9.君の胸中
真白の世界。一つのテーブルと、二つの椅子。
汚れを知らぬ虚空の場。それが今はめちゃくちゃに壊されていた。
テーブルは薙ぎ倒され、椅子も片方倒れ…、床には散らばり崩れたサンドイッチと、割れてしまったカップの破片、その中身の紅茶はまだほんのり湯気を纏っている。
けれど、それらは瞬きの間に薄く、脆く、その姿を煙のように無くし…、机も独りでに元の位置へ戻る。
椅子は座る主を失くし、霞のように消え去った。
『悪いのは、世界だよ。』
やがて何事もなかったように、アレックスの前に淹れたての紅茶が現れる。サンドイッチは、暖かなグラタンに姿を変え、アレックス好みの味となっているだろう。
『そうは思わないの?』
アレックスは語り掛ける。さっきまで椅子の主が居た場所へ。
『レクシー。』
窓向こう、白む空は曇りとも晴れとも取れぬ色で、ただ、酷く空虚で濁っていた。
――『恥知らずは承知の上。
アレクサンダー・ヴァン・フェルハート殿下に懇請する。』
どこまでも高貴な寝室は窓枠すら豪華に華やいでいて、ベッド脇には常に新鮮な果実水。そんな暮らしに、いつの間にか随分と慣れていた。
『私達が再び間違いを犯した、その時は、私達からサーシャを奪っていただけないだろうか。』
サンドラの頃の部屋もそれなりに美しい内装だったけれど、掃除も換気もされず、カーテンすら開けられない窓から差し込むものは一つもなかった。
『どうか、私達を監視して欲しい。』
ベッドの上、僕はただ、ゆっくり瞬きをする。
「殿下。」
スッと息を吸って、扉の向こうから掛けられた声に返事をする。
エイダが用意した洗顔ポットの湯は、いつもより少し冷たい。それに心地よさを感じ、気温が高くなっていることに気付いた。
…もうすぐ春が終わる。
「あの件は?」
「検証は完了致しました。
薬は、まだお時間頂くかと」
起き上がり、朝の支度を整える。
「十分だ。
開発はそのまま。
ご苦労だったと伝えてくれ。」
夏が来れば僕は10歳となり…、第2王子アレクサンダーが正式な王族として認められる叙任式が行われる。
帝国歴466年。
王国の三分の一が死ぬ。
「海岸領へ視察に行くそうだね。」
いつものお茶会。
今日のメニューは、ベーコンとタルタルソースのサンドイッチ。当然、サーシャの手作りだ。
食べてみると、味は濃いのに、軽やかで食べやすい。レモンの果汁が入っているらしい。
「ボクは絶対に反対です!
呪いが広まっていると言うではありませんか…!
危険です!」
またもや引っ付いて来たジェイドは、僕の分まで奪わん勢いでサンドイッチを食べている。
コイツ本当にマヨネーズが好きだな。
「なればこそよ。
領地の民の苦しみを、ディア家は見過ごさないわ。」
そう、サーシャはハッキリと言い切った。ジェイドは困ったような顔をして、なぜかチラチラ僕を見る。
言葉はそれなりに立派だが、言ってるのはほんの9歳の子供。いっそ滑稽だ。
ディア家唯一の嫡子。君は、その立場を解っているのだろうか?
「サーシャ。
君は子供。それも、何の役にも立たない。
けれどディア家の娘だ。
君が倒れれば、家臣は責任を追及されるだろう。
君の無謀な行動のせいで。」
解っている。君に考えがあること。そしてそれが意味を為すこと。
けれど、君も理解すべき頃だ。
なぜジェイドが、両親が反対するのか。なぜ君が令嬢と呼ばれているのか。なぜ美しいドレスを着ているのか。
「い…、言い過ぎだろ…!
