第十三話 魔道都市で変な存在に目を付けられた日の話
宿を出ると、朝の光はもう石畳の隙間まで入り込んでいた。
荷を背負い直したシロウは、通りへ出たところで一度だけ振り返った。泊まっていた部屋の窓は外から見えない。見えないのに、何となく目を向けてしまう。まだ一日か二日しか使っていない寝台と卓だ。それでも、離れると決まると少しだけ名残のようなものが生まれるらしい。
隣を歩くリテュシアは、そんなことには頓着しない足取りで先へ進む。荷はきちんとまとめられていて、外套の裾も乱れていない。昨日も今朝も、この女はほとんど同じ速さで動いている気がした。
「行きますよ」
足を止めたままのシロウに、振り返りもせず声だけが飛ぶ。
「はい」
慌てて追いかける。
街は昨日とは別の顔をしていた。人通りが増えても、首輪の魔道具があるだけで空気がまるで違う。視線はある。完全に消えているわけではない。けれど、昨日のように肌へ刺さってこない。誰かの目が自分に触れて、そのまま流れていく。そのたびにシロウは胸の奥で小さく息をつき、少しずつ肩の力を抜いていった。
「昨日より、だいぶましです」
こぼれるように言うと、リテュシアは歩幅も変えずに短く返した。
「そうでしょうね」
「まだ怖いですけど」
「それは消えないでしょう」
言い方は冷たいが、否定ではない。そういうところが、この人は妙に正直だとシロウは思う。大丈夫だと適当に言われるより、よほどましだった。
研究区画へ近づくにつれて、街の音が変わっていく。鍋を打つような音ではなく、もっと硬い、乾いた響きがあちこちから聞こえた。細い管を束ねた荷車が通り過ぎ、金属枠を抱えた男が建物へ駆け込む。窓から青白い光が漏れている場所もあれば、白い煙が細く上がっている場所もある。人の住む街なのに、どこか人間以外の理屈で動いているように見えて、シロウは無意識にフードの端へ触れた。
「やっぱり怖いんですけど」
「慣れてください」
「簡単に言いますね」
「簡単な話です」
リテュシアは本気でそう思っているらしかった。シロウは返す言葉をなくす。慣れる。できれば苦労しない。だが、できないからといって立ち止まれないことも、もう分かっていた。
昨日と同じ建物の前へ着くと、門の内側は朝から慌ただしかった。紙束を抱えた女が早足で通り過ぎ、その後ろを工具箱のようなものを持った男が追っていく。誰もこちらに構わない。その無関心がありがたくもあり、少しだけ居心地が悪くもある。
中へ入ると、魔石の乾いた匂いと熱せられた金属の匂いが混じって鼻を打った。昨日も感じたはずなのに、今日は荷物が増えたせいか、ここへ戻ってきたという実感が強い。宿へ戻ったのはほんの少し前なのに、もう後戻りできない場所へ足を踏み入れている気がした。
奥の部屋の扉は半分開いていた。
中ではユーナが卓に向かったまま、何か細かい部品を指先でつまんでいる。机の上には図面が広がり、その隅に魔石が三つ、並ぶでもなく置かれていた。こちらに気づくと、顔だけを上げて軽く片手を振る。
「お、早いね」
「十分遅いと思います」
リテュシアが答えると、ユーナは肩をすくめた。
「わたし基準だと早い」
そう言って立ち上がる。焦げ跡のある外套の裾が揺れ、椅子が小さくきしんだ。
「荷物まとめてきた?」
「一応……」
シロウが袋の紐を握ったまま言うと、ユーナはそれを一瞥して笑った。
「じゃあ家行こっか」
「家」
シロウの声に、ほんの少しだけ警戒が混じる。ユーナはそれを気にした様子もなく、机の上の紙束を適当に重ねて端へ押した。
「研究室の隣。歩いてすぐ」
「隣なんですか」
「むしろ繋がってる」
その言い方に、リテュシアがごく小さく目を細めた。何となく予想はしていたが、本人の口から聞くと妙に納得がいく。寝ても起きても研究のすぐ横にいる生活。そういう生き物なのだろう。
