第八話:公女のアプローチ
ジャックのいる場所には、なぜか決まって彼女が現れる。
グラティオラ公国公女、ローゼマリー。
遠慮という言葉を知らぬかのように、距離を詰め、屈託のない笑顔で甘えるように言葉を重ねてくる。
「ジャック様、お慕いしております!」
その告白は、もはや儀式のように繰り返されていた。
だがジャックは、毎度変わらぬ冷淡さで応じる。
名で呼ぶな。自分に必要なのはエレナただ一人――そう何度も、はっきりと伝えている。
それでも。
ローゼマリーは意に介さない。
まるでその拒絶すら届いていないかのように、きらきらと輝く瞳で、ただひたむきに想いを語り続ける。
そして、エレナとの時間を邪魔するなと告げられると、驚くほど素直に引き下がるのだ。
寂しそうに、今にも泣き出しそうな表情を浮かべながら。
――だが、しばらくすればまた現れる。
その繰り返し。
あまりにも健気で、あまりにも一途であるがゆえに、いつしか周囲には彼女を擁護する声すら生まれ始めていた。
そんなある日のこと。
エレナは侍女マリアを伴い、騎士団長執務室へと向かっていた。
その途中で――案の定、彼女は現れる。
「エレナ様! ご機嫌よう」
ぱっと花が咲くような笑顔。
無邪気で、眩しいほどの明るさ。
(やっぱり、現れた)
内心でそう呟きながら、エレナはわずかに気持ちを引き締める。周囲の召使いたちもまた、さりげなく視線を向け、二人のやり取りを窺っていた。
「ジャック様にご挨拶して来たのですが、追い出されてしまいました……」
しゅん、と肩を落とすローゼマリー。
その表情は痛ましく、庇護欲を誘う。
「ですが、いつかきっと……私の気持ちに応えてくださると、信じていますの」
潤んだ瞳に、揺るがぬ想いを宿して。
その姿に、周囲の空気がわずかに傾く。自然と、同情の気配が滲んでいく。
(計算だとしたら凄すぎる……)
エレナは内心でそう呟きながらも、表には出さない。
「……そうですか」
肯定も否定もせず、ただ静かに受け流す。
それ以上深入りせず、この場を離れようと足を進めかけた、その時だった。
「あら、こちらのブローチは……」
ローゼマリーの視線が、ふとエレナの腰元へと落ちる。
控えめに飾られた、銀のブローチ。
その一点を――
無表情のまま、じっと見つめている。
焦点の合っていない、どこか遠くを見ているような目。
空気が、微かに揺らぐ。
「……あの、なにか?」
違和感に耐えきれず、エレナが声をかける。
その瞬間。
はっとしたように、ローゼマリーの表情が戻った。
「いえ……あまりにも素敵なブローチでしたので、つい見惚れてしまいました」
恥ずかしそうに微笑むその様子は、先ほどまでの気配が嘘のようだった。
だが、どこか――噛み合っていない。
わずかな違和感が、胸の奥に引っかかる。
その空気を断ち切るように、カミラが一歩前へ出る。
「マリア様、お話しするのは初めてですね。以前からご挨拶したいと思っておりましたの」
柔らかな声音。
だが、その奥に潜むものは読み取れない。
「同じ侍女同士、どうか仲良くしていただきたく存じます」
まるで、これからも関わりが続くことを前提としたような言い回し。
マリアは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに表情を整える。
「……どうか、よろしくお願いいたします」
差し出された手を取る。
その瞬間。
ぴり、と。
手の甲に鋭い痛みが走った。
思わず顔をしかめるマリア。
「マリア様? どうかなさいました?」
心配そうに覗き込むカミラの顔には、何の異変も見られない。
「いえ……なんでもありません」
訝しさを覚えながらも、そう答えるしかなかった。
「ローゼマリー様、そろそろ参りましょう。エレナ様のご迷惑になってはいけません」