そんな言い方しなくたって…!」
言葉を失ったサーシャに反し、ジェイドは喧しくなる。
言い争いを望んでるわけではないので、紅茶を飲み、穏やかに言葉を選ぶ。
「僕の認識違いなら、訂正してくれて構わない。
ジェイド。伯爵家の君が無謀な行動をしてケガをすれば、その処罰を受けるのは誰だ?」
「それは…、従者、だけど…。」
そう。そして更に上の爵位を持つ公爵令嬢のサーシャなら、もやは言うまでもない。
君の世界に、きっと身分がないことは知っている。常識の違いは多くあるのだろう。けれど…、いつまでもその世界で生き続けることは出来ない。
「君はアレクサンドラだ。」
ゲームの中の悪役令嬢である前に。君は、いずれ魔塔の主となる、アレクサンドラ・フォン・ディア。
君は、僕の体に居る。
サーシャは目を見張った。まるで今初めて目を開けたかのような。
「…―――――。」
何事か口のなかで言葉を紡いで、サーシャは自分の胸元へ両手を添える。それはもしかしたら、元の世界の家族か、大切な何か。
「…私が、アレクサンドラ。」
18年、スマホ越しに君を見ていた。全ての困難を乗り越え、幸せになって行く君を。
でも、その胸の内を僕は知らない。なぜ、そんな柔らかな声で僕の名を呼ぶのか。何が君を、こんな世界に生かし続けたのか。
「だから、こそです。
私はこの名に恥じぬよう生きなければならない。」
君は何を思い、この世界をプレイしていた?
「……レクシー様まで着いて来ていただかなくても…」
僕の手を借り、馬車から降りるサーシャにそんなこと言われる。
遺憾だ。
「僕は義弟くんの方が余計だと思うけどな。」
続いて馬車から降りてきたジェイドに、僕は白けた視線を向ける。
本当なら、二人きりのはずだった馬車はコイツのせいで喧しく、口説く隙がまるでなかった。道中にあるサーシャの好きそうな店をいくつかピックアップしたのに、全ておじゃん。君を喜ばせるためにやってるんじゃないんだよ。喜ぶな。キラキラした視線をよこすな。
「なっ…、そん…、うちの領地の問題に首突っ込んでるのはそっちだろ…!」
ジェイドはキャンキャンと吠えているが、その頬には僕が連れてってやった店のソースがまだ付いている。
「よほど美味しかったらしい。
嬉しいよ、ジェイド坊ちゃん?」
というか”うちの”ってなに?もう自分の名前忘れた?早すぎるぞ。
…それとも、まさか、本気で"ディア"になろうとしてるんじゃないだろうな…?
「あっ。ふふっ…、そうみたいだね。」
気付いたサーシャが、ハンカチでジェイドの頬を拭う。
…問題ないか。弟を通り越して、もはや息子の様相だ。もっとも、これに限ってはサーシャの接し方に要因がある。
こういうの、向こうの世界では何と言うんだったか…、"バブみ"?…なんか嫌だ。二度と使わない。
「ぇ…、うぷっ!
ずるいぞレクシー!なんで黙ってた!」
それはね、ジェイド。君が僕からサーシャの隣を奪ったからだよ。僕の忠告を素直に聞いていれば、紳士的に指摘してやったものを。
サーシャに聞かれては困るので、一旦惚けておくけど。
「やっぱり”コンパクト”がないと不便だよね。
鏡の加工って難しいのかな…?」
これまた…、随分と早い。
”コンパクトミラー”は回帰前の世界でサーシャが学園入学後に発明したものだ。
鏡自体は以前からあったが、持ち運びしやすい大きさかつ、小物も入れられる形状は画期的だった。サーシャはさらにここに化粧品のパウダーを入れていた。サーシャにはやはり販売する考えがなかったが、ジェイドの手によって、かなりの売り上げを叩き出していた。
あれは学園での”悪女”という汚名を払拭するためだったが…、まあ別に今開発しても良いか。
従者に視線を向け、まとめておくよう指示する。
「やっぱお前嫌い。」
ジェイドが睨みつけてきたので、その頭を乱暴に撫でる。
ほとほとコイツは勘がいい。クラヴェル家の精神魔法の一環か?
だが、睨まれる謂れはない。これはただの趣味。サーシャの能力を、僕が先回りして奪おうとは思ってない。
復讐はあくまで自分の手で。
まあ、出資者として、それなりに分け前は貰うけどね。




