第二十三話:研究所の真実
ファビアンは、研究所の観察部屋から迷いのない足取りで、エレナのもとへと現れた。
エレナの周囲にいた異形の子どもたちは、その姿を認めた瞬間、怯えた小動物のように身を強ばらせ、音もなく散るように距離を取る。
それは逃走というよりも、“近づいてはならないもの”から本能的に遠ざかる動きだった。
「……みんな、どうしたの?」
エレナは怯えた子どもたちを気にかけたが、彼らは遠くからファビアンを伺っている。
だがファビアンは、そんな彼らに一瞥すらくれない。
恍惚とした表情のまま、壊れ物に触れる直前のような慎重さと、揺るぎない確信とを同時に宿した足取りで、ゆっくりとエレナへ歩み寄る。
その視線はただ一点――エレナだけに注がれていた。
「僕はファビアン。この研究施設の所長をしています」
穏やかな口調で名乗る声は、どこまでも落ち着いている。
「あなたたちを見ていました。まさか、あの子たちが懐くなんて信じられません……これは、運命です」
その瞳の奥に沈むものは、底の見えない執着と逃げ場のない圧力。
もともと彼は、カミラたちからエレナを地下牢へ閉じ込めるよう進言されていた。
光も届かぬ場所で飢えさせ、心身を削り、従順な状態へと追い込むために。
だが――
その選択は、すでに彼の中から消えている。
(彼女に、そのような扱いは相応しくない。何故なら――)
「――我が妻よ」
思考の帰結を示すかのように、当然の事実を告げる声音でそう呼んだ。
エレナの指先が、わずかに強張る。
同時に、背筋をなぞるような不快な感覚が走った。
「……やめてください」
震えを押し殺した声。
だが、その拒絶は最初から存在しなかったかのように、何の抵抗もなく受け流される。
ファビアンは感情の揺らぎすら見せず、ごく自然な動作でエレナの手を取った。
温度のあるはずの掌が、妙に冷たく感じられる。
そのまま、抗う余地も与えられぬままに連れ出される。
廊下は静まり返っていた。
足音だけがやけに大きく響き、その一歩ごとに現実から切り離されていくような錯覚が胸に広がる。
どこへ向かっているのかを考える余裕すら、与えられない。
やがて辿り着いたのは、研究施設の中でも異質な一室――ファビアンの私室だった。
地下とは思えぬほど清潔に整えられ、塵一つなく、調度品のすべてが計算され尽くしたかのように配置されている。
だが、その“整いすぎた”空間は、どこか人の温もりを拒む冷たさを帯びていた。
生活の気配はなく、そこにあるのはただ、理想という名の形だけをなぞった歪な箱庭だった。
その中心で――
ファビアンは静かに跪いた。
唐突なその動作に、エレナは息を呑む。
「どうか、私の伴侶となっていただきたい」
疑いも躊躇もなく、ただ当然の帰結として告げられる言葉。
差し出された手。
祝福の場面を模したかのように整えられたその構図は、あまりにも現実から乖離していた。
整っているはずの光景が、どこまでも空虚で、歪んで見える。
「……なぜ……」
喉の奥から、かろうじて絞り出された声。
それは問いであると同時に、崩れかけた意識を繋ぎ止めるための、最後の拠り所でもあった。
その言葉を受けて。
ファビアンは、心の底から歓喜しているかのように、ゆっくりと微笑む。
「あなたは、選ばれた存在だからです」
その声音は祝福のように柔らかく、それでいて逃れようのない呪いのように、静かに空気へと染み込んでいく。
「僕らは――創造の神と女神になる」
迷いも、疑念も一切ない。
完成された確信だけが、そこにはあった。
そして彼は語り始める。
この地下にいる“子どもたち”の正体を。
淡々と、まるで長く用意してきた講義をなぞるかのように。
彼らは皆、不治の病に侵された者たちであること。
いずれ訪れる死から逃れる術を持たぬ、選ばれなかった命であること。
そして、その命を繋ぎ止めるために――
人としての形を捨てさせ、異形へと変質させる実験が繰り返されているという事実を。
「成功すれば、生きられます」
静かな声音。
一見すれば救いのようにも聞こえるその言葉は、しかし次の瞬間、無残に裏切られる。
「もっとも――その大半は、死にますがね」
わずかな間を置き、あまりにも軽く言ってのける。
命の重みなど、初めから秤に乗せる価値すらないかのように。
その無造作さこそが、何よりも残酷だった。
「私は彼らの父であり、導き手であり――神だ」
誇らしげに言い切るその姿には、躊躇という概念そのものが存在しない。
狂気はすでに彼の中で“正しさ”として完成している。
その思想は深く、そして決して揺るがない。
さらに――
「失敗作は処分され、資金として再利用されます」
何気ない調子で続けられたその一言が、刃のようにエレナの胸を深く抉った。
一瞬、理解が追いつかない。
そして次の瞬間――
エレナの呼吸が、止まる。
(……そんな……)
視界の端が暗く滲み、足元の感覚が遠のいていく。
立っていることすら困難になるほどの眩暈が、全身を襲った。
震えが、止まらない。
脳裏に焼き付いて離れないのは、あの子どもたちの瞳。
怯えと諦めを宿しながら、それでもなお誰かを求めていた、小さな命。
その行き着く先が――
“処分”という言葉で切り捨てられる未来だと知ってしまった今、胸の奥が痛んだ。
ぽろり、と。
涙が静かに零れ落ちる。
それは恐怖ではない。
絶望でもない。
ただ純粋に――
理不尽に晒される命への、悲しみと哀れみから生まれたものだった。
その様子を。
ファビアンは陶然とした表情で見つめていた。
「……ああ……」
うっとりとした吐息が、静寂の中に溶けていく。
「やはり、あなたは――」
言葉を噛みしめるように、ゆっくりと。
深く、深く魅了されたように。
「女神だ」
その確信は揺らぐことなく。
まるでそれが最初から決まっていた事実であるかのように、静かに言い落とした。




