第十二話:静寂に潜む呪い
王太子の執務室。
重厚な扉に守られたその空間は、静けさと規律をそのまま形にしたかのように整えられている。
高窓から差し込む柔らかな光が、磨き上げられた机を淡く照らしていた。
王太子レオンハルトは、その机に向かい、側近ルーカスとともに執務を進めていた。
紙をめくる音と、時折交わされる簡潔なやり取りだけが、室内の静けさをわずかに揺らす。
その静けさを破ったのは、控えめながらもはっきりとしたノックの音だった。
一瞬、二人の手が止まる。
「……入れ」
短く許可を出した直後、扉が開く。
現れたのは、大きな花束を抱えた一人の女――カミラだった。
白を基調とした花々は瑞々しく、部屋の空気とはどこか不釣り合いなほど華やかで、どこか作りものめいた美しさを放っていた。
「ご機嫌よう、レオンハルト様」
艶を含んだ声が、静かな室内に柔らかく広がった。
(またか……)
言葉には出さないものの、レオンハルトの心には疲れが滲む。ルーカスもまた書類に視線を落としたまま、小さく息を吐いていた。
カミラは、主であるローゼマリーと同じく、レオンハルトのもとに頻繁に訪れるようになっていた。
そして、その度に繰り返されるのは、熱のこもった求婚の言葉。
初めのうちは丁寧に断っていたレオンハルトも、今ではそれすら煩わしさに変わりつつあった。
「……お帰り下さい。貴方とお話しすることはありません」
一切の情を排した声音で、レオンハルトは言い放つ。
「まぁ……。相変わらずつれないお方ですね」
カミラはわずかに目を細め、しかし気分を害した様子もなく、むしろ楽しむように微笑んだ。
「本日は帰国のご挨拶に参りましたの」
そう言いながら、彼女はゆっくりと歩み寄る。足取りは優雅で、躊躇いがない。
その動きに合わせるように、花束から白い小さな花びらが一枚、また一枚と離れ、ひらり、ひらりと床へと落ちていく。
「せめて、お別れに花束をお贈りしたくて」
差し出されるそれに、レオンハルトの視線は一切動かない。
「贈り物など不要です」
はっきりと、拒絶の意思を示す。
それを受け取るという行為が何を意味するか、彼には痛いほど分かっていた。
王太子という立場において、些細な所作ひとつがどのような噂を呼ぶか――想像するまでもない。
カミラは一瞬、瞳を伏せる。長い睫毛が影を落とし、その表情はどこか儚げに見えた。
「最後まで、寂しいことを仰るのね……。こんなにもお慕いしておりますのに」
しかし、その言葉とは裏腹に、再び向けられた視線には、明確な熱が宿っていた。諦めなど微塵もない、むしろ確信に近い執着。
それを感じ取った瞬間、ルーカスの背筋に冷たいものが走る。
(……美しい方だが、得体が知れない)
言葉にすれば単純だが、その違和感は拭えない。
「レオンハルト様が私を娶れば、子はきっと大陸一の魔力の持ち主になりますわ」
カミラの瞳が、ゆらりと異様な光を帯びる。
「王弟殿下がローゼマリー様を、そしてレオンハルト様が私を妻に迎えれば、王国はグラティオラの支援を受け、潤沢な資金のもと更なる飛躍を遂げます。それこそ――ルーメンシュタットなど、足元にも及ばぬほどに」
その声音には、夢想めいた甘さと、疑いを知らぬ確信が混ざっていた。
「私は諦めません。そして、レオンハルト様は、いずれ私を選んでくださいますわ」
言い切るその姿に、レオンハルトの表情から感情が消える。
説得でも、懇願でもない。ただ一方的な“決定”を押し付ける言葉に、もはや応じる価値すら感じなかった。
「……道中、お気を付けて」
静かに言い、わずかに視線を外す。
「ルーカス。カミラ様はお帰りになられる。廊下までお連れして差し上げろ」
それは丁寧な言葉を装った、明確な退去命令だった。
「…………」
カミラは何も言わず、ただ微笑む。その笑みは崩れず、どこまでも静かで――だからこそ、不気味だった。
「どうぞ、こちらへ」
ルーカスが一歩前に出て、扉の方へと手を差し示す。
カミラは素直に従い、ゆるやかな足取りで執務室を後にした。
扉が閉まる音が響いたあと、ようやく室内に静けさが戻る。
「……はあ」
堪えていた息を吐き出すように、レオンハルトは小さく溜め息をついた。
そのときだった。
先ほど花束から落ちた白い花びらの一枚が、音もなく宙に浮かび――
すう、と、かき消えた。
残されたのは、淡く揺らぐ靄。
それはゆっくりと、部屋の隅へと流れ、影に溶け込むように消えていく。
だが――
カミラの残した違和感に意識を奪われていたレオンハルトは、その異変に気づくことはなかった。
*
宮殿の奥、人気のない廊下。
灯りは落とされ、静まり返った空間に、靴音だけがゆっくりと響いていた。
黒髪に、夜を映したような黒い瞳。
どこか人ならざる気配をまとった美女――公女の侍女、カミラである。
その足取りは緩やかで、この宮殿の構造など、すでに把握しているかのようだった。
カミラは、公国においても指折りの魔術師だった。
とりわけ得意とするのは――呪術。
目に見えぬ形で相手を蝕み、やがては死へと至らしめる。
抵抗すら許さぬ、静かな殺しの術だった。
この力をもって、邪魔をする者は闇に葬り去ってきた。
自分と、そして――ローゼマリーの前に立ちはだかるすべてを。
(大切な、愛しいローゼマリー……)
胸の奥で、甘く歪んだ感情が波打つ。
(あなたは、私の分身。あなたの幸せは、私の幸せ)
その瞳の奥に、静かに狂気が宿る。
王弟の婚約者――エレナ。
あの女がいる限り、ローゼマリーの“物語”は始まらない。
(……許せない)
ぎり、と奥歯を噛み締める。
胸の内に渦巻くのは、ひどく純粋で、どこまでも濁った怒りだった。
(あの女さえ消えれば)
そこに、躊躇いはない。
エレナを消し、ローゼマリーが王弟妃となる。
そして――自分は王太子妃へ。
そうなればローゼと自分は、名実ともに繋がることができる。
(本当の、繋がり……)
想像しただけで、心が震えた。
喜びに、恍惚に、そして――歪んだ満足に。
やがてカミラは、静かに立ち止まる。
何もない空間に、指先で空をなぞるようにして、何かを“置いた”。
目には見えない。だが確かに、そこにある。
呪いは、すでにそこかしこに刻まれている。
そして今、最後の“仕掛け”が刻まれた。
ゆっくりと息を吐き、カミラはわずかに微笑んだ。
やり遂げた者の笑みだった。
再び歩き出す足取りは、先ほどよりも軽い。
廊下を、まるで舞うように進みながら――
「――さぁ、物語の幕開けね」
囁く声は、どこまでも甘く、冷たい。
次の朝。
何事もなかったかのように――グラティオラ公国の一行は、ひと足先に帰国した。




