第13章 医学生、心の乱気流で診断ミス
ガチャンと玄関が閉まる音が三階まで響く。家の中には、再び悠斗一人の静寂が戻った。
(……やるしかねえ。こうなったら、医学的根拠に基づいた完璧な組織癒着を表現してやるよ……!)
悠斗は再びメスを握り直した。デタラメに貼り付けた医療用テープを単なる残骸としてではなく、真皮層を侵食し、毛細血管の拍動を止めてしまうような、痛々しくも完璧な「拘束」に作り変えていく。 粘土を削り、テープの端をわざと毛羽立たせ、そこに透明な樹脂を流し込んで浸出液の質感を出す。完成された『迷走神経』の隣で、その赤い生命を強引に、かつ残酷なほど清潔に縫い止めるための、もう一つの狂気を形にしていく。
嘘を真実に変えるための、孤独な「手術」が続く。 静寂の中で、悠斗はただただ自分をこの世に繋ぎ止めるための執念を形にし続けていた。
集中が極限に達し、ピンセットを持つ指先の感覚が麻痺し始めた頃。 作業テーブルの端に置いていたスマートフォンが、短く震えた。
(……何?)
画面を覗き込んだ悠斗の目が、一瞬で輝きを取り戻した。 通知画面に表示されていたのは、家主である鷹宮からのメッセージだった。
『急な案件で、今夜は戻りが遅くなる。昼も戻れない。……野村も休みだ。食事は適当に済ませるな。夜、私が戻るまでには食べておけ』
「…………よっしゃああああああ!! 自由だ!!」
アトリエの静寂を切り裂くような悠斗の咆哮が響いた。 昨夜の激闘や今朝の事件の気まずさが、一瞬で霧散していく。
「……よし、決めた。昼飯は外だ。……ジャンクだ、ジャンクを食わねえとやってられねえ!」
悠斗はすぐに連絡先をスクロールし、親友の名前をタップした。
『湊! 暇か? 今からラーメン、……マシマシ屋!あそこ行かね?』
数秒で既読がつく。
『悠斗!? お前、生きてたのかよ! 行く行く、ちょうど腹減ってたんだ。15分後にな!』
悠斗はハミングしながら、粘土のついたエプロンを放り投げた。 鏡の前で髪を整え、裏返しに着ていたスウェットを正しく着直す。
「……今は芸術家なんて廃業だ。……普通の、腹を空かせた医学生に戻らせてもらうぜ」
マシマシ屋。
立ち込める濃厚な豚骨の香りと、店内に響く太麺を啜る音。これこそが、数時間前までアトリエでメスを握っていた悠斗が、魂の底から求めていた聖域だった。
「……はぁ、……生き返る……」
「お前、食い方がもはや飢餓状態だぞ。メスを握りすぎて指の筋肉でも壊死したか?」
目の前で、湊が店の端にある自分用の賄い丼をかき込みながら笑った。
「……メス握りどころじゃねえよ。……湊、聞いてくれ。俺、昨夜……殺されるかと思った」
「あ?締め切りか?それとも石橋マネージャーのテンションに当てられたか?」 「……叔父さんだ。寝室を統合された」
「ブッ!!」
湊がスープを吹き出しそうになり、激しくむせた。
「……ゲホッ、……は!? おま……マジかよ!?」
「……しーっ!! 声がデカい!!」
悠斗は周囲を警戒しながら、身を乗り出した。
「しかもさ、……その後、俺、……手で、……抜かされた……っ!!」
湊は箸を止め、じっと悠斗の顔を見た。その目には、茶化す気持ちよりも先に、純粋な驚きと少しの同情が浮かんでいる。
「……お前、……マジかよ。女の子と手を繋ぐのにも3ヶ月かけたくせに……。一晩で、一番大事な情緒の部分をショートカットされたわけ?」
「……うるせえ! 好きでショートカットされたんじゃねえ! ……地獄だったんだよ。湊、あんなの標本でも見たことねえ。サイズが規格外すぎるんだ。俺、30分間ずっと……前腕筋が攣るかと思った……」
「……30分……。お前、それ完全に術後管理のレベルだろ……。……で、中身はバレてねーのかよ?」
「……ホクロは、医療用テープで死守した。剥がす時、角質層ごと持っていかれて今も太腿が真っ赤だ」
「は?……待て、お前馬鹿か?」
湊が心底呆れたように、深く溜息をついた。
