第十八話:影の決断
――時は、少し遡る。
茶器を片付け終えたエリカは、主の待つ部屋へと戻っていた。
護衛対象の傍を離れる時間は、極力短く。それが影として叩き込まれた基本であり、同時に彼女自身が守り続けてきた矜持でもある。
だからこそ――
「あれ……?」
扉を開けた瞬間、胸の奥に小さな違和感が落ちた。
そこにあるはずの気配が、ない。
「お二人とも……いらっしゃらない?」
エレナも、マリアも、室内にはいなかった。
整えられた室内は静まり返り、つい先ほどまで人がいたとは思えないほど、気配だけが綺麗に抜け落ちている。
(護衛の私を置いて……?)
あり得ない、と即座に断じる。
この部屋は強固な結界に守られている。だからこそ、エリカは一時的に席を外したのだ。
そして、外へ出る際は必ず護衛が付き添う――それが絶対の決まり。
エレナが軽率に動くはずがない。
そしてマリアもまた、それを止める側の人間だ。
二人が揃って無断で部屋を離れるなど――考えられない。
――何かがおかしい。
その確信にも似た予感が、じわじわと全身を侵していく。
エリカはすぐさま廊下へ出て、近くにいた使用人に声をかけた。
「エレナ様を見ませんでしたか?」
「ええと……先ほど、裏庭の方へ向かわれたようですが……」
「裏庭……」
短く礼を述べると同時に、エリカの足はすでに動き出していた。
ただの散歩であればいい。だが、胸騒ぎは収まるどころか、確実に強くなっている。
裏庭へと辿り着いたとき、そこは不自然なほど静まり返っていた。
風が枝葉を揺らす音だけが耳に残り、逆にその静けさが異様さを際立たせる。
「……いない?」
視界に人影はない。だが――
(……魔力?)
空気の奥に、僅かな歪み。
目には見えないはずの“何か”が、そこに確かに存在している。
「結界……?」
瞬時に理解する。
これは単なる隠蔽ではなく、内外を遮断するための高度な魔術だ。
(……やられた)
思考より先に身体が動く。
腰の短剣を抜き、魔力を流し込み、狙いを定める。
「――そこっ!」
放たれた刃が空間に触れた瞬間、鈍い反発が返り、次いで硬質な破砕音が響いた。
――ぱきり、と。
見えない壁が砕け、隠されていた光景が露わになる。
「エレナ様!」
思わず声が上がる。
そこには、血に染まったマリアと、それを支えるエレナ、そして――見知らぬ男の姿。
一瞬で状況を把握する。
(刺客……マリアさんが負傷……時間がない)
応援を呼ぶ余裕はない。
迷いは、許されない。
(今、この場で守る。それが私の役目だ)
「――下がってください、エレナ様!」
エリカは迷いなく前へ出た。
身体はすでに戦闘態勢へと移行している。
それを見た男が、小さく舌打ちを漏らした。
「チッ……もう見つかったか」
次の瞬間。
男の姿が、視界から消えた。
「――っ!?」
反応が、わずかに遅れる。
横合いから叩き込まれた一撃が、エリカの身体を容易く吹き飛ばした。
骨が軋む音が、内側から嫌に鮮明に響く。
「……っ、ぁ……!」
呼吸が潰れ、肺が空気を拒絶する。
それでも、地面を掴み、無理やり身体を起こす。
(守らなきゃ……)
踏み込もうとした瞬間、再び衝撃が襲う。
今度は正面から。
視界が白く弾け、地面に叩きつけられる。
口の中に血の味が広がる。
(……強い……)
理解するのに、時間はかからなかった。
圧倒的な差。技も速さも力も、すべてが上回っている。
脳裏に浮かぶのは、ただ一人。
(……マックス様と同等か……)
その思考すら断ち切るように、蹴りが腹部へと突き刺さる。
「――ぐっ……!」
内臓が揺さぶられ、胃の中のものが逆流する。血が混じり、喉を焼いた。
地面を転がる。
それでも、なお起き上がろうとする。
「まだ……終わって、ない……」
掠れた声を絞り出した、その瞬間――
拳が、容赦なく顔面を打ち抜いた。
鈍い音とともに、世界が歪む。
歯が砕ける感触。鼻梁が折れる嫌な手応え。
温かい液体が、止め処なく流れ落ちていく。
それでも。
「……エレナ、様……!」
前へ出ようとする。だが足が言うことを聞かない。
「エリカ!」
エレナが自分を呼ぶ声が聞こえる。
視界の端で、エレナが倒れるのが見えた。
刺客の手によって、意識を奪われたのだろう。
届かない。
守れない。
その現実が、胸を深く抉る。
(……でも)
影として叩き込まれた鉄則が、意識の底から浮かび上がる。
――無駄死には許されない。
(今の私にできることは……)
一つだけ。
マックスから授けられた禁じ手。
影の秘術――絶対追跡。
己の肉体の一部を魔力へと変え、対象に埋め込むことで、その位置を捉え続ける術。
有効範囲は数キロ圏内に限られる。だが、その内にある限り、逃げ切ることは不可能だ。
だが、その代償は絶対的だった。
全魔力の喪失。 仮に命が助かっても、二と“影”としては生きられない。
それでも。
(……構わない)
迷いはなかった。
(エレナ様を、取り戻せるなら)
口内に力を込める。
――ゴキリ。
嫌な音が頭に響き、砕けた歯の感触が舌に触れる。
広がる血の味。遠のく意識。
それでも、その欠片に残るすべての魔力を注ぎ込む。
霞む視界の中、刺客がエレナを担ぎ上げ、去ろうとしているのが見えた。
(……今だ)
最後の力を振り絞る。
「――っ!」
吐き出された小さな欠片が、夜の空気を裂いて飛ぶ。
そして――
エレナの腕へと、わずかに突き刺さった。
(……届いた)
その確信と同時に、身体から力が完全に抜け落ちる。
指一本、動かない。
冷たい感覚が、じわじわと全身を覆っていく。
(……エレナ様……)
沈みゆく意識の中で、ただ一つの後悔が胸を満たす。
(お助けできなくて……申し訳……)
最後に思い浮かぶのは、上司の顔。
(……マックス様……あとは……)
――どうか。
その願いを最後に。
エリカの意識は、深い闇の中へと沈んでいった。