ユーナは先に立って歩き出した。研究室の奥へ進み、昨日は入らなかった細い廊下を曲がる。壁に沿って並んだ棚には魔石の欠片や金属部品が雑多に積まれていたが、奥へ進むにつれてそれも減っていった。最後の扉の前でユーナが振り返る。
「一応言っとくけど、研究室よりはまともだから安心していいよ」
「一応って何ですか」
「一応は一応」
鍵を外す音がして、扉が開く。
中へ入った瞬間、シロウは思わず目をしばたたかせた。
空気が違う。匂いが違う。散らばった紙や焦げた金属の気配が消え、代わりに人が落ち着いて暮らしている部屋の匂いがある。壁際に寄せられた棚はすっきりしていて、卓の上にも余計なものが積み上がっていない。窓辺には小さな鉢が置かれ、光を受けた葉が薄く透けていた。決して飾り立てた部屋ではない。けれど、使うものが使うべき場所へ収まっている、それだけでこんなに印象が変わるのかとシロウは驚いた。
「……ちゃんとしてる」
口から出たのは、それだけだった。
ユーナが笑う。
「何その感想」
「いや……もっと、ひどいかと」
「わたしだけが住んでるならたぶんもっとひどいよ」
その言い方で、リテュシアは室内を改めて見渡した。食器の置き方、椅子の引き具合、卓の上に残る布の折り目。誰かの手が、日々ここを整えている痕跡がある。
「同居人がいる」
リテュシアが言うと、ユーナは少しだけ眉を上げた。
「よく分かるね」
「見れば分かります」
そのまま室内を見回し、リテュシアは続けた。
「男か」
シロウが思わずそちらを見る。何の流れでそうなるのか分からない顔だ。ユーナは一拍置いてから、肩を震わせた。
「違う違う。女」
「そうなんですか」
シロウの反応は薄い。興味がないというより、今はそこまで頭が回らないのだろう。リテュシアは軽く瞬きをしただけで、それ以上追及しなかった。必要なら後で分かる。今は部屋の状態だけで十分だった。
ユーナは荷物を床へ置くよう手で示し、自分はそのまま部屋の奥へ入っていく。戻ってきた時には、片手に紙の束を抱えていた。シロウは嫌な予感しかしなかった。
「ちょうどいいし、手伝って」
「嫌です」
間を置かず返すと、ユーナは本当に少しも驚かなかった。むしろ待っていたような顔で、ゆっくりリテュシアへ視線を流す。
その目配せの意味を、シロウは昨日から嫌というほど知っている。知っているからこそ、先に顔をしかめた。
リテュシアは無駄に迷わなかった。
「……頼む」
短い一言だった。それだけで断りにくくなるから腹立たしい。シロウは露骨に嫌そうな顔のまま、手元の袋を床へ置いた。
「……少しだけですよ」
「助かる」
言うだけ言って、ユーナは自分ではあまり動かない。棚から何かを取れだの、そこを片づけろだの、指示だけが飛んでくる。シロウは紙束を抱えて唸り、重たい箱を持ち上げては眉を寄せた。リテュシアは必要なものと不要なものを一目で仕分けているようで、手つきに迷いがない。
「それ、そっちじゃなくて右の棚」
「どっちが右ですか」
「今向いてる方の」
「分かりにくいです」
「じゃあそっちの右」
「余計に分かりにくいです」
ユーナが笑い、リテュシアは無言でシロウの手から箱を取って定位置へ収めた。悔しいが助かる。
部屋の片隅には研究室から運び込まれたらしい細長い木箱が二つ置かれていた。封は切られているが、中身までは見えない。生活の空間に研究の残滓が混ざっていて、それがこの家の持ち主らしいと思う。きちんとしているのに、境目は曖昧だ。
シロウが別室へ紙束を運んでいる間に、居間の空気が少しだけ変わった。
ユーナが棚の端へ腰を預け、声を落とす。
「シロウくんさ」
リテュシアは手を止めず、返事だけを返した。
「何ですか」
「イレギュラーすぎる」
その言葉で、部屋の静けさが少しだけ深くなる。
窓から差し込む光の中で、埃がひとつ揺れた。リテュシアは布を畳んで棚へ置き、ようやくユーナを見る。