「お前、蓮と同じ場所にホクロあるんじゃなかったか?鏡合わせみたいにそっくりだって自分で言ってただろ。……隠す必要ねーじゃん」
「…………。あ」
悠斗の動きが完全に止まった。口元からメンマが一本、ポトリと落ちる。
「……そういえば、……そうだ!」
「そうだじゃねーよ! お前、パニックすぎて自分自身を見失ってんのかよ。……いいか悠斗。お前は今、医学の知識はあっても、患者…いや、相手を観察する余裕がゼロだ。鷹宮さんからすれば、そこにあるのが当たり前なんだから、隠す方が不自然だろ」
湊はそこで一度箸を置き、呆れを通り越して心配そうに悠斗を覗き込んだ。
「……お前が一番恐れてるのは、正体がバレることじゃなくて、自分の心がアイツに掻き乱されてることなんじゃないか?」
「…………掻き乱……え? 乱気流……? つまり、俺の自律神経が、叔父さんという低気圧に巻き込まれて、気象病的なパニックを起こしてるってことか……?」
「恋の自覚症状の話をしてんだよ、このポンコツ医学生!」
湊の怒鳴り声に、悠斗はびくっと肩を揺らした。
「こ、……恋……!? 湊、お前、何を非科学的なことを……。あれはただの閉鎖空間における生存本能の暴走であって……。だいたい、叔父さんに抜かされた時の心拍数だって、あれは恐怖による頻脈であって……っ」
「……耳まで真っ赤にして言うセリフじゃねーな。お前、ほんと……自分のことになると解像度低すぎだろ」
「……っ、……無駄なダメージ……! 俺の皮膚の角質、無駄死にかよ……!」
悠斗は自分の膝を太鼓でも叩くような勢いで連打した。絶望の矛先は自分の心ではなく、依然として無駄になった角質に向けられている。
「……わざわざ医療用テープをミリ単位でカットして、術後保護並みの精度で貼ったのに! 俺の30分を返せよ! 叔父さんの指の感触を上書きするつもりで貼ったのに、ただの自傷行為じゃねえか!!」
「……あー、もう勝手にしろよ。……でも、そんなに空回りしてると、本当にいつか丸呑みにされるぞ。お前、真っ直ぐすぎて見てるこっちがヒヤヒヤするんだよ」
湊の呆れを含んだ優しさを、悠斗は首を傾げながら聞き流した。最後の一滴までスープを飲み干し、丼の底を見つめる。
「……湊。……俺、もし明日から連絡がつかなくなったら、……叔父さんの屋敷のクローゼットを捜索してくれ。……多分、医学的知見に基づいた完璧な梱包をされて、ホルマリンに浸かってる……」
「……だから縁起でもねーこと言うなよ。……ほら、ちゃんと食ったなら帰れ。考えすぎるとまた裏返しに服着ることになるぞ」
湊のぶっきらぼうな激励を受け、悠斗は店を出た。
夕暮れ時の街を歩きながら、悠斗は自分の置かれた状況を臨床診断してみる。
(心拍数は、……ラーメンの塩分で上昇。頬の火照りは、……店内の蒸気のせい。……よし、異常なし。俺はまだ、正常だ)
湊に指摘された「心の乱れ」という単語を、脳の隅っこにある『未分類フォルダ』に強引に放り込む。 必死に守ったつもりで、勝手に剥がれ落ちた自分の角質。それは、叔父さんという猛毒に対し、あまりにも的外れな防護服を着て踊っていた自分の滑稽さの証のようだった。
玄関前で、悠斗は気合を入れるために両頬をパチンと叩いた。口内に残るニンニクの刺激だけを「自分を取り戻す香料」として、再び自覚のない熱がこもり始めた「甘い檻」へと足を踏み入れた。
【後書き】
いつも応援ありがとうございます!
第13章では悠斗が「臨床診断ミス」で自爆していましたが、作者である私も、自分のキャパシティを少し「誤診」していたようです……(笑)
現在、重要な資格試験の勉強が本格化しており、執筆時間の確保が難しくなってきました。そのため、誠に勝手ながら今後は不定期更新とさせていただきます。
悠斗が「甘い檻」で奮闘している間、私も参考書の山という名の「厳しい檻」で戦って参ります!
亀の歩みにはなりますが、更新は続けていきますので、引き続き応援していただけると大きな励みになります。
よろしくお願いいたします!




