10.闇の魔法
「…雨。」
9歳の誕生日も、やはり両親は祝いに来なかった。
空は例年通りの雷雨。
せめて勉強か稽古があれば良かったのに…、なぜか毎年この日は何もなくて…。空虚な一日は誰も私を愛さないと囁き続けた。
「――――?」「―――――、―――――?!」「―――――!」
その年は、妙に慌ただしかった。
間も無く、私は外出を禁じられた。
町へ出掛けるどころか、次第に、家からも、棟からも、部屋からも出ることを禁じられた。
「…お腹が、減るだろうなぁ」
庭にすら出られなくなった日、私はベッドで横になった。
もう庭に生えた野草や虫を食べて、空腹を紛らわすことすら叶わないから。
目を閉じて、頷いて、従った。
何も考えられなかった。何も感じなかった。聞かないから聞かされず。日々は黙々と流れた。家庭教師が来なくなって、侍女が減って、乳母が来なくなって…。私の話し相手は、空腹に鳴るお腹の音だけ。
冬の寒さを感じ始めた頃、私はやっと状況を知った。
母の葬儀は、既に終わっていた。
王国中に呪いが蔓延しているらしい。直に、王命によってすべての畑が焼かれ、領地民は飢餓に苦しむことになるだろうと。
静かな屋敷。寒い部屋のベッドのなかで、私はもはや鳴らなくなった腹に話し掛けた。
「お友だちが増えるんですって。」
私は頭が可笑しくなっていた。
状況は、思ったより悪い。
海岸領の一番外れの村。ここはサーシャのレシピを使った、大衆向けの店を開業した最初の村であり、何度か視察にも来た。だが…その時とは、あまりに様子が変わっている。
町はあまりに静かで、潮風に混じって悪臭が漂っている。臭いの元を辿れない程…、そこら中から。
大通りこそ美しいままだが、チラリと路地裏へ視線を向けるだけで座り込む人間が目に入る。生きてるか死んでるか見分けのつかない人間はまだマシで、中には痙攣しながら泡を吹く人間も居た。
「ね、姉さま…」
相変わらずサーシャにべったりなジェイドだが…、今回ばかりは、からかう気も起きない。サーシャにしがみつくジェイドの手は微かに震え、顔色も悪い。
昼過ぎの晴天だというのに、見掛ける町人はごく僅か…。チラリと民家を見上げればサッとカーテンが締められる。警戒されているらしい。
呪い、それに治安の悪化。要因はいくらでも思い付く。
二人を守るよう、寄り添ってやるのが今回の僕の役目。
「なんだよ…?」
サーシャにはああ言ったものの、実際のところ、何も出来ないのは僕の方なのだから。せめて子守りと護衛くらいはしないとね。
「レクシー様。ジェイディをお願い出来ますか?」
僕は目で頷き、サーシャに代わってジェイドの手を握る。少し冷たいな。後で、何か暖かいものを飲ませなければ。
民家の前で、サーシャは立ち止まった。
やはり回帰前と同様、サーシャの目的はこの家…、ここにいる人間の治療のようだ。
「ジェイド。君は、君の姉を信じられる?」
「な…、そ、そんなの当たり前だ!」
サーシャが扉をノックする。返答はない。
いかにも平民の家と言うこじんまりとした家。だが、大きさの割りに頑丈そうな造りから、それなりに裕福な印象を受ける。
「ディア家から参りました。
アレクサンドラ・フォン・ディアです。」
それと対照的に、窓は長らく開けられていなかったように埃が積もり、庭は荒れ果て、過去に手入れされていたであろう面影だけを残している。
「牛飼いのトーファー様はご在宅で…」
言い掛けて止まったサーシャに、ジェイドを後ろに下がらせつつ、手元を覗き込む。
どうやら鍵が掛かっていないらしい。
僅かに空いたドアから、途端、強い臭いが僕らに襲いかかる。酸っぱいような、生臭い…、とにかく吐き気を催す臭い。
「…僕は恐ろしいよ。」
スマホ越しでは解らなかった体感。剣や毒とは違う。生が溢れていくのではなく、死が歩み寄る臭い。
その死に、僕のサーシャは一人で立ち向かうのだから。
バタンッと部屋の中から、何か重いものが落ちた音がした。
「トーファーさん?!