「分かっています」
「普通の悪魔とは違う。あの暴虐の悪魔を喰って、今も平然としてる。あれ、かなりおかしいからね」
ユーナの声は軽い。軽いが、その目だけは笑っていなかった。観察する者の目だ。興味と警戒と計算が、きれいに同じ場所へ乗っている。
「放置は無理です」
リテュシアが言うと、ユーナはすぐ頷いた。
「うん。だから、ある程度引き出したい」
「能力を」
「そう。何ができて、どこまでやれて、どこで危ないか。見ないと読めない」
扉の向こうから、紙が崩れるような音がした。シロウが何か落としたらしい。ユーナはそちらへ一度だけ目を向け、すぐに戻した。
「手っ取り早いのは戦わせること」
「危険です」
「危険だよ」
その返事があまりにもあっさりしていて、リテュシアは一瞬だけ黙った。
「分かっていて言っていますか」
「分かってるから言ってる」
ユーナは肩を壁へ預けたまま、指先で外套の端を弄ぶ。
「アーシアン型相手じゃ意味が薄い。あれは普通の悪魔とは違う。だから、やるなら普通の悪魔。わたしが場所を把握してるのがいくつかある」
「討伐するのですか」
「結果的にはそうなるかもね」
リテュシアは眉ひとつ動かさない。ただ、視線だけが冷たくなる。
「シロウはまだ不安定です」
「でも、暴虐の悪魔の力は取り込んでる」
ユーナの返答は早い。
「それがどれだけ残ってるか分からない。でも、少なくとも普通の悪魔相手に一方的にやられるとは思わない。思わないし、もし危なそうならわたしも入る」
「あなたが」
「わたしも見る必要があるからね。引っ張り出した責任くらいは持つよ」
その言葉がどこまで本気か、簡単には測れない。だが少なくとも、面白そうだから放り込んで終わり、という顔ではなかった。
リテュシアは短く息を吐いた。窓辺の葉が風に触れて揺れる。部屋は整っているのに、話している内容だけがまるで穏やかではない。
「なら、監視を強めます」
「ん」
「同室にします」
その瞬間、ユーナの口元がゆっくり吊り上がった。
「へえ」
リテュシアは表情を変えない。
「監視です」
「分かってるって」
「分かっていません」
「分かってるよ。危ないから近くで見るんでしょ」
「そうです」
「でも同室なんだ」
その一言に、リテュシアの視線がわずかに鋭くなる。ユーナは楽しそうに笑いながら、悪びれず言葉を継いだ。
「じゃあわたしも同じ部屋にしようか」
「却下です」
即答だった。
「早いね」
「あなたがいるとシロウは嫌がります」
一点の迷いもない断言に、ユーナは吹き出した。
「ひど」
「事実です」
「それはそうかも」
そこで扉の向こうから足音が近づいてきた。リテュシアは何もなかったように棚へ向き直り、ユーナも肩の力を抜く。
戻ってきたシロウは、腕の中に抱えていた紙束を卓へ置いて深く息をついた。
「終わりました」
「お疲れ」
ユーナは何事もなかった顔で言う。だがシロウはその無邪気な声を信じていない顔だった。昨日から何度も見てきた表情だ。
「何か企んでました?」
「何で」
「顔がそうです」
「失礼だなあ」
「当たってますよね」
ユーナは笑うだけで否定しない。それが一番よくない。シロウがじとっとした目を向ける横で、リテュシアは何も言わず奥の廊下へ向かった。
「部屋はこっち」
ユーナが先に立つ。廊下の左右に扉が三つ並んでいて、そのうち二つは閉まっていた。一番手前を開けると、簡素だが清潔な部屋が現れる。寝台と卓、小さな棚。宿の部屋と比べても不足はない。
「ここ、シロウくん」
「……普通ですね」
「何だと思ってたの」
「檻とか」
「それは今後の態度次第かな」
「今の冗談ですよね」
「どうだろ」
どう見ても面白がっている顔だった。シロウはげんなりして寝台を見る。きちんと整えられている。窓は小さいが、光の入り方は悪くない。逃げ場のない部屋ではなかった。
