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第12章 延命措置の配給


頭上から降ってきたのは、寝起き特有の低く声だった。 悠斗の動きが蛇に睨まれた蛙のように凍りつく。


「あ、…………お、…………おはよう……ございます……」


顔を上げることができない。視線を泳がせながら、絡めていた手脚をバタバタと引き剥がそうとするが、逆に腰に回された腕の力が強まった。

鷹宮は悠斗の視線を追うように、自分の胸元の染みに目を落とした。


「……私のパジャマを、随分と気に入ったようだな」


(……言わせろ! それはただの恒温動物としての生理現象だ!!)


「……ちが……っ、それは、……その…………っ」

「……ふっ」


鷹宮の大きな手が悠斗の顎を掬い上げ、無理やり視線を合わせる。 昨夜の獰猛な気配は消え、代わりに余裕たっぷりの、意地の悪い笑みがそこにはあった。


「……あんなに逃げ回っていたくせに。……寝ている時は素直だったな」

「……離……して、ください。……野村さんが今日休みで……朝ご飯、作らないと」

「朝ご飯……それとも、昨夜の続きを奉仕してくれるのか?」


その言葉に、悠斗の脳裏に昨夜の30分に及ぶ激闘と未知の質量の記憶が鮮烈にフラッシュバックした。


(……無理、無理、無理!! 朝から第2ラウンド開始とか、俺の精神がもたねえ!!)


「……いいから、離せ……ッ!!」


悠斗は布団を蹴散らしてベッドから転げ落ちた。そのまま、もつれる足で寝室のドアへと突進する。後ろから鷹宮が声を上げて笑う気配がしたが、それを振り返る余裕など1ミリもなかった。


(……食う。とにかく、食わねえと脳が動かねえ……!)


悠斗は寝室から飛び出すと、洗面所に駆け込んで、うがいと歯磨きを猛烈な勢いで済ませた。口内をミントの刺激で上書きし、逃げ込むようにリビングを突っ切ってキッチンへ滑り込んだ。

昨夜の激闘と今朝の失態、特にあのパジャマの染みを思い出すたび、胃のあたりがキュッとなる。


「……落ち着け。まずはエネルギー補給だ。……ブドウ糖が足りないからバグってんだ、俺の頭は」


冷蔵庫を開けると、そこには野村さんが用意してくれたであろう新鮮な食材がぎっしりと詰まっていた。しかし、今の悠斗にそれらを調理するスキルも精神的余裕もない。


(……高度なオペは無理だ。……単純作業……そう、切って焼くだけの単純な処置なら……!お、これならいける!)


悠斗は食パン一袋を引き裂き、6枚すべての食パンをカウンターに並べた。


「……卵。タンパク質。……多量に摂取して、筋肉と脳を修復する」


ボウルに卵をこれでもかと割り入れ、味付けもそこそこにフライパンへ流し込む。昨夜の30分に及ぶ手の運動のせいで腕が少しだるいが、今は止まっていられなかった。 適当に焼き上げた、形もバラバラな大量のスクランブルエッグ。それを、トーストもしていない食パンの上に山盛りに乗せていく。2枚挟み、さらにその上にパンを重ねた。出来上がったのは、サンドイッチというよりは炭水化物と卵の多層タワーだった。


(……よし。……完璧な処置だ)


悠斗は無意識に自分用に2個、鷹宮用に1個を皿に分けた。

皿を並べ終えたところで、背後に気配を感じた。着替えを済ませ、清潔なシャツを纏った鷹宮がキッチンの入り口で足を止めていた。その視線は、カウンターに鎮座する茶色と黄色の暴力的な山に注がれている。


「……蓮。……それは、一体何の実験だ?」


(……実験じゃねえよ!!生存のための配給だよ!!)


「……朝ご飯、です。……野村さんいないから、これくらいしか……」


悠斗は鷹宮の顔を見ないように、自分の分の「2段タワー」を死守するように抱え込だ。


「……ごちそうさまっ!!」


山盛りの卵サンドを喉に詰まらせるような勢いで胃に流し込むと、悠斗は鷹宮の反応を待たずに席を立った。皿をシンクに放り込み、そのまま階段を駆け上がる。


「……蓮、どこへ行く」

「仕事!! 締め切り近いんで!!」


背後からかかる低い声を振り切り、三階のアトリエスペースへと飛び込んだ。


静まり返ったダイニング。

鷹宮はコーヒーメーカーの作動音を聞きながら、猛烈な勢いで逃げ出した悠斗の足音が遠のくのを静かに見送っていた。

視線の先には、悠斗が一応用意していった、不格好に積み上げられた卵サンドの残骸がある。鷹宮は椅子を引き、その暴力的なまでに炭水化物と脂質が凝縮された一皿を自分の前へと引き寄せた。


