第二十四話:リヒト潜入
闇ギルド長リヒトは、単身でアイーゼ自由都市連合へと潜り込んでいた。
明確な証拠があったわけではない。ただ、長年裏の世界を渡り歩いてきた者だけが持つ、説明のつかない“勘”が、彼をここまで導いていた。
連邦国の最高議長筋から流れてきた、一つの報告。
だが、その内容は、リヒトの中で妙な引っかかりを残していた。
――議会幹部の一人が、グラティオラ公国のカジノに異様なほど入れ込んでいる。
それ自体は珍しい話ではない。だが問題は、その人物が管理している都市だった。
そこでは公国に対する優遇が、露骨なまでに行われている。交易、資金の流れ、人の出入り――表の制度においても、裏のルートにおいても、その偏りは不自然なほど顕著だった。
(……あまりにも都合が良すぎる)
王弟の婚約者を誘拐するなどという大それた犯行。
そんな危険を冒す連中が、わざわざ拠点を自国――グラティオラ公国に置くだろうか。
(普通は、疑いを逸らす)
ならば――答えは一つだった。
「……灯台下暗しか」
低く呟いたリヒトの目に映っていたのは、都市の外れに佇む一つの建物だった。
古びた教会。
壁は風雨に晒されて色を失い、屋根もところどころ痛んでいる。それでも完全な廃墟ではなく、最低限の手入れだけは施されている様子が見て取れた。
(……不自然だ)
静かに足を踏み入れる。
人の気配はほとんどない。だが、完全な無人とも違う。わずかに残る生活の痕跡が、逆に不気味さを際立たせていた。
祈りの間の奥。
装飾の影に隠れるようにして、不自然に磨り減った床がある。
しゃがみ込み、指でなぞる。
(……頻繁に使われている)
視線を滑らせると、わずかにずれた石板。
それを押し込むと、鈍い音とともに床の一部が沈み、暗い口を開けた。
地下へと続く通路。
「……当たりか」
小さく息を吐き、リヒトは腰元から連絡用の魔道具を取り出す。
短くコードを打ち込み、応援要請の信号を送った。
(保険だ。まあ、間に合うとは思ってねぇがな)
魔道具を収めると、躊躇なく闇の中へと足を踏み入れる。
階段は長く、空気は重く、湿っていた。
下へ進むほどに、わずかに漂う異質な気配が濃くなっていく。
やがて辿り着いた先は――広い空間だった。
そして。
「……見つけた」
その中央に、エレナの姿があった。
異形の子どもたちに囲まれながら、まるで彼らを庇うように、静かに抱き寄せている。
恐怖に怯えるでもなく、拒絶するでもなく、ただそこに“在る”というように。
その光景に、リヒトは思わず口元を緩めた。
「……嬢ちゃんらしいな」
苦笑にも似た、だがどこか安堵の滲んだ声。
「嬢ちゃん、助けに来た」
呼びかけると、エレナの顔がぱっと上がる。
「リヒトさん……!」
その声に宿る安堵と驚きが、ここまでの状況を物語っていた。
だが、二人の間には分厚い障壁があった。
扉――いや、封鎖された結界そのものが、侵入を拒んでいる。
(面倒な術式だな……)
軽く舌打ちしながらも、すぐに状況を見極める。
その間にも、エレナの視線は揺れていた。
「マリアと……エリカは……?」
か細い声。
だが、その問いに込められた想いは重い。
リヒトは一瞬だけ目を伏せた。
「……二人とも、死んだとは聞いていない」
あえて言葉を濁す。
それでも、エレナの表情はわずかに緩んだ。
(それでいい)
マリアは意識を取り戻したものの、自責に耐えきれず半狂乱となり、現在は魔術で眠らされている。
エリカは瀕死の重傷に加え、魔力を失い、未だ意識は戻っていない。
だが――それを今、伝える意味はない。
「こっちはなんとかする。少しだけ耐えてくれ」
短く、しかし確かな声音で告げる。
そのときだった。
空気が変わる。
「……よく、ここが分かったね」
どこからともなく、低い声が響いた。
同時に、複数の気配が蠢く。
――異形。
先ほどの子どもたちとは明らかに違う、戦闘用に調整された存在。
歪んだ筋肉、異常に発達した四肢、理性の欠片も感じられない瞳。
それらが、次々と姿を現す。
「僕の妻を渡すわけにはいかない」
どこからともなく響いた声は、湿り気を帯びた粘着質な狂気を孕んでいた。
「この子たちは軍事目的で作られた特殊個体さ。魔物から造り替えたから自我がなく、とても扱いやすい。侵入者一人くらいなら、なぶり殺すのも造作ないことだ……。ああ、楽しみだねぇ」
闇の奥から滲み出してきたファビアンの気配。その言葉は研究成果を自慢する子どものように無邪気だった。
だからこそ、底が見えないほどに歪んでいる。
「僕の妻、だと……?」
その歪な独占欲を耳にした瞬間、リヒトの背筋を冷たい嫌悪感が駆け抜けた。
目の前の男は、あろうことかエレナを自分の所有物だと断じたのだ。それも、おぞましい実験体どもに「侵入者を殺せ」と命じる、その狂った口調のままで。
(……救えねぇな、こいつは)
リヒトは口を歪ませ、込み上げる吐き気に耐えた。
心の底から湧き上がるのは、煮えくり返るような怒り。
「やっぱり、とびきり面倒な奴が出てきやがった」
呟きとともに、腰元から音もなく愛刃を抜き放つ。
鈍い光を放つ刃が、闇の中でわずかに閃いた。
「――ま、やることは変わらねぇがな」
据えた視線の先には、迫り来る無数の異形。
歪んだ筋肉を波打たせ、理性の欠片もない咆哮を上げる怪物たち。その圧倒的な質量を前にしても、リヒトの表情に揺らぎは微塵もない。
ただ静かに、死を宣告するように唇を動かす。
「全部、斬り捨てて――連れて帰る」
その言葉を合図に。
闇ギルドの長は、最初の一歩を踏み出した。