「リテュシアちゃんは隣で」
ユーナが次の扉へ手をかけた、その時だった。
リテュシアが一歩前へ出て、何の躊躇もなくシロウの部屋へ入る。足音は静かだったのに、その行動だけがやけにはっきりしていた。
シロウは寝台から顔を上げる。
「……は?」
リテュシアは部屋の中を一通り見回し、卓の位置と窓、扉の開き方まで確認してから、淡々と言った。
「ここを共に使います」
数拍、沈黙が落ちた。
シロウは口を半分開けたまま固まっている。言葉が追いついていない顔だ。ユーナはその横顔を見て、とうとう堪えきれなかった。
「ははははは!」
廊下に笑い声が響いた。壁に反射して余計に大きく聞こえる。シロウはますます混乱した顔でリテュシアとユーナを見比べた。
「ちょ、ちょっと待ってください。何でですか」
「監視です」
「監視で同じ部屋になるんですか」
「なります」
「ならないと思います」
「なります」
言い切られてしまう。しかも迷いがない。シロウは助けを求めるようにユーナを見たが、そちらは笑いすぎて壁へ手をついていた。
「ははっ、だめ、無理、おかしい」
「何がですか」
「いや、だってそう来ると思わないじゃん」
「何なんですか本当に」
ユーナは目尻の涙を指で拭いながら、どうにか息を整えた。
「いやあ、監視強めるって言ってたけど、ほんとにそのまま行くんだって思って」
「言いました」
リテュシアは平然としている。
「危険性がある以上、当然です」
「当然じゃないです」
シロウはすぐに返したが、返したところで状況が変わる気もしなかった。リテュシアは部屋の隅へ荷物を置き、もうそこを使うつもりでいる。判断が早すぎる。
「隣の部屋じゃだめなんですか」
「夜間の異変に即応しづらいです」
「異変って何ですか」
「分かりません。分からないから近くにいます」
「怖いこと言わないでください」
「怖いものを相手にしているので」
静かな声でそう言われると、シロウは言葉を失う。結局のところ、彼女は最初からずっと同じだ。危険だと思ったものには距離を取らない。距離を取るより、目の届く場所へ置く方を選ぶ。それが自分に向いているだけの話だ。
ユーナがにやにやしながら腕を組んだ。
「わたしは別に隣でもよかったけどなあ」
「ではそうしてください」
シロウが即座に言うと、ユーナは首を横に振る。
「やだ」
「何でですか」
「だってシロウくん、わたしだと本気で嫌そうだし」
「それは」
「否定しないんだ」
シロウは黙り込む。否定できないのだから仕方ない。ユーナは面白そうに笑い、リテュシアはそれを一瞥しただけで寝台の位置を確かめている。
部屋の中へ朝の光が差し込んで、床に細長い四角を作った。平和な光景のはずなのに、シロウの頭の中だけが全く平和ではない。
「本当にここなんですか」
「はい」
「変える気は」
「ありません」
「早すぎませんか、決めるのが」
「必要だからです」
返事が一つずつ固い。シロウは観念しかけて、そこでふと気づく。
「ユーナさん、最初から知ってました?」
笑いを収めかけていたユーナが、いかにも楽しげに眉を上げた。
「途中からは」
「止めなかったんですか」
「止める理由がないし」
「あります」
「ないよ。監視強化は合理的。わたしも賛成」
「賛成しないでください」
「でも、嫌なら強くなればいいじゃん」
軽く言われたその一言に、シロウは口をつぐむ。強くなる。それは、さっきの裏で決まった話と繋がっているのだろうと、今さらながら勘づいた。何かが進んでいる。自分の知らないところで、そして自分を中心に。
リテュシアが荷を解きながら、何でもない調子で言う。
「近いうちに戦います」
「え」
「能力の確認が必要です」
シロウはゆっくりユーナを見る。ユーナはごまかす気もなく、ひらひらと手を振った。
「そういうこと」