カミラの言葉に、ローゼマリーは素直に頷く。
「そうね。正妃様を立てるのも、側妃のお役目ですもの!」
その言葉は、あまりにも自然で――
まるで、すでに決まった未来を語るかのようだった。
一瞬、空気が凍りつく。
エレナも、マリアも、そして周囲の者たちも、反応に困る。
「それでは、またお会いしましょうね」
無邪気な笑顔を残し、二人はその場を去っていく。
「……マリア、行きましょう」
短く告げるエレナの声には、わずかな緊張が滲んでいた。
胸の奥に残る、拭いきれない違和感。
言葉にできない不安が、静かに広がっていく。
その背後で――
去り際に一度だけ振り返ったカミラが、エレナたちをちらりと見やる。
そして。
誰にも気づかれぬまま、口元を歪めた。
にぃ、と。
愉しむように。
歪に嗤っていた。
*
騎士団長執務室。いつものように差し入れが運ばれ、ささやかな休憩の時間が訪れていた。
客用のソファに並んで腰掛けるエレナとジャック。温かな茶の香りが漂う穏やかな空間のはずなのに、その場に満ちる空気はどこか重く、静かに沈んでいる。
原因は明白だった。
所構わず現れるローゼマリー一行――その存在に、エレナは知らず知らずのうちに心を削られていた。
小さく息を吐く。抑えきれなかった疲労が、かすかな溜め息となって零れた。
その様子を見逃さず、ジャックはそっと視線を向けた。
そして、ためらいなくエレナの肩を抱き寄せる。
「エレナ……すまない。あの公女たちを強制的に送り返せればいいのだが」
低く押し殺した声音には、抑え込まれた苛立ちと、どうにもならない現実への悔しさが滲んでいる。
エレナはその腕の中で、わずかに首を振った。
「……いえ、政治的に難しいのはわかっていますから。ただ……少し、落ち着かないだけです」
困ったように微笑むその表情は柔らかいが、その奥には確かに疲労の色があった。
「すでに貴族たちから圧力が掛かり始めている。兄上からも、帰国するまでは刺激するなと釘を刺されている」
ジャックは忌々しげに言葉を吐き出す。瞳の奥には、はっきりと怒りが灯っていた。
「それを理解しているのか、日に日に図々しくなってきている……」
低く唸るような声音。
その気配に、室内の空気が一瞬で張り詰める。近くに控えていた騎士たちでさえ、わずかに息を潜めた。
その緊張を、静かに断ち切るように。
副官ハインリヒが一歩進み出る。
「……城下町で、噂が広まり始めています。内容は、公女様に好意的なものが多いようです」
報告は簡潔だったが、その意味は軽くない。
だがジャックは、わずかに顎を引くだけだった。
「問題ない。そこはすでに手を打ってある」
揺るぎのない声音。
そしてふと、エレナの腰元へと視線を落とす。
銀のブローチ。静かに光を宿すそれに手を伸ばし、確かめるように指先で触れた。
「エレナ――守護のブローチは、決して手放すな。それさえ身につけていれば、お前の身は守られる」
言葉は短い。だがそこに込められた想いは、重く、確かだった。
「他人が無理に外そうとすれば、反撃するようになっている。だが……お前自身の意思だけは例外だ。絶対に、自分から外すな」
エレナはしっかりと頷く。
「はい。肌身離さず、つけています」
その返答を聞いた瞬間、ジャックの腕にわずかに力がこもる。
逃がさぬように、確かめるように。
「……もう少しの辛抱だ」
低く、押し殺すような声。
そして、堪えきれない本音が漏れる。
「……くそっ。いっそ、すぐにでも結婚してしまいたい」
その言葉に、エレナはふっと表情を緩めた。
張り詰めていた空気の中で、ほんの一筋、柔らかな光が差し込む。
「ふふ……はい。その時が、待ち遠しいですね」
静かな微笑み。
それだけで、重苦しかった空気が、ほんのわずかに和らいでいった。




