金属のぶつかる音もするが、この部屋にいる限りはそこまでうるさくない。


 シロウは焼いた生地をちぎりながら、ふと思いついたことを口にした。


「同居人の人、いないんですね」


 卓の上で、ユーナの手がほんの一瞬だけ止まる。


「今はね。出てる」


「長いんですか」


「どうだろ。長い時は長い」


 それだけ言って、ユーナはそれ以上広げる気がない顔で皿へ視線を戻した。リテュシアも追及しない。シロウも何となくそれ以上聞きにくくなり、豆を口へ運ぶ。


 食事は静かに進んだ。三人とも無口というわけではない。だが、誰かが無理に話を繋ごうとする空気でもない。匙が皿に当たる音と、外から届く街の響きと、ときどきユーナの軽い鼻歌。それだけで妙に間が持つ。


 シロウは半分ほど食べたところで、ようやく人心地ついた気がした。朝から宿を出て、またここへ来て、部屋が決まり、同室が決まり、その上で戦う話まで勝手に進みかけている。落ち着ける理由はどこにもない。ないのに、温かいものを腹へ入れただけで少しだけましになるのだから単純だと思う。


 その時だった。


 ユーナが何でもない調子で皿を置いた。


「じゃ、行こっか」


 シロウの手が止まる。


「……どこにですか」


 聞き返しながらも、嫌な予感しかしない。ユーナは案の定、にやりとした。


「決まってるでしょ」


 リテュシアはすでに食べ終えていて、水を一口含んでから立ち上がる。


「準備を」


「今日なんですか」


 シロウが声を上げると、ユーナは本当に不思議そうに首を傾げた。


「今日だよ」


「今ですか」


「今」


「昼食のあとすぐに?」


「早い方がいいからね」


 ユーナは立ち上がると、そのまま部屋の奥へ消えた。戸棚の開く音が続き、何か硬いもの同士が触れ合う乾いた響きがする。シロウは嫌な顔のままリテュシアを見た。


「止めないんですか」


「必要です」


「もっと後でも」


「遅いと別の問題が出ます」


「別の問題って」


 答えを返したのは、戻ってきたユーナだった。


「取られる」


 シロウは思わず口を閉じる。


 さっきまで軽い家着のような姿だったのに、今のユーナは見るからに物騒だった。首には細い輪が二つ、胸元には小さな金具が連なり、両手首には違う形の腕輪が重なっている。腰には石のはまった短い筒のようなものが吊られ、指にも飾りではないと分かる輪がいくつも嵌まっていた。歩くたびに小さく硬い音が鳴る。全体として派手ではないのに、見れば見るほど落ち着かない。


