第十七話:選択の代償
建国祭は、大きな混乱もなく終幕を迎えた。
だが――その華やぎの裏で、公国が残した爪痕は深く、静かに王国の内部へと食い込んでいた。
後処理と対応に追われるジャックたちは、連日王宮に詰めきりとなり、王弟邸へ戻る時間すら満足に取れない。
その不在こそが、隙であったのかもしれない。
エレナの部屋は、ヴィルヘルムが張った強固な結界に守られている。
さらに王家の加護を宿したブローチ――幾重もの守護が重ねられ、もはや侵入など不可能と思われていた。
誰もが、そう信じて疑わなかった。
「エレナ様、茶器を片付けて参りますね」
控えめに一礼し、エリカが部屋を後にする。
静寂が戻る室内で、ふと、侍女のマリアが小さく息を吐いた。
ここ最近、身体が妙に熱を帯びる。
意識が遠のくような、足元が揺らぐような――言葉にしがたい違和感。
(何か、おかしい……)
そう思う間もなく、視界が一瞬揺らぐ。
「マリア、最近体調が悪そうね。もう休んでいいわ。無理はしないで」
優しく声をかけるエレナ。
その声音には、主としての命令ではなく、純粋な心配が滲んでいた。
「……申し訳ございません。では、お言葉に甘えて……」
応じた、その直後だった。
マリアの身体が、びくりと震える。
「――っ」
動きが止まる。
焦点の合わない瞳。呼吸さえ浅く、不自然に途切れる。
「……マリア?」
違和感を覚え、エレナが一歩近づく。
だが、マリアは答えない。
ただ、ぼんやりとした動作で――
仕着せの腰元から、小さく折り畳まれた紙片を取り出し、エレナへと差し出した。
受け取った瞬間、エレナの顔色が変わる。
紙には、短く、冷酷な言葉が記されていた。
――『この女の命を助けたくば、何も言わずについてこい』
「……っ」
視線を上げた時には、すでにマリアは背を向けていた。ただ歩き出す。
その背に、明確な意思は感じられない。
操られている――その確信が、胸を締め付ける。
「……待って」
誰かを呼ぶべきと分かっていながら、それでも――
意を決したように、エレナはマリアの後を追う。
王弟邸の廊下を、二人は静かに進んでいく。
夜の帳が落ちた屋敷は人影もまばらで、侍女を伴う令嬢の移動を不審に思う者はいない。
やがて辿り着いたのは、人目の届かぬ裏庭。
木々の影が濃く落ちるその一角に――ひとつ、人影があった。
(……刺客!?)
反射的に身構えるエレナ。
「お待ちしておりました、エレナ様。こちらからは伺えませんのでね。来ていただけて助かりました」
低く、湿った声。
闇に紛れ、その顔は見えない。
「これを書いたのはあなたなの?マリアに何をしたの、彼女を解放して!」
怒りと焦りを押し殺し、言葉を投げる。
男は、ゆっくりと口元を歪めた。
次の瞬間、手にしていた魔道具を無造作に地面へ転がす。
――ぱちり、と。
見えない何かが閉じる気配。
「これで、しばらくは時間が稼げます」
淡々と告げながら、男はひとつの箱を差し出した。
表面には、びっしりと魔法陣が刻まれている。
「まずは、そのブローチを……この箱の中へ」
男は、エレナの腰につけられたブローチをちらりと見やる。
「ずいぶんとそのブローチに執着している方がいましてね。――不用意に触れるわけにもいかない。ですので、貴方ご自身の手で外していただけると助かります」
あまりにも露骨な要求。
エレナは思わず息を呑む。
ジャックの言葉が脳裏をよぎる。
――絶対に外すな。
それが何を意味するのか、理解しているからこそ、指先が震える。
その逡巡を、男は見逃さなかった。
「……ならば、こうしましょう」
低く呟いた瞬間。
マリアが、ゆらりと動いた。
「っ……!?」
気づいた時には、マリアの手にはナイフが握られていた。
振り上げられた刃。
その切っ先は――自らへ向けられていた。
「やめて――!」
叫びも虚しく。
刃は、ためらいなくマリアの腹へと突き立てられる。
鈍い音。
次の瞬間、口元から血が溢れ落ちた。
「マリア……っ!」
駆け寄ろうとするエレナ。
だが、それを嘲笑うかのように。
マリアは、さらに刃を振るった。
腕へ。脚へ。
躊躇もなく、自らの肉を裂いていく。
飛び散る血飛沫。
赤が、夜の闇に溶けていく。
「やめて……やめてっ……!」
声が震える。視界が滲む。
「……言うことを聞けば、止まりますよ」
男の囁きが、背筋を撫でる。
限界だった。
「……分かりました……」
涙が零れる。
震える指で、ブローチに触れる。
それがどれほど大切なものか、誰より分かっている。
それでも――
「……お願い、マリアを……」
外したブローチを、箱の中へと入れる。
途端に、幾重もの魔法陣が発光し、ブローチを封じ込めた。
同時に、男が指を鳴らす。
ふっと、マリアの身体から力が抜けた。
「マリアっ!」
駆け寄り、抱き留める。
かすかに、マリアの瞼が震える。
「……エレナ、様……お逃げ……ください……」
掠れた声。
その瞳に浮かぶのは、後悔と謝罪。
「私のことは……どうか……」
「そんなこと言わないで」
強く首を振る。
「貴方を置いていける訳がないでしょう……すぐに手当を――」
言い終える前に。
「――それは叶いません」
男が、間に割って入る。
一歩、また一歩と距離を詰める。
「エレナ様には、私と共に来ていただきます」
あと数歩でエレナに届く。
――その時。
空気を裂く鋭い音。
短剣が、男の足元へと突き刺さった。
「エレナ様!」
凛と響く声。
振り返った先に立っていたのは――エリカだった。




