第二十話:奪われた守護
意識が、ゆっくりと浮上していく。
重たい瞼の裏で、断片的な記憶がちらついた。
夜の庭。血の匂い。マリアの苦しげな表情、負傷したエリカ――。
「……ん……」
かすかな声が漏れ、エレナはようやく目を開けた。
視界は薄暗く、石造りの壁がぼんやりと輪郭を持って浮かび上がる。空気はひどく淀んでいて、湿った冷気が肌にまとわりついた。
(ここは――どこ?)
体を起こそうとした瞬間、鈍い違和感が全身を走る。力が入らない。
それでも周囲を見渡そうとしたとき、耳に届いたのは、場違いなほど軽い調子の声だった。
「いやぁ、これだけ大量の転移魔道具を使ったのは初めてですよ」
低く笑う男の声。
「資金が潤沢な国は違いますねぇ。実に羨ましい」
その声音に、ぞわりと背筋が粟立つ。
――転移、魔道具。
その単語が意味するものを理解した瞬間、血の気が引いた。
(まさか……)
ゆっくりと顔を向ける。
そこにいたのは――
「……どうして……」
信じたくない現実に、声が震えた。
「おや、お目覚めになりましたか。改めまして、公国の闇ギルド長をしております、ハンスと申します」
エレナを攫った男は、この場にそぐわない口調で気軽に挨拶をした。
その異常さにエレナの背中にゾクリとしたものが走る。
「何故、こんな事を……?」
視線の先で、淡く微笑んでいたのは、公国の公女――ローゼマリー。そして、その背後に控えるカミラだった。
エレナの問いには、まるで興味がないかのように。
「ねぇ、ブローチはどこ?」
ローゼマリーは、ただそれだけを口にする。
視線すら合わない。
まるで、エレナという存在が最初からそこにいないかのように。
ハンスが恭しく一歩進み出て、小箱を差し出した。
「こちらに。絶対に開けないで下さいね、追跡魔法が発動しますから」
それを受け取ったローゼマリーは、愛おしげに両腕で抱きしめる。
「……やっと、戻ってきたわ……」
恍惚とした吐息。
「私の、宝物」
その表情は、幸福に満ちているはずなのに。
どこか壊れていて、現実離れしている。
「早く身につけたいの、カミラお願いね」
ローゼマリーは、待ちきれないとばかりに、カミラに甘える様な声を出す。
「はい、お任せ下さい。禁忌の呪術であれば王家の守りといえども打ち消せます。ですが準備がございます、少々お時間を下さいね」
カミラは力強く頷き、自信を宿した顔で微笑む。
「どうせまた、沢山の生贄を使うんでしょうねぇ……」
呆れた様に肩をすくめるハンス。
エレナは、目の前の会話があまりにも現実離れしていて理解できない。
(ブローチが公女の宝物?生贄って……何をするの?)
「……それは」
エレナは、怯えつつも絞り出すように言葉を紡ぐ。
「私が、ジャック様にいただいたものです」
ローゼマリーが、きょとんと首を傾げた。
「……?」
まるで意味がわからない、と言わんばかりの顔。
「何を言っているの?」
穏やかで、無垢ですらある声音。
「これは、私とあの方の――出会いの記念のお品なのよ?」
その言葉に、胸の奥が冷たくなる。
「このブローチから、物語は始まったの」
うっとりと目を細め、ローゼマリーは語り出す。
まるで夢をなぞるように。
「お姫様と王子様は、薄暗い地下で出会うの。お互いの身分を隠したまま……運命に導かれるように」
その声は甘く、しかし現実とは決定的に乖離していた。
「そして――豪華な宮殿で再会するのよ。二人は強い絆で結ばれて、誰にも引き裂かれない幸せを手に入れるの」
ゆっくりと、エレナへと視線が向けられる。
「だから――」
にこり、と微笑んだ。
「あなたの役割は、もう終わり」
ぞくり、と全身が粟立つ。
その瞳は、こちらを見ているのに――何も見ていない。
「今まで、ご苦労さま」
優しい労いの言葉のはずなのに、そこにあるのは明確な“排除”だった。
息が詰まる。
言葉が出ない。
(この人……)
理解してはいけない何かを、理解してしまいそうになる。
その空気を断ち切るように、
「――最後の仕上げですね」
カミラが一歩前に出た。
歪んだ笑みを浮かべながら、手にした魔道具を起動させる。
カチリ、と乾いた音。
次の瞬間、冷たい金属が首に触れた。
反射的に身を引こうとしたが、間に合わない。
首元に嵌められたそれは、ぴたりと皮膚に吸い付くように固定された。
「……っ、これは……」
喉元に感じる、異様な圧迫感。
カミラが満足げに微笑む。
「それは“シオピの首輪”と申しますの」
やけに楽しげな声音。
「私たちに関することを口にしようとすると――喉に激しい痛みが走り、言葉を発することができなくなります」
さらりと告げられた内容に、血の気が引く。
「……どうして、そんなものを……?」
問いかける声は、わずかに震えていた。
それを見て、カミラは嬉しそうに目を細める。
まるで、秘密を打ち明ける子どものように。
「ええ、それは――」
ゆっくりと口を開いた。
「実は――」