 シロウは思わず眉をひそめた。


「そんなに付けるんですか」


「付けるよ」


「危なくないですか」


「これだけ付けてるから安全なんだよ」


 あまりに当然のように言われて、シロウは意味が分からず黙り込む。ユーナは外套の留め具を整えながら、面白そうに口元を上げた。


「中途半端が一番危ないの。少しだけ持ってるやつは狙われる。隠してるやつは見抜かれたら終わり。でも、最初から見るからに面倒そうなのは避けられる」


 腕輪をひとつ叩くと、かすかに鈍い音が返る。


「これだけ付けてるやつに手を出す方が馬鹿でしょ」


 リテュシアがその姿を一瞥して、静かに言った。


「合理的ではありません」


「合理だよ。一番生存率が高い」


 言い切る顔に迷いがない。たぶん、本当にそうやって生きてきたのだろう。研究室でも街でも、危険なものを扱う人間間での立ち位置がもう出来上がっている顔だった。


 シロウは首輪の留め具を指で探りながら、小さく息をつく。


「取られるって、何をですか」


「悪魔」


 今度ははっきり言われた。


 シロウの指先が止まる。


「……倒すんじゃないんですか」


「倒すよ」


 一拍置いて、ユーナはにやりとした。


「でも、使える状態で」


 その言葉の意味が、すぐには頭へ入ってこない。使う。悪魔を。研究室の机の上にあった分解された魔道具や、並んでいた魔石を思い出し、シロウは顔を曇らせた。


「他の研究者も行くんですか」


「行くよ。こういう街だし」


 ユーナは腰の魔道具の位置を直しながら続けた。


「危険でも研究価値があるなら欲しがる。むしろ危険な方が喜ぶのもいる」


 平然とした声だった。けれど、その平然さのせいで余計に冗談に聞こえない。シロウは喉の奥が少しだけ乾くのを感じた。


「……普通なんですか」


「ここでは普通」


 その返事に、シロウはもう何も言えなかった。


 首輪を着け、フードを被り直す。リテュシアは剣帯の具合を確かめ、外套の裾を整える。三人とも支度を終える頃には、部屋の空気もすっかり食後の穏やかさを失っていた。


 外へ出ると、日差しはすでに高く、朝の冷えは消えていた。研究区画を抜ける間も、ユーナの装備はやはり目立つらしい。誰も露骨には見ない。だが、すれ違う人間ほど一瞬だけ視線を寄越し、すぐに逸らしていく。距離の取り方に慣れがある。シロウはその空気を感じ取って、さっきの言葉の意味を少しだけ理解した。


「……本当に避けられてますね」


「でしょ」


「自慢するところですか」


「生きてるんだから自慢していいよ」


 街の中心から離れるにつれ、建物の密度は少しずつ下がっていった。石造りの大きな建物が減り、背の低い倉庫のようなものが増える。道幅はあるが、人通りは目に見えて少ない。風に乗って、金属でも薬でもない、別の匂いが混じり始めていた。


 湿った、重い匂いだった。


 シロウは歩きながら眉をひそめる。腐っているわけではない。獣臭いわけでもない。ただ、空気の底に濁りが溜まっているような匂いだ。道の脇には使われなくなった石材が積まれ、半分崩れた壁がいくつか見える。街の外縁なのだろう。人が住む場所と、そうでない場所の境目が曖昧になっている。


 ユーナが歩調を落とした。


「この先」


「近いんですか」


「近いよ。だから急いでる」


「そんなに価値があるんですか」


「ある」


 即答だった。


「悪魔は危険だけど、危険なだけじゃない。魔石とは違うし、魔物とも違う。あれはあれで金になるし、知りたいことも多い」


 口調は軽いのに、言葉の端だけが妙に鋭い。シロウはその横顔を見て、研究室で机に向かっていた時の顔を思い出した。結局、この人にとっては全部繋がっているのだろう。助けることも、囲うことも、悪魔を見に行くことも。


 リテュシアが低く言う。


「正式な討伐は」


「まだ回ってない。でも観測は上がってた」


 ユーナは前を向いたまま答えた。


「朝の記録にあった。使えそうなのだけ拾ってきた」


 その言い方が、いかにもこの女らしかった。誰かが整理してから動くのでは遅い。誰かが名目を決める前に手を伸ばす。そういう種類の人間だ。


 やがて道はさらに荒れ、石畳も途切れがちになった。崩れた建物の影が伸び、草が割れ目から顔を出している。風が吹くたびに、さっきから漂っていた濁った匂いが濃くなった。


 シロウの足が止まりかける。


「……います」


 自分でも、そう言ったことに少し驚いた。見えているわけではない。ただ、いると分かる。空気の重さが急に変わったのだ。背筋の毛が逆立つような感覚に、喉がひくりと鳴る。


 ユーナが面白そうに口元を上げた。


「いるね」


 崩れた壁の向こう、地面が浅く窪んだ場所に、空気が妙に淀んでいる。風が吹いてもそこだけ流れが悪い。光もわずかに濁って見えた。


 そして、その窪みの奥から何かが動く。


 人の形に似ていた。似ているだけだった。細長い手足は関節の位置がどこかおかしく、背が曲がり、皮膚は土気色に近い。顔には人の面影が残っていない。目だけがぎらついて、口元から細い牙が覗いていた。