「そういうことじゃないです」
「分かるには一番早いからね」
「ぼくの意見は」
「聞くよ」
「本当ですか」
「聞くだけなら」
「よくないです」
シロウの声に本気の悲鳴めいたものが混じる。だが二人とも大して動じない。リテュシアは荷物から布を取り出して棚へ収め、ユーナはその様子を眺めている。
部屋の空気は騒がしいのに、どこか妙に落ち着いていた。ここへ来てからずっと、シロウは自分の居場所が宙に浮いているような気分だった。宿も街も研究室も、どこにも根を下ろせない。けれど今、理不尽な形ではあっても部屋が決まり、寝る場所が決まり、目を離さないと言い切る人間が二人いる。そのことをどう受け取ればいいのか、まだうまく分からない。
ユーナが廊下へ出ながら言った。
「まあ、今日は移ったばっかりだし、のんびりでいいよ。昼までには片づけ終えて、あとは適当に休めば」
「適当にって何ですか」
「適当は適当」
またそれだ、とシロウは思う。だがもう突っ込む気力も減ってきた。リテュシアは淡々と荷を解き終え、卓の上へ自分の袋を置いた。
「昼食はどうするんですか」
シロウが聞くと、ユーナは廊下の先から顔だけを出す。
「あるものでいいなら作るよ」
「作れるんですか」
「失礼だなあ」
「部屋を見た印象だと、半分くらいしか信じられません」
「半分も信じてるなら十分」
そう言ってまた姿が消える。台所らしい方角で戸棚の開く音がした。シロウはしばらくその音を聞いてから、ようやく肩の力を抜いた。
「何か、疲れました」
「まだ何も始まっていません」
リテュシアが言う。
「今の時点でこれなら、先が思いやられます」
「思いやってください……」
寝台へ腰を下ろすと、板が小さく鳴った。宿の寝台とは硬さが違う。初めての感触だ。見慣れない窓、見慣れない壁、そして同じ部屋にいるリテュシア。状況だけ並べれば落ち着かないはずなのに、不思議と昨日の夜よりはましだった。
リテュシアが棚の位置をもう一度見てから、ようやくこちらへ目を向ける。
「嫌ですか」
「嫌ではあります」
「では慣れてください」
「またそれですか」
「有効なので」
有効なのだろう。悔しいが。シロウは天井を見上げた。木の節がいくつか並んでいて、その一つが獣の目のように見える。昨日までなら、こんな場所で息をつけるとは思わなかった。
しばらくして、廊下の先から香ばしい匂いが漂ってくる。焼いた穀物の匂いと、煮た野菜の甘い匂い。生活の匂いだった。研究室ではしなかった匂いだ。シロウは鼻先をわずかに動かし、それから小さく笑った。
「何ですか」
リテュシアが問う。
「いや……ちゃんと家なんだなと思って」
言ってから、自分でも少しおかしくなる。何を今さら、という話だ。けれど研究室と繋がっているせいか、どこか奇妙な空間に思えていたのも事実だった。
リテュシアは窓の外へ一度だけ目を向け、すぐに戻す。
「家ですよ」
「そうですね」
シロウは頷く。
廊下の向こうでは、何かが器に注がれる音がした。ユーナの鼻歌まで聞こえてくる。街の外ではなく、迷宮でもなく、戦場でもない。今日くらいは、そういう一日でもいいのかもしれないと、シロウは少しだけ思う。
もっとも、その平和の裏で、自分が近いうちに悪魔と戦わされる話が進んでいることも忘れてはいなかった。忘れられるはずもない。けれど今はまだ、窓から入る光も、廊下から流れてくる匂いも、奇妙なくらい穏やかだった。
リテュシアが同じ部屋に荷を置き、ユーナが壁の向こうで笑っている。
昨日までなら考えもしなかった形で、居場所だけが先に決まっていく。
それが面倒の始まりなのか、少しだけ救いになるのかは、まだ分からない。ただ、少なくともこの朝は、思っていたよりずっと静かに進んでいた。
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