「……奉仕、か」


ふっ、と口端を吊り上げると、鷹宮はその不格好なサンドイッチを口に運んだ。


「……ジャリッ」

咀嚼の途中で動きを止め、口端から小さな破片を指で取り出す。朝日に透けたのは卵の殻だった。


(……よほど、パニックだったのか)


美食とは程遠い、あまりにも雑な隠し味。

独りきりのダイニングに、鷹宮の微かな笑い声が溶けて消えた。



三階のアトリエ。

カチリ、と鍵を閉めた音だけが、今の悠斗にとって唯一の「無菌状態」を保証する合図だった。


「……はぁ、……はぁ、……死ぬかと思った……」


アトリエの冷たい床に背中を預け、悠斗は激しく上下する肩を落ち着かせようと努める。昨夜から今朝にかけての出来事は、医学部でのどの講義よりも過酷で、どの試験よりも正解が見えなかった。


(落ち着け、俺。……あんなのは事故だ。叔父さんの性欲がバグってただけで、中身がバレたわけじゃない。……そう、まだオペは継続中だ)


悠斗は自分に言い聞かせるように立ち上がると、新調された巨大な作業テーブルに向かった。 そこには、二つの異様な造形物が鎮座している。一つは心臓から溢れ出したような赤いワイヤーが血管や神経のように複雑に絡み合い、不気味で艶めかしい光を放っている「迷走神経」。もう一つは鷹宮の目を逸らすためだけに粘土塊へ無理やり押し付けた、未完成の「束縛の記憶」だった。


(うわ、粘土とカチカチに固まってんじゃねーか……これ、どうすんだよ。さっさと廃棄して、証拠隠滅すべきだよな)


悠斗がピンセットを手に取り、粘土から不自然に突き出たテープを剥がそうとしたその時、ドアを激しく叩く音が響いた。


「蓮さーん! 石橋です! 進捗を伺いに参りましたわよ!!」


(……げっ、タイミング最悪……!)


「石橋、蓮は三階だ」

居留守を使おうにも、階下から鷹宮の声が聞こえてくる。悠斗は慌ててピンセットを隠し、溜息をつきながらドアの鍵を開けた。


「……あ、石橋さん。お疲れ様です……」

「蓮さん、鷹宮社長から伺いましたのよ、あなたの『新境地』について!」


石橋は入室するなり、まずは初めて目の当たりにする『迷走神経』の実物の前に崩れ落ちた。


「……ああ……っ! これが……毒々しくて美しいわ。この赤いワイヤーのうねり、まるで生きたままの臓器を素手で掴み出されたような、生理的な恐怖と法悦を感じるわ! 蓮さん、あなたはやはり、人体の本質を残酷なまでに掴み取っている天才よ!!」


石橋は恍惚とした表情で完成作を称賛した後、その隣にある異質な粘土塊へ獲物を見つけたような鋭い視線を移した。


「そして、これね……! 鷹宮社長が仰っていた、自分の皮膚を犠牲にしてまで生み出そうとしている『新境地』!」


(マジか、……叔父さん、余計なこと石橋さんに吹き込むなよ!!捨てるところだったのに……)


「見てください、この『迷走神経』が剥き出しの生命の叫びだとしたら、こちらはそれを力ずくで押さえ込む抑圧……! 粘土に食い込むテープの『剥離への抵抗』が、赤いワイヤーの流麗さと対比されて、凄まじい緊張感を生んでいますわ!!」

「いや、石橋さん。それはただの……試作というか、その……」

「いいえ! この完成された『迷走神経』と並び立つのは、この泥臭いまでの執念よ! 蓮さん、この『束縛の記憶』をこのまま完成させてください! これで黒崎様が仰っていた3つの作品が揃いますわ!!」


(……あ、そうか。黒崎さん、3つ買うとか言ってたな……。って、これをあの大富豪に飾る気か!?)


石橋は興奮で鼻息を荒くしながら、早くもスマートフォンを取り出した。


「すぐに黒崎様に連絡を入れますわ! 完璧な2作品が揃ったと! これで新居での披露宴パーティーの日取りも決まりますわね。ああ、忙しくなりますわよ!」

「……」

「楽しみにしておりますわ!さあ、鷹宮社長、行きましょう。お仕事の邪魔をしてはいけませんわね!」


石橋は嵐のように去り、鷹宮もドアの隙間から一瞬だけ悠斗を射抜くような視線を向けた後、石橋と共に屋敷を後にした。



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