 シロウは息を飲む。怖い。単純に怖い。同じ悪魔だと言われても、近いと感じるより先に嫌悪が走る。


 その低級悪魔も、こちらを見ていた。


 最初に視線が止まったのはシロウだった。目が合った瞬間、ぞわりとしたものが肌を走る。悪魔の喉が低く鳴った。次の瞬間にはもう地を蹴っている。


「シロウ」


 リテュシアの声が後ろから飛ぶ。


 だが、声が届くより先に低級悪魔の爪が振り下ろされた。


 シロウはまともに避けられなかった。とっさに腕を上げただけだ。爪が外套を裂き、そのまま腕へ入る。鈍い衝撃が骨まで響いた。息が詰まる。思わず目をつぶりそうになる。


 けれど。


 何も起きない。


 痛みはある。衝撃もある。だが、それだけだった。血の温かさが流れる感覚もなければ、肉が裂けた感触もない。腕はそこにあり、指も動く。


「……え」


 間の抜けた声が口から漏れた。


 低級悪魔の方も一瞬だけ動きを止める。だがすぐに牙を剥き、今度は横から身体ごとぶつかってきた。シロウは受け止める形になり、そのまま地面を滑って崩れた石へ背を打ちつける。


 普通なら息が詰まって立てない。そういう勢いだった。


 なのに、シロウはふらつきもしなかった。


 背中に衝撃はある。石の硬さも分かる。けれど身体の芯が揺れない。血も出ていない。息も切れていない。


 自分でも意味が分からず、シロウは壁を背にしたまま低級悪魔を見返した。


「今、当たってましたよね」


 震えた声で言う相手は目の前の悪魔ではなく、後ろにいる二人だった。


 返事をしたのはリテュシアだ。


「当たっていました」


「痛かったですけど」


「でしょうね」


「でも、何も」


「何もありませんね」


 その言い方が淡々としすぎていて、かえって現実味が薄い。シロウが戸惑っている間にも、低級悪魔は躊躇なくまた飛びかかってきた。今度は爪ではなく、口を開けて食いつこうとしている。


 シロウは情けない声を漏らしながら腕を伸ばした。


「うわっ」


 ただ前へ出しただけの腕が、低級悪魔の首を掴む。


 細い。そう思った瞬間には、その身体がもう軽かった。軽いはずなのに暴れ方は凶暴で、爪が腕や肩を何度も打つ。だがやはり何も起きない。血も出ない。力の差以前に、そもそも通っていないようだった。