…っ、ごめんなさい!入ります!」
止める間も無く入っていくサーシャを追うように、僕も入った。手を握ったままのジェイドも、同行する騎士と侍女も、みな一様に顔をしかめた。
埃っぽく、真っ暗な部屋に、女性が倒れていた。座っていただろう椅子が倒れていることから、呼び掛けに答えようと立ち上がり、そのまま倒れたのだと解った。
「カタリナさん!大丈夫ですか?!…っ、カタリナさん!」
躊躇なく女性に触れるサーシャに、僕も思わず顔をしかめてしまう。
理解している。触ろうが会話しようが、これは感染りなどしない。けれど…。
「ぅ…、ぁ……」
首、手、顔。とにかく服に隠れていないすべての肌に、真っ黒な紋様が浮かんでいる。
紋様は女性の呼吸の度、まるで鼓動するように蠢き…、生きているかのように見えた。女性を締め上げ、殺そうとする蛇のように…。
「カタリナさん!」
呆然とするジェイドの手を握ったまま、止めようとする従者を制しつつ、僕は早々に窓を開け放った。
窓を締め切り、外出を避けるのは、呪いや病に共通する一般的な予防法だ…。けれど今回の病に限っては関係がない。というか、この環境では別の病を併発するのがオチだ。
「ぁ…、もし、や…、アレク、サンドラ…様…?」
カタリナ。そう呼ばれた女性の意識が、徐々にハッキリとしてきた。
キッチンの状態や臭いから推察するに、症状は発熱、下痢、嘔吐。回帰前と変わらないな。
「約束通り、治療に参りました。
トーファーさんは?」
「…はい。っ…、はい…!
主人は…」
騎士にカタリナを支えるよう命じ、サーシャと共に、二階へ上がる。ジェイドは置いていっても良かったけど、問いかける前に、強く手を握られジッと見つめられた。まあ、回帰前もジェイドは立ち会っていたし…。
手を握り直し、二階の部屋へ立ち入る。
「…っ」
強い臭い。侍女に他の部屋も含め、すべての窓を解放するよう命じた。少し経てば、多少はマシになるだろう。
持っていたハンカチをジェイドに渡し、鼻を覆うよう伝える。
コイツの鼻は、後に香水の開発に役立つので、あまり悪くなっては困る。
「出来そうかい、サーシャ。」
ベッドに横たわるトーファーと呼ばれた男は、カタリナより遥かに病状が進んでいる。
全身に巻かれた包帯は血で黒く染まり、その包帯越しにすら紋様がドクドクと蠢いているのが解る。
辛うじて呼吸はしているが、枯れたようなガラガラとした音で、カタリナの声にも返答はない。
痛みに叫び続け、声が枯れたのだろう。
もう、いつ死んでも可笑しくない。
「やります。」
これを前にしてなお、サーシャは言い切った。家族さえ目を背ける体へ手を伸ばし、寄り添い、治すのだと。
「闇よ。」
魔力が部屋を包む。闇が広がる。窓を開けたことで差し込んだはずの暖かな陽光すら呑み込む。その代わりに静けさを吐き出し、時を緩やかにした。
生も、死も、どちらにも辿り着けなくなるような暗く、深く、…なのに、穏やかな闇。
「っ…ふ……ア"ァ"ッ…!」
トーファーが出ない声で、苦痛を訴える。手足はバタバタと震え出し、開いたままの口からよだれが流れる。
「あんた…!」
止めようとするカタリナを、騎士が制止する。
トーファーは苦しみ、悶え続ける。
…やがて、体から黒い紋様が浮き上がってきた。
首から、手から、足から、全身から。一枚一枚、鱗を剥がすように。
「集まって…」
すべての紋様が空中へ浮き上がった。
まるで、たくさんの小さな蛇が群がっているかのような。心臓辺りを中心に、長い長い蛇が全身に伸びるような…。
紋様はサーシャの手のひらに集められ、丸く、小さな、黒い球のようになっていく…。
「"―――――ー―"」
未知の呪文と共に…、黒は闇に呑まれた。闇さえ呑み込む黒に。
「…ぅ……あ…、かたぃぁ………?」
「あんた…‼‼」
目を開けたトーファーに、カタリナは騎士の制止を振り切り、抱き締めた。
出血はまだあるらしく、トーファーは一瞬痛みに顔をしかめたが、息を吸って、そして涙を流し、カタリナを抱き締め返していた。強く。強く。
「よか…」
膝から崩れたサーシャを、瞬時に抱き止める。
呼吸も、脈も、魔力も、問題は見られない。異常はない。ただ気が抜けただけ…。
「…ありがとう、レクシー様。
私を信じてくれて。」
目尻に涙を湛えたまま笑うサーシャ。僕は、よく頑張ったねとしか言えなかった。
(…違う。違うんだよ、サーシャ。)
僕はサーシャを信じてなんていない。ただ、知っていただけ。スマホ越しの回帰前の世界で、君は確かに救った。
だから解っていただけ。必ず成功するって。これは君一人の力だよ、サーシャ。偉大なことだ。僕には出来なかったことだ。
「…ごめんなさい、心配掛けて。」
僕の頬を撫でる手は、ビックリするほど冷たくて、笑う顔も、なんだかいつもより力がなくて。思わず、その撫でる手を握った。
「生きた…心地がしなかったよ…。」
握り返す君の手は案外、力強かった…。
大丈夫。僕だけの憎悪は、ちゃんとこの手に残ってる。




