第九話:物語を紡ぐ者たち
公国の動きは、早かった。
あまりに露骨なほどに。
ヴァルデンライヒ側が予測していた通り、グラティオラ公国は潤沢な資金を惜しみなく投じ、人を雇い、街のあちこちで“物語”が語られ始めていた。
公女がいかに純粋であるか。
どれほど一途に王弟を慕っているか。
そして――エレナを害する意思など一切ない、心優しき少女であることを。
事実と感情を巧みに織り交ぜたそれは、単なる噂話ではない。
意図を持って編まれた、“物語”だった。
その波は、静かに、しかし確実に市井へと広がりつつある。
*
夜。
王都の一角にある酒場は、いつも通りの喧騒に満ちていた。
酒の匂いと、人々のざわめき。
雑多な笑い声の中に、ひときわ熱を帯びた声が混ざっていた。
「公女様はな……幼い頃は苦労されていたんだ」
語っているのは、どこにでもいそうな一人の男。
だが、その語り口は妙に芝居がかっていて、聞く者の感情に訴えかけるように練り込まれている。
離れた席で杯を傾けながら、その様子を観察している二人の男がいた。
リヒトとマックス。
互いに視線を交わすことなく、しかし同時に気づく。
(……サクラだな)
「このヴァルデンライヒで、身分を隠して暮らしていたそうだ。今の王妃様と共に、な」
男は続ける。
まるで見てきたかのように、感情を込めて語る。
「やっと平穏を手に入れたと思った矢先に、誘拐だ。どれほど怖い思いをされたか……想像もつかない」
周囲の客たちが、次第に話へと引き込まれていく。
酒の席にありがちな与太話とは違う。
妙に“出来すぎている”のだ。
「そんな中で命を救ってくれた騎士様だぞ?そりゃあ、感謝以上の気持ちを抱いても不思議じゃないだろう」
熱を帯びた語り。
まるで一編の英雄譚のように仕立てられたそれに、何人かが頷く。
だが、別の男が眉をひそめて口を挟んだ。
「だがよ、王弟殿下には婚約者がいるって話じゃないか。しかも、かなり入れ込んでるって」
当然の疑問だった。
場の空気が、わずかに揺れる。
すると語り手の男は、ほんの一瞬だけ視線を落とし――
悲しげに笑った。
「……ああ、もちろんだ」
静かに、しみじみと。
「公女様は、お二人の仲を裂こうなどとは、これっぽっちも考えておられない」
声が、わずかに震える。
「ただ……お傍にいられるだけでいいと。そう、涙ながらに仰っていたと聞く」
その言葉に、場の空気が一気に沈む。
同情と、やりきれなさ。
その空気を逃さず、別の男が横から口を挟んだ。
「だがよ、それって悪い話か?」
軽い口調だったが、その言葉にははっきりとした意図が滲んでいた。
「公女様を側室に迎えれば、経済的にも悪くないだろう。あの国、相当金持ってるんだろ?」
周囲の視線が、わずかに揺れる。
感情に傾きかけた空気へ、今度は現実的な話を差し込むように――
「むしろ、メリットしかないんじゃないか?」
ぽつりと落とされたその一言に、場の空気がゆっくりと変わっていく。
その様子を、リヒトは舌打ちしそうになるのを堪えながら見ていた。
(……分かりやすい手口だな)
隣でマックスが、わずかに息を吐く。
「主様の予測通りだ」
淡々とした声だった。
「チッ……気に食わねぇな」
リヒトが低く吐き捨てる。
「こんな回りくどいことしやがって」
その声は、余裕がないほどに苛立っていた。
「こうなる前に、公国の闇ギルドごと潰しときゃ良かったぜ」
それは決して大言壮語ではない。
リヒトは今まさに、大陸中の闇ギルドを少しずつ掌握しつつあった。
力だけではない。
人を見極め、流れを読み、必要な場所に必要な手を打つ。
並の人間にできる芸当ではなかった。
その背を見ながら、マックスは内心で静かに評価を改める。
(……見た目に反して、やはり底が知れない)
粗野な言動の奥にあるのは、緻密な思考と実行力だ。
やがて、サクラの男たちは役目を終えたかのように席を立ち、自然な流れで店を後にした。
後に残されたのは、どこか座りの悪い、歪に傾いた空気だ。
公女への憐れみと、損得勘定。それらが混ざり合い、ひどく中途半端な場となっていた。
リヒトは、ゆっくりと立ち上がる。
「さて、と」
口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「このままにしとくわけにもいかねぇな」
マックスもまた、静かに立ち上がった。
視線が、同じ方向を向く。
すでに、次の一手は決まっている。
リヒトが、何気ない調子で近くの席に声を投げた。
「――なぁ、さっきの話の続き、知ってるか?」
その一言で、流れが変わる。
目に見えない場所で、確実に。
こうして――
王国と公国の戦いは――すでに、水面下で始まっていた。