 低級悪魔の爪が頬をかすめても、皮膚は裂けなかった。


 シロウの目が見開かれる。


「……何なんですか、これ」


 自分で呟きながら、掴んだ手に力が入る。低級悪魔の喉から嫌な音が漏れた。慌てて手を緩めようとして、逆に身体ごと引き寄せてしまう。


 近い。牙が見える。怖い。


 怖いから、反射的に振った。


 それだけだった。


 低級悪魔の身体が横へ叩きつけられ、崩れた石壁にぶつかる。鈍い音がして、石が砕けた。低級悪魔はすぐに起き上がるが、今度は動きがほんの少し鈍い。


 シロウは自分の手を見た。何も付いていない。血も、傷も、震えもない。怖いのに、身体だけが壊れた理屈で動いているみたいだった。


 低級悪魔が唸り声を上げ、再び真正面から来る。


 シロウも逃げなかった。逃げるより先に、もう目の前へ来ていたからだ。爪が胸元へ落ちる。衝撃が入る。外套が裂ける。だがそこで終わりだった。


 低級悪魔の目に、はっきりと迷いが走る。


 シロウ自身も迷っていた。迷っているのに、次の瞬間には腕が前へ出ていた。胸へ潜り込み、そのまま胴を抱える。重さがある。けれど持ち上がる。持ち上がってしまう。


「う、わああっ」


 情けない声を上げながら、シロウは低級悪魔を地面へ叩きつけた。


 地が鳴る。


 窪地の土が跳ね、石が散る。低級悪魔の身体が跳ねた。そのまま離せばよかったのに、シロウは怖さのあまり掴んだままでもう一度叩きつける。


 二度目で音が変わった。


 低級悪魔の身体から力が抜ける。まだかすかに動いていたが、シロウはそれでも離せず、半ば泣きそうな顔のままもう一度だけ拳を落とした。


 乾いた音がして、ようやく完全に動かなくなる。


 風が吹いた。


 濁った匂いの上を、乾いた土の匂いが流れていく。シロウは肩で息をしていない。息は乱れていない。ただ、顔だけが青ざめていた。掴んでいた腕をゆっくり離し、数歩下がる。


「……死にました?」


「死んでるね」


 ユーナの声は妙にのんびりしていた。いつの間にか数歩後ろまで来ていて、腰の魔道具にも手をかけていない。最初から最後まで、本当に見るだけで済んだのだ。


 リテュシアも低級悪魔の死体へ視線を落とし、それからシロウを見た。外套は裂けている。だがその下の肌には一筋の傷もなかった。血の匂いもしない。


 静かな間のあと、彼女は言った。


「……これでは、いじめですね」


 シロウは反射的に顔を上げる。


「いじめって」


「一方的です」


「ぼく、すごく怖かったんですけど」


「そうでしょうね」


「怖かったのに」


「それでもこうです」


 リテュシアの声は変わらない。だが、その変わらなさの方がかえって異様だった。シロウは自分の腕を見下ろし、胸元の裂けた外套を触る。布だけが切れている。その事実がやけに生々しい。


 ユーナがしゃがみ込み、死体の爪や皮膚をざっと見た。触り方に迷いがない。まるで待ち望んでいた品を検分するような目つきだ。


「魔力の澱みに惹かれるのは、やっぱりこの程度だね。雑魚の低級悪魔か」


 その言い方はあまりにあっさりしていた。


 シロウは思わず聞き返す。


「……これで、低級なんですか」


「低級だよ」


 ユーナは立ち上がり、死体をつま先で軽く返す。


「上はこんなところには来ない」


 その一言で、窪地の空気が少しだけ冷えた気がした。シロウは無意識に唾を飲み込む。今ので十分に怖かった。十分に異様だった。それでも、まだ上がいるという。


 リテュシアが低く言う。


「今回の結果だけでは、評価には足りませんね」


「でも参考にはなる」


 ユーナはそう返し、今度は真っすぐシロウを見た。


「やっぱりおかしいね、シロウくん」


 軽く笑っている。だがその目は完全に研究者の目だった。面白がっているのに、観察もしている。拾った獲物と、拾う前から知っていた危険物を同時に見ているような目だ。


「ぼくもそう思います……」


 シロウは本音で呟いた。


 低級悪魔の爪を受けた腕を、もう一度握ってみる。筋肉はある。骨もある。けれど今の手応えは、自分の身体とは思えないほど異様だった。怖がって、慌てて、まともに避けてもいない。なのに、何ひとつ壊れていない。


「暴虐の悪魔の力、ですか」


 シロウが小さく言うと、ユーナは肩をすくめた。


「たぶんね。でも、それだけでもなさそう」


「それだけじゃない」


「そう見える」


 そこで言葉を切り、ユーナは腰の魔道具を鳴らしながら周囲を見回した。


「とりあえず、これは回収したいけど……」


 風向きが変わる。遠くの方で何かが金属に当たるような音がした。人為的な響きだ。


 ユーナの目がわずかに細くなる。


「来たかも」


「誰がですか」


「他の研究者」


 シロウの背筋がぞくりとする。ユーナは死体を見下ろし、すぐに判断した。


「長居はしない。目をつけられると面倒」


「回収しないんですか」


「全部は無理。今はシロウくんの方が優先」


 その言葉は意外だったが、言い切り方に迷いはなかった。ユーナは利益だけで動くわけではない。けれど利益を切り捨てる時の判断も早い。そこがやはり厄介だと、リテュシアは横目で見ながら思う。


「戻ります」


 リテュシアが言うと、ユーナも頷いた。


「うん。もう十分見た」


 シロウはまだ死体から目を離し切れなかった。自分がやったのだという実感が薄い。怖かった。今も怖い。だがその怖さと、結果の一方的さがまるで噛み合っていない。


 それでも、ユーナとリテュシアがもう戻る前提で動き始めているのを見て、シロウも遅れて足を向けた。


 来た道を戻ると、街の輪郭が少しずつ近づいてくる。崩れた壁が減り、踏み固められた道が増え、人の気配がまた混じり始める。さっきまでの濁った匂いは薄れたのに、腕に残る爪の衝撃だけが妙に生々しかった。


 シロウは歩きながら、何度も自分の胸元を見た。外套は裂けている。その裂け目から見える肌には、やはり何もない。


「……本当に何もない」


「見れば分かります」


 リテュシアの返事はいつも通り簡潔だった。


「痛かったんですけど」


「でしょうね」


「でも血も出ないし」


「出ていません」


「何なんですか」


「それを知るために行ったのでしょう」


 正しい。正しいが、納得はしにくい。シロウは唇を噛み、前を歩くユーナの背を見る。腰の魔道具が小さく鳴るたびに、この女がやろうとしていることの大きさを思い知らされる気がした。


 やがて研究区画の端へ戻ると、街はまた何事もなかったように動いていた。荷車が通り、石の建物の間を人が行き交う。誰も、ついさっき外縁で低級悪魔が地に叩きつけられたことなど知らない顔をしている。


 ユーナが振り返る。


「今日はこれで終わり」


「終わりですか」


「一体で十分」


 シロウが露骨に安堵の息を漏らすと、ユーナはすぐに続けた。


「今はね」


「今はって何ですか」


「そのままの意味」


 シロウは顔を引きつらせた。ユーナは楽しそうに笑い、リテュシアはそれを止めない。止めないが、シロウの歩幅に合わせて少しだけ速度を落とした。


 研究室直結の家へ戻る頃には、昼の光は少し傾き始めていた。玄関をくぐると、外の埃っぽい匂いが薄れ、またあの生活の匂いが戻ってくる。鍋の残り香と、窓辺の鉢の青い匂い。ついさっきまで悪魔と向き合っていたのに、同じ日の中にこんな空気があるのが妙に現実離れしていた。


 シロウはその場で大きく息を吐く。


「……疲れました」


「見た目ほど疲れてなさそうだけどね」


 ユーナが言う。


「それが怖いんです」


「分かる」


 軽く返されて、シロウは余計に疲れた顔になった。リテュシアは無言で彼の裂けた外套を一度見てから、部屋の扉へ手をかける。


「着替えますか」


「そうします……」


 自分の部屋になったばかりの場所へ入ると、朝とは違う重さが胸にあった。怖さは消えていない。むしろ増した。けれど、それ以上に、自分が何なのか分からなくなる感覚が強い。


 それでも窓の外からは街の音が届き、壁の向こうではユーナが何かを書きつける音がし始めていた。たぶん、もう記録しているのだろう。低級悪魔のことも、自分のことも。


 シロウは裂けた外套を脱ぎながら、ぽつりと呟いた。


「低級であれなら、上って何なんでしょうね」


 答えはすぐ横から返る。


「知ることになります」


 リテュシアはそう言って、自分の荷物を卓へ置いた。その横顔はいつも通り静かだったが、今日見たものを軽く見ているわけではないと分かる程度には、目が冷えていた。


 シロウは苦く笑う。


「あまり知りたくないです」


「そうでしょうね」


 短い会話のあと、部屋に少しだけ静かな間が落ちる。


 壁の向こうでは、また硬いものが触れ合う音がした。ユーナが魔道具を外しているのか、それとも別の準備を始めているのかは分からない。ただひとつ確かなのは、今日のあの低級悪魔一体で終わる話ではないということだけだった。


 それでも今はまだ、窓から入る午後の光が床を細く照らしている。


 その光の中で、裂けた外套だけが、さっきの異様さを黙って残していた。

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